第一章
☕イートンの思い出・1
必要のない情報は忘れてしまうに限る。それがホームズの信条なのだか、今回はどうも違ったらしい。
いつものごとく黒のジャケットを放り投げ、ひじかけ椅子の上で三角座りをした彼は、パイプをくゆらせたままなにかを思い出そうと瞑想の中に入り込んでおり、わたしは視界の利かなくなった部屋の窓を慌てで開けていた。わたし自身もヘビースモーカーとはいえモノには限度がある。
「オックスフォード?……いや違う。あの頃はボクシングをしていた。するとイートンか?」
「なんの話だねホームズ? おいホームズ! 君ときたら!」
彼は、またヤバい薬を打っていた。
ワトスン博士は、ぐらりと傾いたホームズを寝室に運ぶと、ベッドに寝かせてため息をついていたが、とうの本人は思い出したい自分の記憶の中にある博物館にへ旅立っていた。
***
ホームズは少年時代の記憶を手繰り寄せていた。彼が通うイートンカレッジに付随していた寮は、伝統と歴史があり格式が一番高く、どこもかしこも素晴らしい家具や調度品が飾ってあったが、一番有名なのは『不思議で大きな古時計』だった。
伝説によると、この古時計は選ばれた者だけを、別世界へ連れて行ってくれるらしい。 寮に入った者は荷物を部屋に置くと、とりあえずは古時計のところに行ってながめてみたり、記念写真を撮ったりする人気スポットだが、結局なにも起きないので、数ヶ月後には古時計はまたひっそりと地味にときを刻んでいる。それが毎年の恒例行事であった。
そんなある年のことである。
「ホームズ、いい加減、他人へ喧嘩を売って回るのは、よした方がいいと思うがね?」
「別に喧嘩を売っている訳じゃない。ただ真実を指摘しているだけだ」
僕にそう忠告したのは、同室のレジナルド・マスグレーヴである。彼の一族は、英国でも最も古い貴族の末裔であり、のちの『マスグレーヴ家の儀式』で彼のやかたを訪れ、事件を解決することになったが、その頃は、お互い十三歳の新入生であり、ルームメイトだった。
マスグレーヴは、ため息をついていた。確かにホームズは間違ってはいない。正しいことを言ってはいるが、その『物言い』が、いつもトラブルを起こす。
自分自身、寮長からその高慢さで嫌われてはいるが、英国屈指の家柄の次期当主である自分に、なにができるでもないので、たいして気にはしていない。
だが、たった十四人という少ない同学年の寮生だけでなく、ホームズは最上級生や寮長にいたるまで、このイートンカレッジの寮内数十人に、まんべんなく嫌われていた。(もちろん彼は気にもしていなかったが)もはや才能と言えよう。
「まあ、忠告はしたからね」
マスグレーヴはそう言うと、実家から送らせたシェイクスピアの原書に没頭していたので、いつの間にかホームズが消えて、彼がマスグレーヴを除いた同級生の全員に寮内を追いかけ回されているのには気づかなかった。
騒ぎを収めるべき寮長は、もちろん騒ぎが起きていることに気づいていたが、「一度こらしめられれば、おとなしくなるだろう」そう思ってしらんふりをしていた。
廊下を追いかけてくる大勢を一度に相手をするのは、いくらなんでも無理であるし、ホームズは、まだボクシングも柔術もたしなんではいなかったが、それでも狭い廊下を走り抜け、大きな柱時計がある行き止まりを背にすると、廊下を縦に並んで走ってくるアホな同級生をどうしようかと考え、重厚な柱時計の飾りについているマホガニーの棒で、ひとりずつ仕留めようと思い、それを引っ張ったのである。
するとどうだろう、柱時計は壁ごとひっくり返り、気づけば先頭にいた三人の同級生と一緒に見知らぬ明るい広場、いや、まだ建設が終わってはいないような、建物の中らしき場所で、ひっくり返っていたのである。
「どろぼう!?」
そう言いながら出てきたのは、金色の髪に紫がかった、まるでタンザナイトの宝石のような色の瞳の持ち主、年齢は同い年くらいで、絵画から抜け出したように美しい少女だった。
変な服装と、うしろでひとつにくくった、馬のしっぽみたいな髪型を無視すればの話だったけれど。
「ど、どろぼうでしゅか!?」
「テレーゼはそこに隠れていなさい!」
美少女は、よく似た妹らしき、もっと小さな少女にそう言ってから、不意になだれ込んだ自分たちを見下ろしていた。
「変な恰好……」
「柔道着って言うのよ、もの知らずね。それにあなたたちもかなり変よ、誰? どこから入ってきたの?」
どうしてこうなったのか、ホームズがじっと考えていると、一緒になだれ込んできた三人が、「平民は引っ込んでいろ!」「女は引っ込んでいろ!」そんなことを言いながら、とりあえずホームズをやってしまおうと取り囲もうとする。
まだ武術の心得のなかったホームズは、今頃になってマスグレーヴの忠告を思い出していたが、気がつけば中のひとり、トーマスが変な恰好の女の子に、にやにやしながら、手を伸ばしているのが視界の隅に入った。
いくら階級が違うとはいえ、それが紳士になる教育を受けている者のすることか!
