☕未婚の貴族or高名の依頼人・29
〈 ~やがて翌年の5月~ 〉
キティがひとりで英仏屋を切り盛りすらできるようになった頃、またまたやってきたホームズとワトスン博士は、彼女をつれて、例の金魚草の植わっている花壇まで足を運ぶ。その日は、花の満開の季節だった。あのときと同じように……。
「先生……?」
「いいかい、キティ、これから言うことを、よく聞くんだ。君はあの“Snap-dragon”が咲いている円形の花壇の真ん中に立つ」
「え?」
ホームズは、満開の金魚草、“Snap-dragon”が咲く花壇の中央に、キティを立たせる。
「いいかい、僕が、“いまだ!”そう言ったら、すぐにその花壇から飛び出すんだ。いいね?」
「いいもなにも、先生!?」
そう、サークル状になっている満開の金魚草の咲いた花壇に立たされた、不思議な顔のキティは、あのとき、ホームズが若返ったときのように、不思議でゆるやかな風が、彼女を包み込むのを感じていた。
やがて、キティは自分の首から胸元にかけて、ずっと感じていた引きつれが、消えてゆくのを理解する。
「いまだ!」
「きゃっ!」
花壇から出ようとしたキティは、一瞬花壇に引き込まれそうになったが、その手をホームズに引っ張られ、なんとか外に出ていた。きれいに傷が元通りになると共に。
「なに!? なにがどうなってるの!?」
「……君たちの世界は、僕たちからみて“妖精の世界”に近いということさ。どんなにも、なによりも信じがたいことだと、そんなことは分かっているけれどね。これが真実だよ……」
その言葉通り、ほんの少しだけ若く、グルーナー男爵と出会った頃まで若返ったキティは、時間を巻き戻した彼女の体からは、すっかり硫酸のあとは消えていたのである。
***
〈 数日後の英仏屋 〉
「つまり、キティちゃんは、ちょっとだけ若返って、そのオマケで胸元の傷が治ったの?」
「そうそう。あ、やっぱり、わたしらには、なんの関係もないみたいね。全然、若くならないや……」
「小学生にでもなったらどうするのよ……これ、きっと、“妖精の輪”とかなんとかいうヤツね!」
「は……?」
「イギリスの民間伝承よ、コナン・ドイルが、どハマりしていた妖精に関する話。なんか“妖精の輪”とかいうのがあって、なんだかんだあるらしいわよ。詳しくは知らないケド……」
「ホームズ先生は、意外とロマンティストだったの?」
「そんな訳ないっしょ、自分が若返ったから、なんだかんだ調べていたんじゃない?」
そんな、しょうもなくも頭の悪い会話を、金魚草の花壇の真ん中でしていたのは、この家の姉妹で、あの不気味な時計でつながっているこの世界は、彼の言う通り、向こうから見た“妖精の世界”なんだろうと、めんどうになって、花壇の真ん中で、そう結論をつけていた。
「で、キティ……さんは、どうしたの?」
「うん? 元の世界に戻ったわよ。いまは、“極東陶磁器愛好クラブ”が慈善事業としてはじめた女性専用のティーサロンを開いてね、そこでぼったくったお金で、貧民街の子どもたちに、食事を配ったり、教育とかを受けさせる事業をしてるんだって」
「それで、うちの茶葉の仕入れが、めちゃめちゃ増えているのか……」
今日のマリアは、ヴィクトリア時代に出荷するために、仕入れた茶葉の箱を数え、テレーゼは、同じく出荷するためのフルーツを、ひとつひとつ梱包していたのである。
「その桃、ひとつ20ポンドだって! メイドさんの月給1ポンドなのよ!?」
「ひえっ! そこまでアコギな訳!?」
「いや、小さく切って、ケーキに乗せるって言ってたよ。さすがに。あと、うちへの支払いは
「金って時代を超えるわね――」
そのような訳で、本編ではその後が詳しく分からなかったキティであったが、彼女はホームズたちの尽力により、英仏屋に居候をしていたときに習った、上流階級の発音、礼儀作法を活かし、マスグレーヴ家の援助によって、ロンドンでも目新しい品ぞろえの、格式高いティールームをオープンさせ、その高級感と厳格な紹介制という希少性から、特権階級から大人気のティールームの女主人となっていた。
「キティ、新しい見習いを連れてきたぜ! 面倒みてやってくれ!」
「あらあら、あんた、ふらふらじゃないの! 働く前に食事をしなさい!」
すっかり見違えるほど、明るく元気になったキティは、相変わらずキップのいい性格のままで、自分のところで雇える貧しい少女たちには、閉店後、自分で行儀作法を教えて店に出してやり、少年たちには裏方の調理場の仕事を教え、みんなに読み書きも教え、見込みのある者には、きちんとした屋敷に奉公に出れるような紹介状を書いてあげていた。
すべてを救うのは無理だとはいえ、彼女の存在は貧民街の数多い子どもたちを救済した上に、そこの住人たちに仕事や希望を与えてゆく。
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