☕冒険のはじまり・2
『ほ、本物のレジナルド・マスグレーヴだ! マスグレーヴ家の儀式! もう宝物は見つかった!?』
「うわ――、いきなり、興味津々!」
ホームズに連れてこられたマリアは、ベーカー街221Bの客間に続くホームズの寝室の扉の隙間から、リビングにある毛皮の敷物の前にある長椅子に偉そうに腰を掛けている神経質そうな紳士を覗き見していた。
「そんなことしているヒマはありませんよ!」
「は、は――い」
超のつく小声でハドソン夫人に、うしろから声をかけられたマリアは、そういえばそうだったと、なぞの詰め物(バッスルドレスを支えている詰め物である)を慌ててつけて、ドレスを着るのを手伝ってもらった。
この時代のドレスを慣れていない自分がひとりで着るのは無理だったのである。
髪型は、つけ毛が全盛の時代だったので、ホームズが好きなものを使えと言うので地毛に合ったものを選んで、ハドソン夫人がきれいに仕上げてくれた。
『うそ? これがわたし!? ウエストのコルセットが地獄のようにきついケド! これは帰るまでに絶対痩せる!』
え? でも、男性用の変装道具一式は分かるけど、なぜに女性用まであるの? あの身長(180cm以上)と、どこまでも男にしか見えない顔のつくりで女装まで? いやいやジェンダーレスの時代に、そんなことを言っては……って、ここ、ヴィクトリア時代だよね? 同性愛は縛り首だよね?(※懲役刑です。)
なんて、ぐるぐると考えながら、とにかく仕上がった淡いサンゴ色の、首元まで詰まったモスリンの上に、シフォンのプリーツを重ねたドレスは、細部まで『見よ! 服飾学校主席の腕前を!』そう主張するように繊細で丁寧に作り上げられていて、最後にそろいの帽子をつけた。
「か、かわいいけど、この帽子にはなんの意味が……」
頭の上の同系色の、小さな色とりどりのサテンの花のついた帽子を見て、マリアは思った。
「かわいいカッパの皿みたい……」
「……カッパ?」
支度の手伝いを終えたハドソン夫人は、とにかくこの時代に、これほどまで豪華なドレスを用意するには、一般労働者の年収の何倍するか分からないし、貴族でも富裕層にしか用意できないはずなので、このお嬢さんは本当はかなりの身分の令嬢なのだと思いながら、『カッパの皿』の角度を少し変えてから、マリアの頬に両手を伸ばした。
「え?」
「さあ、最後の仕上げですよ!」
***
〈 その頃の居間 〉
「君が社交シーズン前にロンドンまで出向くなんて珍しいじゃないか!? とうとう独身生活におさらばする気になったのかね?」
「……まさか、イースターはまだだし、社交界にデビューしたてのヒヨコの隊列に囲まれるくらいなら、カントリーハウスで本でも読んでいる方がマシだね。ここにきたのは、所用と君に相談したいちょっとした事件があったからだ」
「はっ! 確かに! しかし、君の家柄と財力なら、どんな令嬢でも、よりどりみどりなのに、人生とはむつかしいものだねえ……」
「よけいなお世話だ……」
マスグレーヴは、社交シーズンのロンドンにきてしまうと、自分の金と家柄を狙って、「年の差なんて、なんぼのもんじゃ!」そんな年ごろの令嬢を抱える貴族や富裕層の親御さんに招待状を山ほど送りつけられ、大変な騒ぎになるので、イースターからはじまる社交シーズンは、めったにロンドンに近づかないのである。
そんな風に顔をしかめながら言い捨ててから、用意された紅茶を口にしたマスグレーヴは、メガネの奥で瞬きをした。
「君が紅茶を出すとは珍しい……それに、この茶葉はどこで購入を? いままで味わったことのない、豊かな香りと風味がする。実に爽やかで、しかも奥深い……」
「ああ、それは……」
ホームズの横で静かにお茶を飲んでいたワトスン博士が説明しようとしたそのときである。寝室につながる扉の向こうから、マリアの叫び声が聞こえたのは。
「マリア!?」
「マリアお嬢さん!?」
「マリア? いったいだれだね?」
三人が寝室に踏み込むと、涙目で床にしゃがみこんでいる、実に豪華な昼用のドレスを着て、頰を赤らめている美しいマリアがいた。
「どうしたんだね!?」
「いえ、あの、その、最後の仕上げにと思って……頬をつねっただけなのですのよ……レディのたしなみですから……」
「…………」
『チークの代わりに頬をつねるって、ヴィクトリア時代は力業すぎる!』
ハドソン夫人に頰を思いっきりつねられたマリアは涙目でそう思った。
気を利かせたつもりだったハドソン夫人は、どうしていいか分からない、そんな顔をしていたが、マリアだってそうだった。ホームズなら投げ飛ばせばいいが、ハドソン夫人にはそうはいかない。
「ホームズ、控室くらい用意したらどうかね、まったく! とにかく……えっと、付き添いの方は? 申し訳ない。相談にいらしていた令嬢を、こんなゴミ箱みたいな部屋に待たせていたとは知らず……レディ、わたしはホームズの古い友人で、レジナルド・マスグレーヴと申します」
「は、はあ……マリア・ロレーヌと申します」
英国屈指の家柄だけあって、かなりの女嫌いではあるが、マスグレーヴも紳士ではあったので、レディがこんな汚い部屋に我慢できずに悲鳴を上げたのは、自分のせいだと勘違いして、申し訳なさそうにマリアに自分を紹介しながら、彼女を支えて立ち上がらせていた。(ハドソン夫人の小声の言い訳は聞こえていなかった。)
年頃の令嬢に対する態度ではないが、付き添いが見当たらぬ以上、しかたあるまい。
「……ゴミ箱」
「そんなに汚いかねえ?」
『わたしの部屋とそう変わらないけど……』
抱き起こされながらマリアはそう思ったが、『沈黙は金』そんな言葉を思い出して黙っていた。ちなみにさっき名乗ったのは、父方の名字である。
実はこの時代、良家の未婚のお嬢さんが、付き添いなしにウロウロするなんて訳はなく、たとえホームズと婚約しているとしても、ひとりな訳がないだろうと、彼女の装いと気品から判断したマスグレーヴは、当然、付き添いを探したのである。もちろん、そんなもんいる訳なかった。
「ああ、マスグレーヴ、知られたからには紹介するよ。と言うのも、彼女は、いま大変困った状況におられてねえ……僕もどうしたものかと、頭を悩ませていたところなんだ」
『あ、また、ウソ八百がはじまるぞ……』
横でホームズの説明を聞きながら、ワトスン博士は、うんうんと首をうなずき人形のように、たてに振っていたし、マリアもなんだか分かんないけど、うなずいておこうと、ワトスン博士に習って首をたてに振っていた。
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