☕未婚の貴族or高名の依頼人・8
〈 レストレードが消えたあとの出来事 〉
騒ぎからしばらくして、気を取り戻したキティを、執事の部屋に運んでから、ホームズは、彼女が知る限りの男爵の話を聞いていた。マリアは彼女の肩を抱いて優しく寄り添う。
自分にとってはだいたいは知っている話だったが、キティのとなりで聞いたその話は、彼女にとっては、ドラマではなく現実に起こったことで、一生背負ってゆかねばならない、つらく痛々しい話だった。
「わたし、ちゃんとしたモデルだった……でも、あいつのせいで、もう仕事ができなくなった! あいつを地獄へ送れるなら、どんなことだってやるわ!」
気丈にも彼女は言い放つ。
いや、その思いだけが、彼女をこのひどいやけどを負った事件から、命をながらえさせたに違いない。
彼女は決意に満ちた目でホームズを見つめながら、ドラマで見たことのある『首から胸元に広がる硫酸でただれた皮膚』を、慌てるポーキーを押しとどめて、その場にいた全員に見せてから宣言する。
「わたしがその人に会って、じかに話をするわ! あいつ、全部はしゃべっていないわよ……あいつは女を収集するのよ……あいつの道楽は“女と陶器”いかれた男よ! でも、わたしのこの姿を見れば、そのバカな女も気が変わるはずよ!」
それからホームズは『ヴァイオレットじゃなくて“ガンコちゃん”でよくない?』なんて考えていたマリアとハドソン夫人の安全を、マスグレーヴに頼み、キティを連れて、ヴァイオレット嬢の説得に走ったが、彼女は案の定、ホームズの真摯な話にも、キティの傷痕にも、まったく耳を貸そうとしなかった。
グルーナー男爵との結婚生活を夢見て、幸せで頭がいっぱいの、若く美しく聡明な令嬢“ガンコちゃん”には、案の定、説得は無駄足に終わっていた。
別れ際にキティはホームズにささやく。それは、自分の過去の記憶が更に痛むことにはなるけれど、あいつを地獄に送れる最後の手がかりかもしれないと思ったから。
「先生、あいつ……“ノート”をつけているわ」
「ノート? なんのノートだい?」
「……収集した、自分が地獄に送り込んだ女を記録した“ノート”よ。ヴァーノン・ロッジ……ヴァーノン・ロッジの邸宅、あいつの書斎、鍵のついた小さな茶色い革張りの金の紋章の入ったノートよ。妙に神経質なこだわりのある男だったから、場所は変わっていないはず……」
「……ありがとうキティ。ありがとう、ウィンターさん……」
涙を必死でこらえるキティに、先ほどの令嬢よりも、よほど同情せずにいられないホームズは、心からの感謝を述べると、ポーキーに彼女をしっかりと守るように言ってから彼らを帰し、ワトスン博士と一緒にベーカー街221Bに帰った。
ホームズが、ドアを開けようとするなり、メッセンジャーボーイから電報を受け取り、チラリと目をやって投げ捨てる。ワトスン博士が何気なく拾って目を通すと、驚いた声を出した。
「おい“殺す”って書いてあるじゃないか!」
「男爵から早速の伝言だ、祝電の訳があるまい」
ワトスン博士が、あきれて立ち尽くしていると、ホームズが声をかける。
「なにをしているんだいワトスン君! 毒には毒をだよ! 早く次の計画に移ろうじゃないか!」
「え? 毒?」
「あの冷淡で自己満足の塊、ヴァイオレット嬢がどうなろうが、もう好きにしろ……と言いたいが……少しおかしいと思わなかったかい?」
「え? なにが? ヴァイオレット嬢の態度かい? そういえば、かなりイライラしていたが、君が他人にイライラされるのは、いつものことだし……」
ワトスン博士は、さらっと酷いことを言ったが、頭をフル回転させているホームズには、幸い通じていなかった。