ホームズはそう思ったが、自分はまだ残ったふたりに囲まれているし、見ているだけしかできなかった。しかし、トーマスのバカが、彼女の腕をつかみに行って引っ張った瞬間、奇跡でも起こったのか、バカは、まるで魔法にかかったように床に叩きつけられて完全にのびていた。
あとで知ったことだが、それは柔術というもので、なぜか知らないが、あの古時計の裏をくぐってきたここは、なんと極東にある日本だった。
先ほど謎の奇跡を披露した彼女は、同じ年ごろの少年少女の中では、かなりの腕前のようであり、今日は母上の趣味で、屋敷の中に建てている途中の建物を、たまたま妹と探検していたらしい。
「バリツ……」
「なにそれ?」
「日本の武術だと聞いたことがある。バリツだろう!? 君が、いまソレを投げ飛ばした技は!」
ソレ(トーマスのバカ)、そして、あっという間に、彼女にやられた残りのふたりを、ホームズは指さしてそう言った。
「柔道って言うのよ、えっと、柔術よ、柔術! バリツってなに? どこの国からきたの? そんなのこの国にないわよ?」
「……君が知らないだけだと思うけれどね」
最初にトーマスが吹っ飛んだのは、相手の勢いを利用して斜め上に飛ぶと、相手の姿勢を崩しながら跳ね上げる『飛び込み内股』という技らしい。
「むつかしいのでしゅよ!」
「……だろうね」
なぜかいばっている彼女の小さな妹に、適当な返事をしていると、美少女はその間に僕を観察していたらしく、澄んだ冬の湖、そんな透明で冷たい声をかけてきた。
「まあ、なんでもいいけれど、それ制服でしょう? けっこういいところの?」
『イギリスで一番だよ』
そう言ってやろうかと思ったが、なぜか僕は黙っていた。信じられないが、古時計の伝説は本当だったらしい。しかし、僕はそれどころではなかった。
「その柔術ってヤツを、僕も覚えたいのだけれど、どこへ行けばいいのだろう!?」
「ああ、そういえば追いかけられていたっけ? いじめられてここまで逃げて、ここに飛び込んだ訳? それなら警察は許してあげるけど。あと、ちゃんと柔道を習うなら、保護者の許可とか月謝がいるわよ? あなた小学生でしょ?」
「小学生? 保護者の許可……月謝……」
小学生とかいうのではたぶんないが、おそらくポンドは使えないだろうし、マイクロフトに許可を取るのも面倒……そもそも古時計の伝説がなどと言い出したら、頭がおかしくなったと思われかねない。
ホームズは、珍しく悩んでいた。
「武士の情けよ?」
「え?」
『武士の情け』彼女はそう言って、毎日この時間ならちょうど稽古の帰りだし、ここは母が内装をはじめから考え直すと言い出しているので、しばらくは大丈夫だからと、僕に「しゃーなしよ? いじめられっ子なんてかわいそうだから」そう言って、教えてくれることになったのだ。
***
「“しゃーなし”と言う言葉の意味を知っているかね?」
「……さあ? 下層階級のスラングじゃないのかね?」
「どう見ても下層階級ではなかったが……そうかもしれないねぇ……こんど馬丁にでも聞いてみるか」
「???」
少年だったホームズは、元の世界に帰ってから、“しゃーなし”と言う言葉の意味を、マスグレーヴに聞いてみたが、やはり彼も知らなかったのである。
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