未婚の貴族or高名の依頼人 7


『きっと、いまの発砲のせいよね! そうに違いない!』


 マリアは、ドキドキしながら、そう自分に言い聞かせていた。


「こちらの壁にかかっている風景画に穴でもあいたら、どうなさるおつもりですか?」


 一方のウィルソンは、ぶつぶつと、そんなことを言いながら、グルーナー男爵に視線もやらず銃痕の真横にある絵画を、心配そうに点検していると、やがてすぐに騒ぎを聞きつけた、やかたを取り巻いている大勢の警官と、新聞記者の押し合いが始まったようで、遠くから大変な騒ぎが聞こえてくる。


「今日は招いていない客どころか、やかたの周りまで大騒ぎ……」

「ウィルソン、君、もう引退して、息子に執事の地位を譲ってはどうかね? 管理しきれんのだろう?」

「ご主人さまの交友関係の問題よりも、わたくしの体調は良好にございます。騒ぎの原因がご友人では、わたくしには、なんともはや……」

「…………」


 それから少しすると慌てた様子で、ホームズたちが見慣れた男が走って来た。


「一体全体なんの騒ぎですかな?! ホームズ先生!! あんた、こんなところで、なにをしているんですか?!」


 そう言いながら部屋に飛び込んできたのは、おなじみのスコットランドヤードの、レストレード警部だった。


「やあ、レストレード警部!! いきなり不審者が入って来たものでね、威嚇射撃をして、いまから取り押さえようとしていたところだよ!」


 ホームズは、しゃーしゃーとそう言うし、マスグレーヴは警部に視線も向けずに口を開いた。


「やしきの周りにいるのは、警官だと思っていたのだが、不審者をここまでやすやすと通されては、ヤードに頼んだ意義と、君の資質を疑うしかないのだがね?」


 顔見知りの頭は切れるが変人の探偵、あごでこき使ってくる横柄な貴族、床に伏せて震えているのは、少し前に客だと名乗って、派手な馬車に乗ったまま、周りを取り囲む警官の輪から、やかたに入って行った外国人の貴族風の男。


 レストレードには訳がわからなかったが、非常に不愉快そうなマスグレーヴの顔色を見て、この階級社会イギリスで生きている警部は、ヤードに居場所がなくなって、年金が“ぱぁ”になってもおかしくない! そう思い慌てて男爵を怒鳴りつけた。


「殺されなかったことを感謝するんですな! 外国の貴族だかなんだか知りませんが、ここはイギリスですぞ!! 貴族のやかたに不法侵入、しかもこのマスグレーヴ家に、もってのほか!!」


 そうまくし立てた彼は、すぐに連れて来た大柄な警官たちに命じて、素早く男爵をやかたの外に連れ出し、彼が待たせていた馬車に放り込むと、「イギリスの貴族への訪問の礼儀を学ばれてから、出歩かれるようおすすめしますな!」そんなことを強い口調で言って、御者に早く帰らんと逮捕するぞと脅しをかけ、男爵をやかたの前から追い払い、正面玄関に様子をうかがいにきていた執事に、咳ばらいをしながら、手のひらを返したように、愛想笑いを顔に浮かべて話しかける。


「いやはや、まったく、外国人の行動には驚かされます。誠に失礼をしました、今後、このようなことはないと、くれぐれもご当主さまにお伝えください……あの、この騒ぎをヤードには、なにとぞ穏便に……」


『お願い、ここまで長年がんばって、スコットランドヤードに勤めているの! わかって!』


 そんな願いを瞳に浮かべ、レストレードは執事に、長々と言い訳の言葉と謝罪を並べ立てていたが、執事は実に慇懃無礼な態度で、「ヤードの長官には報告させていただきます」そう無常に言い切ると目の前で閉じられた扉の向こうに消え、レストレードは、がっくりとうなだれていた。


「大丈夫ですよ、きっと、先生がとりなししてくれますよ」

「ジョーンズ警部……君、来ていたのかね?」

「交代に来ました。こんなことにまで駆り出される不幸を、あとでパブで分かち合いましょう……」

「じゃあ、あとでアルファに行くとしようか……一緒に始末書を書いてからね……」

「そうですね……」

「そういえば、ジョーンズ警部、君、あそこの“ガチョウ・クラブ”知っているかね?」

「なんですかそれは?」

「あとで教えるよ……」


 レストレード警部はそう言うと、ジョーンズ警部を置いて、先にスコットランドヤードに帰って行った。



「安心しろウィルソン」

「我が国の社交界は、あの男を受け入れんよ」


「さすがは、ご当主さま、さすがは、ご当主さまのご学友でいらっしゃいます」



〈 ヴァーノン・ロッジ 〉


「さすがは、マスグレーヴ家という訳か……ヴァイオレットに、父親の紹介状まで用意させたのだが扉は固いな、思ったより役に立たない女だ……それとも将軍のあきらめが悪いのか?」

「旦那さま、いかがなさいますか? マスグレーヴ家の当主を襲うように、手配をされますか?」


 追い返されて、ヴァーノン・ロッジの邸宅に戻ったグルーナー男爵は、自分の腹心である執事に、そう声をかけられながら、例の部屋で例の手帳を、うっとりとなぜ、考え込んでいた。


「……いや、まだ時期尚早だ。それに、種は巻いてきたんだろう?」

「はっ、それはもう。ちょうど、待たされている時に、庭を通りかかった田舎くさい女がおりまして、所用でロンドンに出てきたマスグレーヴ家のカントリーハウスの森番の娘だと言うので、声をかけておきました。あの厳格なロンドンのやかたの使用人たちと違い、軽い雰囲気の女でしたので、恐らくは……」


 やがて夜になり、すっかり真夜中になり、男爵の執事が見込み違いだったか、そう思ったころだった。小走りに使用人が、裏口に例の女が来て自分を呼んでいる。そう告げたのは。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る