「僕の読みが正しければ、いや、正しいに違いないが、おそらくあのグルーナー男爵は、もっと“いい餌”をみつけたはずだ。それで結婚の予定を延期してきた! ほら!」
ワトスン博士に投げられたタイムズには、さっきのヴァイオレット嬢と男爵の結婚の延期が、もっともらしい理由で記載されている。
「オーストリアにいる男爵の母親が死亡……こんな偶然があるんだな」
「ある訳ないだろう! あの男の母親なんて、あと何十回、生き返っても死んでも驚きはしないねぇ。ヴァイオレット嬢はもう“収集の価値がない女”に……なり下がったんだよ」
「じゃあ、もう我々の仕事は用済みじゃないか? いや、しかし、それならなんでまだこんな電報で脅迫……まさか!?」
そう、ワトスン博士ですらピンときたまさかだった。
『あいつの道楽は“女と陶器”』
そして、あの男は今日、マスグレーヴ家にやってきていた。ホームズがわざとらしく声を張り上げているところへ。
『マスグレーヴ! 君の日本の陶磁器コレクションに、貴重な品が増えたんだって? 拝見できるのを、楽しみにしてきたんだよ!』
その言葉と、新聞に掲載されたマリア嬢の経歴(マスグレーヴ家の次期婚約者の令嬢の父親は、あの日本との貿易で財を成した、うんぬん……というやつだ。)を考えるに、どう考えてもマリア嬢の方が、彼には魅力的に映ったんだろう。
「おいまさか!?」
「そのまさかだよ、確信はなかったが、やつは見事に引っかかった!……やっと、真剣にやる気が出てきたというものじゃないかワトスン!」
「そんな! じゃあ、早くマスグレーヴのやかたに戻らねば! 彼女が危険だ!」
「今夜は大丈夫だ。まだ、手が打てんだろうし、昼間の騒ぎのあとだ。マスグレーヴにも頼んできたし、くさってもスコットランドヤード、彼らがやかたを取り巻いている。真面目に警備していると思うよ! 今夜のマリアは絶対に大丈夫だ。だが、この先は分からん! 彼女を守るためにも、キティのためにも、さあさあ、早く行こう!」
そして、ポーキーが暴漢たちからキティを守って、勇敢に戦っている頃、ホームズとワトスン博士は、また、ハドソン夫人の、例のキッチンにかけ込んでいたのである。
「いったっ――! ああ――! 現れたわね! 人さらいの恩知らず! マリア姉さんを帰しなさい!」
「やあ、ちょうどよかった!」
「なに? あんたに用なんてないわよ!?」
「僕にはある!」
『毒って、このお嬢さんね……』
ワトスン博士は、開いた扉にぶつかって、おデコを、涙目で押さえているテレーゼを見て思った。
***
〈その頃のマリア〉
「手紙……わたし宛に?」
「ええ、そうなんですよ……レストレード警部と、あ、みなさまの連名で……」
「はあ……」
マリアは、レストレード警部以下、双子のピーター・ジョーンズ警部、アセルニー・ジョーンズ警部、なぜか関係のないのに、のんびり飲んでいたパブで、彼らに巻き込まれて署名させられたホプキンズ警部の名前で、マスグレーヴ卿へのとりなしの手紙という名の嘆願書が届いていた。
『わたしが、どうのこうのできる問題なのだろうか?』
すごく申し訳ないけど、スウェットの方がいいのにと思いつつ、執事がどこからか調達してくれたらしい、とってもかわいらしいフリフリたっぷりのナイトドレスを、着ていたマリアは、手紙に目を通しながらそう思ったが、とりあえず努力しますと返事を書いて、ハドソン夫人に手渡す。
それから、ひとりっきりになった寝室の豪華なベッドの前で、真面目にストレッチと筋トレのルーティーンをこなしてから、もぞもぞとベッドの中に潜り込み、ホームズに“ガンコちゃん”の代わりの『生贄』にされたことも知らず、スヤスヤと平和に眠っていた。
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