☕未婚の貴族or高名の依頼人・7
『きっと、いまの発砲のせいよね! そうに違いない!』
マリアは、ドキドキしながら、そう自分に言い聞かせていた。
「こちらの壁にかかっている風景画に穴でもあいたら、どうなさるおつもりですか?」
一方のウィルソンは、ぶつぶつと、そんなことを言いながら、グルーナー男爵に視線もやらず銃痕の真横にある絵画を、心配そうに点検していると、やがてすぐに騒ぎを聞きつけた、やかたを取り巻いている大勢の警官と、新聞記者の押し合いがはじまったようで、遠くから大変な騒ぎが聞こえてくる。
「今日は招いていない客どころか、やかたの周りまで大騒ぎ……」
「ウィルソン、君、もう引退して、息子に執事の地位を譲ってはどうかね? 管理しきれんのだろう?」
「ご主人さまの交友関係の問題よりも、わたくしの体調は良好にございます。騒ぎの原因がご友人では、わたくしには、なんともはや……」
「…………」
それから少しすると慌てた様子で、ホームズたちが見慣れた男が走ってきた。
「一体全体なんの騒ぎですかな!? ホームズ先生! あんた、こんなところで、なにをしているんですか!?」
そう言いながら部屋に飛び込んできたのは、おなじみのスコットランドヤードの、レストレード警部だった。
「やあ、レストレード警部! いきなり不審者が入ってきたものでね、威嚇射撃をして、いまから取り押さえようとしていたところだよ!」
ホームズは、しゃーしゃーとそう言うし、マスグレーヴは警部に視線も向けずに口を開いた。
「やかたの周りにいるのは、警官だと思っていたのだが、不審者をここまでやすやすと通されては、ヤードに頼んだ意義と、君の資質を疑うしかないのだがね?」
顔見知りの頭は切れるが変人の探偵、あごでこき使ってくる横柄な貴族、床に伏せて震えているのは、少し前に客だと名乗って、派手な馬車に乗ったまま、周りを取り囲む警官の輪から、やかたに入って行った外国人の貴族風の男。
レストレードには訳が分からなかったが、非常に不愉快そうなマスグレーヴの顔色を見て、この階級社会イギリスで生きている警部は、ヤードに居場所がなくなって、年金が“ぱぁ”になってもおかしくない! そう思い慌てて男爵を怒鳴りつけた。
「殺されなかったことを感謝するんですな! 外国の貴族だかなんだか知りませんが、ここはイギリスですぞ! 貴族のやかたに不法侵入、しかもこのマスグレーヴ家に、もってのほか!」
そうまくし立てた彼は、すぐに連れてきた大柄な警官たちに命じて、素早く男爵をやかたの外に連れ出し、彼が待たせていた馬車に放り込むと、「イギリスの貴族への訪問の礼儀を学ばれてから、出歩かれるようおすすめしますな!」そんなことを強い口調で言って、御者に早く帰らんと逮捕するぞと脅しをかけ、男爵をやかたの前から追い払い、正面玄関に様子をうかがいにきていた執事に、咳ばらいをしながら、手のひらを返したように、愛想笑いを顔に浮かべて話しかける。
「いやはや、まったく、外国人の行動には驚かされます。誠に失礼をしました、今後、このようなことはないと、くれぐれもご当主さまにお伝えください……あの、この騒ぎをヤードには、なにとぞ穏便に……」
『お願い、ここまで長年がんばって、スコットランドヤードに勤めているの! 分かって!』
そんな願いを瞳に浮かべ、レストレードは執事に、長々と言い訳の言葉と謝罪を並べ立てていたが、執事は実に慇懃無礼な態度で、「ヤードの長官には報告させていただきます」そう無常に言い切ると目の前で閉じられた扉の向こうに消え、レストレードは、がっくりとうなだれていた。
「大丈夫ですよ、きっと、先生がとりなししてくれますよ」
「ジョーンズ警部……君、きていたのかね?」
「交代にきました。こんなことにまで駆り出される不幸を、あとでパブで分かち合いましょう……」
「じゃあ、あとでアルファに行くとしようか……一緒に始末書を書いてからね……」
「そうですね……」
「そういえば、ジョーンズ警部、君、あそこの“ガチョウ・クラブ”知っているかね?」
「なんですかそれは?」
「あとで教えるよ……」
レストレード警部はそう言うと、ジョーンズ警部を置いて、先にスコットランドヤードに帰って行った。
「安心しろウィルソン」
「我が国の社交界は、あの男を受け入れんよ」
「さすがは、ご当主さま、さすがは、腐ってもご当主さまのご学友でいらっしゃいます」
***
〈 ヴァーノン・ロッジ 〉
「さすがは、マスグレーヴ家という訳か……ヴァイオレットに、父親の紹介状まで用意させたのだが扉は固いな、思ったより役に立たない女だ……それとも将軍のあきらめが悪いのか?」
「旦那さま、いかがなさいますか? マスグレーヴ家の当主を襲うように、手配をされますか?」
追い返されて、ヴァーノン・ロッジの邸宅に戻ったグルーナー男爵は、自分の腹心である執事に、そう声をかけられながら、例の部屋で例の手帳を、うっとりとなぜ、考え込んでいた。
「……いや、まだ時期尚早だ。それに、種は巻いてきたんだろう?」
「はっ、それはもう。ちょうど、待たされているときに、庭を通りかかった田舎くさい女がおりまして、所用でロンドンに出てきたマスグレーヴ家のカントリーハウスの森番の娘だと言うので、声をかけておきました。あの厳格なロンドンのやかたの使用人たちと違い、軽い雰囲気の女でしたので、恐らくは……」
やがて夜になり、すっかり真夜中になり、男爵の執事が見込み違いだったか、そう思った頃だった。小走りに使用人が、裏口に例の女がきて自分を呼んでいる。そう告げたのは。
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