☕未婚の貴族or高名の依頼人・9
どうやら、さらわれた(と、思い込んでいる)姉を取り返しに、きちんとドレスも着こみ、準備万端整えたマリア嬢の妹、天才テレーゼ嬢は、こちらの世界に乗り込もうと扉を開けようとして四苦八苦していた様子であった。
「この扉はマリアお嬢さんと僕ら、そしてハドスン夫人以外は、勝手に開けられんようだな」
「それは助かるな! テレーゼ君、いまティールームは営業中かね?」
「やってないわよ、今日は休業日! お茶なんて絶対に出さないわよ!?」
「それも助かるな!」
「え? ちょ、ちょっと、なにする気よ!? ママ! どろぼ――! どろぼうがいる――! ママ、ママ――!」
残念ながら、敷地の端っこにある小さな建物のまわりには、誰もいなかったので、あいにくとテレーゼの声は誰にも届かなかった。
ホームズは、テレーゼのなだめ役をワトスン博士にまかせ、ティールームの壁際にある、他の本棚とは違い、鍵のかかった、いかにも大切そうな本が並んでいる特別扱いの本棚の鍵を手早くはずし、バサバサと本を投げ捨て、例のごとく床に撒き散らしながら、目当ての本を探してゆく。
次に、探した何冊もある本を抱えたまま、カウンターを飛び越え、いつもはマダムのいるカウンターの中に入り込み、背後にある、やはり鍵のかかったキャビネットに飾っていた、東洋風の絵柄のティーセットを、慎重に取り出していた。
(きっと、どちらも鍵はかかってなかったんだ……ワトスン博士は現実逃避をして、そう自分に言い聞かせたが、もちろん、かかっていた鍵を、ホームズはテキパキとはずしていたのである。)
彼は取り出したティーセットを、そばにあった沢山のリネンのフキンで、グルグルに巻くと、カウンターの下にあった、木箱に入っていた果物を逆さにして、床に転がし、先ほど探し出した本を、木箱の下に積めてから、持ち出したティーセットを上にのせ、一緒に木箱にまとめて大事そうに抱え、ワトスン博士に大声をかけて、再び扉の向こう、ベーカー街に消えた。
「ワトス――ン! その荷物(テレーゼ)と扉の横のトランクを、全部忘れずに持ってきてくれよ――!」
「ホームズ! おい、ホームズ!」
「きゃ――! さらわれる――! 強盗よ! 誘拐と強盗よ! ママ――!」
その後、また、ティールームは、静けさを取り戻し、あとには誰もいない、ベーカー街の一室によく出現する、酷く散らかった室内が残っていた。
***
〈 マリアの家の母屋 〉
「……くしゅん!」
姉妹の母であるマダムは、くしゃみをしてから、誰かに呼ばれた気がしたが、ちょうどカーテンを洗っていたので、洗剤の匂いが鼻についたのねと思い、また、作業に戻っていた。
とても繊細なレース飾りがついているので洗濯機は使わずに、ハドスン夫人と同じように手洗いをしていたのである。
***
〈 場所はロンドンに戻る 〉
ホームズが、あちらの世界に行く少し前、ポーキーとキティはやかたをあとにして、ガス灯の灯る夜道を歩いていた。ポーキーこと、シンウェル・ジョンソンは、冷静に背後から漂ってくる殺気の頭数を数える。
『つけてきてやがるな……ひとり……いや、ふたり……』
なにも気づいていないキティは怪訝な顔で、彼を見上げ、彼に声をかけた。
「ポーキー?」
「走れキティ!」
急に強く手を引かれ彼女は一瞬とまどったが、ドレスのスカート部分を力一杯つかみ、裾を持ち上げて、必死で彼について路地裏を走り、蒸気の立ち込める洗濯屋の裏口を、ふたりは無断で走り抜ける。
それからしばらくの間、ふたりは、なんとか追っ手を撒こうとしたものの、結局ポーキーは、キティをかばいながら、ふたり相手に大立ち回りをするはめに
「キティ、離れて隠れていろ!」
どう見ても彼は不利だった。しかしながら腕自慢の彼は、派手に相手を殴りつけ、下水に放り込み、あっという間に、見事にふたりの男をノックアウトする。
「ポーキー!」
キティは心配して、少し離れた柱の影から駆け寄ったが、彼にはケガひとつなく、彼女は安心して、大きく息をはく。
「ど素人め、相手見ろって! これで懲りただろう! さあ行こう……ああっ!」
「……ポーキー?」
「あーあー、せっかくのドレスが、だいなしになっちまって……悪いことしたな……すまん!」
途中で、なにかの柵を飛び越えたときだろう、キティのたった一枚の、古びた、でも、とても上品なドレスの裾が破けて、だいなしになっていたのである。
「え? ああ、いいのよこんなの。もう古いし、着ていくような機会も、もう一生ないだろうし……」
「……そんなことねえよ、キティは、キティは俺たちのお姫さまなんだから、そんなこと言うなよ! そうだ、今度、ツテがあるから、新しいドレス、探してきてやるよ!」
「ポーキー? おひめ……さま? だれが?」
「…………」
そう、いま思わず「お姫さま」そう口を滑らせた、ポーキーと呼ばれている、少し赤くなった顔を、ゴツい手で隠している彼女の幼馴染、ジョンソンは、いや、彼女の周りにいた貧民街の幼馴染みの少年たちは、幼い頃から綺麗で気が強くて、でも本当はかわいらしくて優しい性格の彼女を、ひそかに『俺らのお姫さま』そう呼んでいたのである。
