第14話

 茉優ちゃんと李音とは、次の日から冷戦状態になった。二人は実はそんなに仲がよくないんだろうな、とうすうす感じることは今までもあったが、予感は当たった。李音は変わらずわたしと一緒にいたけれど、茉優ちゃんはもといたグループに戻っていた。時折こちらをちらちらと見ながら、楽しそうにおしゃべりをしていた。その視線と、時折聞こえてくる言葉から、話題は容易に想像ができた。

 そんな風に何日経っても、冷戦は解消される気配がなかった。「だって、より戻したってぼくにメリットないし」いつかの昼休み、仲直りしないのと訊いた時、李音は平然とスティックパンをかじっていた。本人たちはケロッとしているのに、わたしだけが気を揉んで、いつもより余計に空回りしていた。

 とはいえ、茉優ちゃんがこちらに話しかけてくることもあった。たいてい、李音はそこにいるのだけれど、茉優ちゃんは李音がいないように振舞い、わたしだけを見て話をした。

 ある時、「ゆかり」と尖った声で呼びかけられ、教室の外まで呼び出された。いつもみたいに李音を無視して話さないことに、わたしは少し面食らいつつ、黙って茉優ちゃんについて行った。

「ゆかりって、SNSとかやってないよね」

「うん」わたしはおずおずと頷く。スマホは買ってもらったけれど、格安のやつで、容量が少ない。LINEを入れるだけですぐにパンクしてしまう。

 茉優ちゃんは視界に先生がいないのを確認してから、わたしに自分のスマホを見せた。何かSNSの画面、らしい。文字列を見た途端、わたしの目はそこに釘付けになった。

『子どもを探しています』

 おそらく水族館だろう、青い画面の中、水槽の前に立つおさげの子どもの写真は、紛れもなくわたしのものだった。

 さあっ、と血が足元におりていく。

 写真付きの投稿には、プロフィールも仔細に綴られていた。水野ゆかり。当時は十歳の写真で、今は十七歳。身長はやや低め。O型。××町に住んでいたことあり。先生たちが「ネット上に出してはいけない」と口酸っぱく言う類の情報が羅列されている。どこで撮られたのかもわからない、ランドセルの後ろ姿の写真もあった。現状については、「行方不明」とだけしか触れられていない。

「拡散希望ってタグついてるけど、これ、ゆかりだよね?」

 青ざめているのが自分でもわかる。わたしはきつく唇を噛んだ。返事をする余裕がなかったけれど、わたしの反応から茉優ちゃんは全てを察したらしい。

「お父さん?」

「……たぶん」

 殺意と恐怖がごちゃ混ぜになって、身体中を満たしていく。

 これを見た人はなんて思うだろう。殊勝な父親が娘を探していると思うのだろうか。可哀想だ、少しは力になってあげたいと思い、情報をより多くの人の目に留まるよう拡散するのだろうか。「少しでも心当たりがあれば連絡してください」という文面を真に受けて、わたしを知っている人が連絡をしたりするのだろうか。

「……こういうの、たまにあるんだよ。この間もニュースになってたでしょ。ストーカーがこんな風に行方不明者を装ってターゲットを探して、殺しちゃった、って」

「殺……」

「それは極端な例だと思うけど」慌てて茉優ちゃんが声を張り上げる。

「妻子に出て行かれた父親がそうやって探すとかさ、けっこうあるっぽいんだよね。だからこういう行方不明者を探してますって投稿は危ないって」

 ゆかりなんだよね、と茉優ちゃんはもう一度念を押した。

 お父さんは今までも、こうやってわたしたちを探して来たのだろうか。

「この間はごめん。――あたしにできることあったら言ってよ。ゆかりとはまだ仲良くしたいし、ちゃんと心配だから。この投稿も通報して、拡散したうちの学校のヤツしばいてくるから」

 茉優ちゃんの顔に、いつもは絶対に見せない不安が浮かんでいる。それほどの事態なのだと思うと、なお恐ろしかった。



 その後も冷戦が解消されることはなく、わたしは李音と茉優ちゃんと個別に話す日々ばかりが続いた。表立っての衝突はないので、思いのほか日々は平穏だった。例の写真のことを李音に話すと、李音はほとんど毎日、わたしを家まで送ってくれるようになった。バイトがある日でも、李音はあれこれ手を尽くしてついてきてくれた。「何かあったら、ぼくが追い払うから」と李音は勇ましかった。頼もしい一方で、また友達におんぶにだっこになってしまう自分が恥ずかしかった。

