最終話
「あんたたち何やってんの?」
不意に聞き覚えがある声がして、見上げると茉優ちゃんが怪訝そうに立っていた。制服ではなく、Tシャツとジーンズ。肩には膨らんだエコバッグがかかっている。
あんたたち、と語りかけたことに、茉優ちゃんが不意に気まずそうにする。
「さっき、ゆかりちゃんのお父さんと鉢合わせたんだよ」
李音が構わず言って、茉優ちゃんの顔色が変わった。「どこ?」茉優ちゃんがまっすぐ李音を見る。
「駅のところ。一緒に帰ろうとか言って、ゆかりちゃんが嫌だって言っても話ぜんぜん聞かないし、やばそうだった」
うわ、と茉優ちゃんが顔をしかめた。
それからわたしたちは、額を突き合わせて作戦会議をした。喧嘩は一時休戦だ。
タクシーを呼ぼうにも手持ちのお金がない。かといって、あの辺りを歩いて回り道していくのも怖い。色々と話し合った結果、お母さんにも連絡をして、一度茉優ちゃんの家にかくまってもらうことにした。仕事が終わった後に迎えに来てもらうまで、わたしたは茉優ちゃんのおうちにお邪魔した。
茉優ちゃんの家は想像よりずっと賑やかだった。ドアを開けるなり、小学生くらいの男の子が二人と、二歳くらいの女の子が同時に飛び出して来た。小学生の男の子たちからは、「誰?」「だれっ?」「ねーちゃんの友達?」としきりに質問攻めにされた。末っ子ちゃんは人懐っこく、抱きかかえてあげるとひどく嬉しそうに笑った。ふくふくした手のひらや、小さな唇や、もちもちで溢れそうなほっぺたが、何とも言えずかわいい。
しばらくして来客に飽きた男の子たちは、やがて家の中をどたばたと走り回り、「こらっ、馬鹿! 走んな!」と茉優ちゃんに叱られていた。その間も、末っ子ちゃんはわたしの膝の上にいて、おねーたん、おねーたん、と髪の毛を掴んで引っ張ったり、肩の上に乗っかろうとしたりしていた。
途中、茉優ちゃんのお母さんが「あらあ、いらっしゃい」と顔を出した。髪を巻いてきれいに染めた、茉優ちゃんとは対照的におっとりした感じの人だ。この人が物を投げたり泣き叫んだりするなんて信じられないなと思った。茉優ちゃんのお母さんは、「お料理教室でつくったお菓子あるんだけど」と紙袋からケーキを出そうとするのを、茉優ちゃんに「やめてよごはん前に、チビが食べたがるじゃん」と止められていた。
「ごめんねー超うるさいでしょー」
茉優ちゃんがわたしと李音に麦茶を出す。その間にも「ねーちゃんゲームしていいー?」と男の子が口を挟んだ。「宿題やったならいいよ」と言われるや否やゲームを始めた兄弟たちは、すぐにコントロールの主導権を巡って喧嘩を始めた。「そんな風になるならゲーム禁止にするよ!」と茉優ちゃんに一括されてからは大人しくしていた。
それから、お母さんを待つ時間は、おそらく人生で一番、賑やかで楽しかった。李音は小学生の男子たちとゲームで盛り上がっていた。わたしは末っ子ちゃんの遊び相手になって、同じ絵本を十回くらい読み聞かせした。もっかい、の嵐は止むことを知らなかった。「だれかが見ててくれるって楽だわー」と、茉優ちゃんは笑いながら台所で卵を混ぜていた。
膝の上に乗る末っ子ちゃんはとてもあたたかかった。ヨーグルトみたいな甘酸っぱいにおいがして、髪が細くてふわふわでくすぐったかった。
今が充実したものであるほど、もうすぐ訪れるはずの喪失が苦しくてたまらなかった。お父さんが現れたことが何を意味しているか。全員わかっているはずなのに、誰も口に出さなかった。
仲良しになれたと思った頃に、別れはいつも訪れる。
早朝。わたしとお母さんは駅のホームにいる。始発前の風はいつも冷たい。夏なのに今日は肌寒いね、とお母さんは言う。そうだね、とわたしは答える。トランクの中に入れた上着を取り出そうか迷ったけれど、結局昼は暑くなりそうだったから、やめた。
荷物をまとめるのはもう慣れたものだった。だけど、何度繰り返しても、別れの寂しさは同じように胸を刺した。この感傷にだけは慣れる気がしない。李音にも、茉優ちゃんにも、きちんとお別れの挨拶ができたのだけが救いだった。言い足りなかった言葉はいくらだって見つけられた。
悲しみが朝の光に照らされる。
空港に向かう電車はもうすぐやってくる。
ホームは少し高いところにあるから、下に広がる建物が見渡せる。蜂の巣みたいだった街。最初の一年間、家にじっと籠ってお母さんを待っていたわたしは、巣で育てられる白い幼虫みたいだった。わたしはここで、働き蜂になれるのだと思っていた。お母さんを助けられる大人になれると思っていた。
ごめんね、とお母さんは言う。あんたには苦労を掛けるね。何度も言い古された台詞。
わたしはお母さんのやわらかな肩に頭を寄せる。大丈夫だよ。いつも通りにわたしは呟く。
茉優ちゃんが共依存と言った意図は決して悪意だけじゃない。わたしの愛はあまりにも不健康で盲目で、茉優ちゃんはそれを心配していたんだって、わかる。「言っとくけど、ゆかりのお母さんだって、傍から見れば結構なことしてるんだからね」あの後、茉優ちゃんはわたしを冷静に諭そうとしたけれど、わたしは結局不健康でしかいられなかった。
わたしの中にいる十歳のわたしは、今になってもなお、お母さんが好きなままだ。お母さんに守られたくて、可哀想なお母さんを守ってあげたかった。
大好きだよの代わりに、いつもわたしは「大丈夫だよ」と言う。だけど今日は、ちゃんと大好きだよと言った。「あんた、その歳になったら、普通はそんなこと言わないのよ」お母さんは冗談めかしながら、涙ぐんだ目を拭っていた。
「ねえ、お母さん」
別れはいつも唐突だから。
わたしたちの別れくらいは、きちんと予見できるものであってほしい。
「うん?」
「大学生になったら、ひとり暮らししてみてもいいかな」
もうすぐわたしはこの街を出る。
飛んで火にいる 澄田ゆきこ @lakesnow
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