☕未婚の貴族or高名の依頼人・14
〈 レストレード警部が倒れたその日の夜、ひとり蚊帳の外だった天才テレーゼ嬢のこと 〉
いきなりの仕事に加え、いままで使われることのなかった、もっぱら女主人が読書や手芸をするための専用の
テレーゼは、かわいい猫足の白いバスタブから出ると、メイドに髪をていねいにブラッシングしてもらい、とりあえず持ってきていた、ママがプレゼントでくれた、趣味ど真ん中の、メイドが感心した目で見ている、フリフリのナイトドレスで、天蓋つきのベッドの端に腰をかけ、まるで枕をホームズの首だとでもいうように、思いっきり締め上げながら、どんな復讐をしてやろうかと考え込んでいた。
『あの後生大事にしてる、アイリーン・アドラーの写真を燃やしてやろうかしら? それがいいかもしれない……場所の見当はついているもんね……ふふふ……』
すると、なんにも知らないハドソン夫人は、「かわいそうに……いろいろとあって、寝つけないのね、ホットミルクを……」なんて言ってくれたので、さすがにこんな夜中まで申し訳なく思ったテレーゼは、「大丈夫だから、もう寝てください」そう言い、夫人が部屋を出ようとすると、部屋の扉が控えめにノックされて、メイドが対応に出ると、そこにはやはり、メイドに付き添われたマリアがいて、姉は夫人と入れ替わりで、部屋に入ってきた。
「テレーゼ大変だったわね。でも、これから、まだ話があるのよ……」
そう言って、姉はみなに部屋を出て行ってもらうと、なにやら日本語で書きなぐった数枚の紙を持って、ベッドの隣に腰かける。
「いや、もう、ひさびさに、こんなに手で字を書いたから、手が震えているわ……昼間も書き物してたし……」
「姉さん大丈夫? もう、危なすぎるし、明日の朝になったら早く帰ろ? ね?」
テレーゼは心配そうな顔で、姉の手をさすりながら言ったが、マリアは首を振る。
「いい? 知っているとは思うけれど、いまあのドラマで見ていた“オーストリアの殺人鬼”に、もうキティさんの命が狙われているし……あの、ほら、かわいそうなモデルの! ヴァイオレットは正直言ってどうでもいいけど、その、キティさんを見捨てるなんてできないのよ。うん!」
テレーゼは愕然として倒れそうになった。どうやら姉は、あの、えっらそうな、ヴァイオレットから、イケメン(とは、ドラマでは思えないんだけれど)殺人鬼のターゲットが自分に変わったことには、まったく気づいていなかった。
「……あの――あのね……とっても言いにくいんだけど、狙いはもうヴァイオレットじゃないから」
「……え? じゃあ、誰か別のお金持ち令嬢が? やっぱり本当の話はちがうのねっ!」
再びテレーゼは倒れそうになったが、ここで倒れる訳にはいかないと、なんとか枕を締めつける腕に、更に力を込めながら再び口を開く。
「姉さん……から……」
「え?」
「狙いは姉さんに代わっているから。ほら、こっちにきたとき、新聞に派手に載ってたの覚えてる? 大富豪の貴族令嬢、えっと姉さんが、マスグレーヴ卿の婚約者とかなんとか! わたしここにくる前に、ベーカー街の居間で見聞きして、大体分かったんだけどね……あれ……」
『ヴァイオレットから、ターゲットを代えさせて、姉さんに、ロックオンさせるための、あの、大悪人ホームズの企みだから!』
「……!!」
「姉さんしっかり! いつものど根性を出して! 倒れている場合じゃないのよ! しっかりして!」
さすがの武道系女子、マリアちゃんも、自分が硫酸をぶっかけられるところを想像して、まるで締め技を完璧に決められたがごとく、気絶したのであった。
***
〈 次の日の朝 〉
極力静かに
明るい表情のメイドとは正反対に、これからを悲観して、悲壮な表情をした姉妹は、日本語でホームズの悪口を言っていた。
「そうだった、そうよね、あの男は親友だって事件のためなら、軽々と騙す男だった……知っていたのに!」
「そうよ! 何回、ワトスン博士、ひどい目にあってんのよ!……無意識な推し活って恐怖よね……」
マリアたちは、そんなことを言い合いながら、それでも帰るかどうかといえば、キティの存在がある以上、決まっていた。
「ここで犯罪者の悪党に、ケツを割って、逃げる訳にはいかない! それが“仁義”よ! 人の道なのよ! 子どものホームズを助けておいて、かわいそうなキティさんを助けないなんて、筋が通らないでしょうが!? 殺人鬼とのこの勝負、受けて立ってやるわ!」
なんて、ぐっとこぶしを握ったマリアは、そうきっぱりと宣言し、そんな彼女の秘密を、自分だけ知っているテレーゼは変なスイッチが……と、内心頭を抱えた。(これさえなきゃ、非の打ちどころのない姉なのだ。姉のマリアは、中学生の頃から真夜中にこっそりと古い任侠映画を延々と観ている、そんなどこにでもいない女の子だったのである)
テレーゼがマリアを、
『うっわっ! 日本語でよかった。あかん! 恋人に振られて、コッチにきてから、また病気が復活してしもたやん。彼ができてからは三十六計逃げるに如かずとか言ってたのに。ああ、あれは、自分じゃなくて彼に逃げられ……いや、違うのかな? あ……』
「レディ? なにか不都合がございましたか?」