 テストが明けて、夏休みが目前に迫ったころには、その手の警戒心もすっかり消えかけていた。これだけ身構えていて何もなかったのだから、きっと平穏が続くはずだと思っていた。

 その幻想は、「ゆかり」とわたしを呼ぶ低い声に、簡単に打ち壊される。

 例の団体がいたのと同じ、駅前のロータリー。振り返るとお父さんがいた。

 身ぎれいにしていて、髭もきちんと剃っている。表情も柔らかで、服だってどこにでもあるシンプルで清潔なもので。こうしてみると、とても暴力をふるうような気性の激しい人には見えない。いっそ見るからに悪人だったら楽なのに、だからこそ事態は厄介だ。

 一緒に帰ろう、とお父さんは言った。例の、不穏なほど優しい声だった。横にいる李音は見ない。お父さんの目には、わたしと、自分に都合のいい世界しか見えていない。

 李音が一歩踏み出そうとするのを制す。わたしはただ李音の手を握った。自分じゃない体温に縋る。勇気はまだ出ない。怖くて仕方ない。だけどわたしは声を振り絞る。

「もういい加減こういうのやめて」

 震えを押し殺そうとしても、どうしようもなく、情けない声音になった。わたしは奥歯に力を込める。殴るなら殴ればいい。公衆の面前で。わたしはまっすぐお父さんを睨む。

「何言ってるんだ、落ち着けよ」

 お父さんはへらへらと笑いながらわたしを諭す。その下に怒りがあるのは、片方だけ口角の上がった笑みに隠されていても、わかる。

「俺だって反省したし改心したんだよ。あの頃の俺はひどかった。それはわかってる。だから生まれ変わったんだよ、お前らのためにさ。――また三人で普通の家族として暮らそう。大学の金だって必要だろ?」

 図星だったから、悔しくて憎々しかった。お母さんの仕事は非正規しか選択肢がなかった。細々とやりくりしなければいけないのは常だった。だけどわたしはお母さんとふたりで生きてきた。お父さんがいなくても、いないからこそ、いつ不機嫌で爆発するかもわからない人がいないだけで、驚くほどのびやかで、リラックスできた。

「だからってお父さんとは一緒に暮らさないよ」

「わかっただろ? あいつだけじゃお前を幸せにできないんだよ。ちゃんとした家族に戻った方が、みんな幸せなんだ。家族はどこまでいっても家族なんだよ。血が繋がってるんだから。一度ちゃんと話し合えばわかる」

 お父さんの説く幸せはどこまでも杓子定規で、それがお父さんの人生の体現みたいで。

 だからこの人は結婚をして、わたしやお母さんで権力を実感しようとしたのだろう。

 父親らしい威厳を持つ。日曜日には家族サービスをする。お父さんの考える「いい父親」は、決して固定観念の外を出るものではなかった。目の前のわたしやお母さんを見ないまま、世間にとって「いい父親」を演じることに執心していた。きっと、今も。

「……どれだけきれいごとを言っても、お父さんがお母さんをずっと虐めたり、わたしを殴った事実は消えないんだよ」

「なんだよ、人聞きの悪い――」

「裁判所からも近づくなって言われてるでしょ」

「でっちあげを見抜けない無能裁判所か」

 お父さんは鼻で笑う。そんなものがなんだよ、と。それをもち出したわたしを嘲るように。

 埒が明かない。言葉は通じるはずなのに、話が通じない。茉優ちゃんの言っていた「会話が成立する」ことの意味を、わたしは今になって噛みしめる。

「とにかくもう関わらないで。わたしもお母さんも迷惑なの」

 立ち去ろうとしたわたしの肩を、お父さんが掴んだ。「なんだよ、せっかくお前らのために色々考えたのに。俺の善意は全部無駄かよ」淡々と言う口調が、お父さんが耳を叩いたあの夜と重なった。恐怖はまだ身体に沁みこんでいる。

「おまわりさああーん!!!」

 不意に李音が声をあげた。ざ、と周囲の視線が集まり、お父さんが咄嗟に手を引っ込める。その隙をついて、わたしたちは走った。足の速い李音に引っ張られるようにしながら。こんなに速く足が動いたことなんかないってくらい、速く、速く、走った。ローファーがかぽかぽと外れて、何度も脱げそうになり、転びそうになった。

 どれくらい走っただろう。疲れて足がもつれるようになって、わたしたちは物陰に座り込んだ。ぜえぜえしながら座り込んでいると、なぜだか笑いがこみ上げてきた。ひとしきりけらけらと笑って、それから李音が、急にわたしを抱きしめた。「頑張ったね」優しい声に、気を抜くと泣いてしまいそうだった。



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