彼女がモデルになって、少しづつ有名になってゆくのを、彼女の幼馴染の少女たちも、自分のことのように喜んでいた。
そして数年がたち、キティは少し恥ずかしそうに、身分違いでも気にしない……そう言ってくれる素敵な人に、モデルの仕事で出会ったオーストリアの貴族に、プロポーズされたと言い、結婚したらオーストリアに行くと言っていたのだ。
オーストリアでは、だれもわたしの素性なんて知らないし、名前だけの金で買った爵位だから、気にしなくっていいって、そう言われたと。
もうすっかりいい大人になって、環境と育ちゆえに、自分と同じように悪の道に両足をつっこんでいる者も多かったが、だからこそみんなは、『俺らのお姫さま』にやってきた、おとぎ話のような幸せの訪れと、自分たちの失恋を、交互に大声でわめきながら、パブで大酒をくらっていた。
そして昔、親切な美少女だった、彼女を崇拝していた、いまは大人になっている、街の貧しい女たちも、自分のことのように涙ぐみながらキティを祝福して、もう一生会えないかもしれない彼女に、お祝いのプレゼントを用意しようと、ああだこうだと、毎晩やっぱり集まっていた。
この薄汚い暗がりの世界から、まるでシンデレラのように、幸せな世界へと旅立つ、そんな彼女のことを祝って、話を聞いてから、彼らや彼女たちは毎晩のように寂しくなると言いながら、彼女の幸せを祈っていた。
それから数週間後、あの硫酸事件が起き、半死半生のキティが、息も絶え絶えに帰ってくるまでは……。
「キティ……!」
「キティ姉さん!?」
「医者だ! すぐに医者を呼んでこい! 嫌がるようなら、さらってこい!」
そんな貧民街での大騒動のあと、あの男に復讐をしようにも、自分たちにどうこうできる相手ではなく、ただ、みんなは担ぎ込まれてきた彼女を、必死に交代で看病し、嫌がる医者を脅しては、何度も連れてきて、なんとか『俺らのお姫さま』の命は助かってはいた。
だが、できることはそこまでだった。
幽霊のようになって、目を離すと身投げでもしそうなキティが命を自分で手放さぬように、交代で見守ることしか自分たちにはできなかった。
そんなキティが、ようやく生きる気力を取り戻したのは、ホームズ先生の問い合わせで、あの男を地獄に送ることができる。その唯一の願いが叶いそうになってからだ。
ポーキーはそんなことを思い出しながら、真っ青になって、小刻みに震えている彼女を、精一杯なぐめつつ気をそらそうと、思いついた言葉と冗談を口にする。
「キティ、大丈夫だから。きっと、絶対に先生が、あの男を地獄に送ってくれる! 必ずきっとだ!」
「ポーキー……」
「そうだ! 事件が片づいたら、祝いのパーティーを開こうぜ! もっとこう色気のある、こう……裾がひざくらいまで短くて、エロいドレスを着ろよキティ! 俺、絶対探してくる! 絶対似合う!」
この時代は女性が外で足首を見せるだけでも、大変にハレンチ過ぎる行為……で、あるからして、ポーキーの申し出に、当然キティは、顔を真っ赤にして、固まっていた。
「ポーキー! この悪ガキ! あんた、大きくなったのは図体だけね! 昔となんにも変わっていないじゃないのさ!」
キティは、そんな文句を大声で一気にまくし立てて、ポーキーを睨んでから、ひどく心配そうな彼の瞳の色に気づき、はっと、表情を変えた。
それから小さく華奢な手で、ポーキーの背中を一度叩いて、彼の優しい気づかいに少し涙ぐんで……うつむいたまま、小さくほほえんでいた。
あの事件以来、久しぶりに心に、温かい感情が流れてゆく……。
それからキティは手を引かれて、しばらく石畳を歩き、ここなら安全だと、顔なじみのパン屋の上にある、こざっぱりした部屋に案内された。念のために、俺と先生以外には、絶対に戸を開けないようにと真剣な顔で念押しをされて。
彼女は、もう起きて働き出していた、同じく幼なじみの店主夫婦に、扉の外に差し入れてもらった暖かいスープと焼きたてのパンを食べると、粗末なから清潔な部屋で、安心してスヤスヤ眠っていたが、事態はどんどん悪化し、大規模な事件へと発展してゆくのであった。
***
〈 再びベーカー街221Bの2階 〉
「シャーロック! お前は電報は急ぎの用事だと理解できない、どうしようもない教育を受けていたのか!?」
「……兄さん……ちょっと留守にしてたんだよ。悪いね……」
彼が部屋に帰るとそこには、「ディオゲネスクラブと、屋敷の廊下しか歩きたくない!」そう普段から言い切っている、しかめっつらの兄、マイクロフト・ホームズがいたのである。
「きゃ――! 誘拐された――! ママ――! マ……」
1階から聞こえたような、聞こえなかったような少女の声に、マイクロフトは、うろんな目つきで弟を見ていた。
「シャーロック……?」
「これには、いろいろと訳があるんだ兄さん……決して、やましいことはしていない……」
「そう願いたいね……」
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