「……いえ、姉は少し疲れていて混乱したみたい。大丈夫だから」
テレーゼは、不思議そうな顔で、朝の支度の準備をしているメイドのマーガレットが、こちらを見ながら訪ねたので、自分の混乱と姉の不自然を隠すため、珍しく愛想笑いをし、その場を取り繕っていた。
「とりあえず、身支度をお願い」
「はいっ!」
ふたりはまずシュミーズとドロワーズ、ペティコートを着せてもらい、バッスルをつけ、再びあのコルセットで締め上げられ、その上からドレスをきれいに着せてもらっていた。
スカート部分が二枚重ねて形作られているドレスはおそろいで、淡いベルベットのブルーの生地に、綺麗なレースや刺繍があしらわれ、上に重ねられた同じ色で少し光沢のある生地が、腰のうしろにボリューミーに、そして美しく、ひだを作って、たくし上げられている。
形としては、ツーピースとワンピースがあるが、こちらは皇太子妃がお気に入りのワンピーススタイルだった。
「かわいいけれどウエストが苦しい……でも、まあ、今日は、まだ出かけないから、カッパの皿はいいんだ」
マリアは、テレーゼの心配も気がつかずに、そんなことを言う。
それでも、そんな彼女の姿は咲きはじめたバラのようで、実に可憐だとメイドとテレーゼは思う。(もちろん、テレーゼは、自分もかわいくて可憐だと思っている。彼女の自己肯定感は、ダイヤよりも頑丈で、チョモランマのように高いのである)
しかしながら、実は、彼女の姉の中身は、ホームズに出会った頃の、少女な武士よりも、かなりハードに仕上がっていて、それを知っているのは彼女だけで、いつも迷惑ばっかりかけている妹と、優しくかばう姉、その構図は内情はこんな風に、ややいびつさを含み、テレーゼは、テレーゼなりに、苦労はしてきたのであった。
『偉大なるホームズ先生は、どこまで気づいているのやら……やれやれ……』
「ええっと、姉さま、一番いいドレスを貸して! あと、えっと、マーガレット?」
「はい、レディ・テレーゼ! なんなりと、おっしゃってください!」
「今日は姉の体調が悪いので、わたくしが代わりにマスグレーヴ卿と一緒に、夜会に行くので、夕方にはできるだけ綺麗に支度を整えてちょうだい」
「まあ、お嬢さまが……ですか……?」
「マスグレーヴ卿と執事以外には秘密よ? わたしとお姉さまは、双子みたいにそっくりでしょう? いきなり初めての夜会に欠席はと、姉が気を遣って……ね?」
「まあ、それはそれは……」
まだ年若いマーガレットは、少し不思議に思っていたが、「
そう、
とりあえず朝の支度の整ったふたりは、朝食を取りに、左右でお辞儀をするメイドや使用人の間を通り、らせん階段を下りていた。
「お嬢さま方がいらっしゃいました」
執事見習いであり、本来はマスグレーヴ専属の
メイドたちが食事の配膳を終えてから、マスグレーヴが、ちらりと目で合図をすると、使用人たちはすべて下がってゆき、マリアはこの交錯する事件に巻き込まれた『シャーロック・ホームズ被害者の会』そんな暗く静かな雰囲気の中、本格的な英国式ブレックファーストを食べていた。
部屋の隅に置かれた例のベーカー街よりも大きいイーゼルに乗った、事件説明用らしき黒板の存在を意識的に無視したまま……。
「諸君おはよう! 細部まで考えがまとまった。これから最終的な話を進めよう!」
まだ、食事の最中なのに、ご機嫌なホームズが、大きな扉を音をたてながら開けて入ってくると、黒板に近づいてゆくので、マスグレーヴは思わず追い出そうと手元のベルに手を伸ばしたが、「人の命がかかっていますから……あと、国家的な詐欺事件もですわ……」そうレディ・マリアに言われて、彼はもっともだと、ぐっとこらえた。
しかしながら、よく考えなくても、一番の被害者(予定)はマリアである。彼女は、フォークとナイフを、ぎゅっと握り締めて少しだけ唇をかみしめる。
そして、バリバリの関西育ち、その上、ちょっと、かたよった趣味のある彼女は、吹っ切れた、あるいはぶち切れた心の中で、ひとり言をつぶやいていた。
それは、グルーナー男爵に向けられたものか、誰に向けられたものか、いまのところは分からないけれど……。
『女やからて舐めてたら、足や腕の骨くらい、ばきっと折れるかもしれへんで……』
コンプライアンスって、なんだっけか?
マリアは、そんなことを考え黒板に顔を向けて、マリアに背中を見せていたホームズは、一瞬だけ片方の眉を上げ、不思議そうな顔をしていた。
彼女には分からなかったが、黒板のうしろには、銀の花瓶が飾ってあったので、ホームズに彼女の様子は丸見えだったのだが、あいにくと、彼は彼で、いつものやる気スイッチが入っていて、彼女の気持ちなんて、そう大切なものでないと、思ったのである。
『変人に囲まれたわたし、そしてマスグレーヴ卿もかわいそう……』
テレーゼは、ひさびさに、自分が天才ではあるが、ホームズや姉と違って、しごく常識人であると再確認し、ワトスン博士どこに行ったんだろうと思いながら、味も感じない紅茶を、カフェインをとって、脳を活性化するためだけに、自分でお代わりしていた。
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