☕イートンの思い出・2
それから数ヶ月、古時計の向こうに住む彼女は、どこからか持ち込んだマットの上で、僕に徹底的に『受け身』だけを教えてくれた。
「いつになったら技を教えてくれるんだ?」
「受け身も取れないのに、技を覚えてどうするのよ? 危ないでしょ?」
「まあ、論理的思考ではある。君はバカではないらしい」
「……あんた友だちがいないのは、実はあんたのせいかもね」
「失敬な、いちいち手取り足取り相手をせねば、なにも分からんやからと、なぜ僕が一緒になって……?」
そういえば、なぜ、なんの得にもならないのに、この少女は僕に、手取り足取り柔術を教えてくれているのだろう?
あの事件のときに、アホたちを片づけた手際からみて、僕になんの下心もなく教えてくれる意味が分からない。流通貨幣が違うから金目当てではないし、彼女は僕の住む貴族社会の話をしても、なんの興味もなさそうだし。
「そういえば、君はなぜ僕に柔術を教えてくれるのかね?」
「……道義だから」
「道義?」
「
「…………」
誰が
僕は内心得意になっていたが、やはりさっきの言葉の全体的な意味は、分からずじまいで、その日も帰る時間がきた。
するとなぜかいつも一緒にいる彼女の妹が、僕の帰り際に偉そうに言った。
「マリアおねえちゃんは、ぶしだから、イケメンでもないのに、たすけてあげたのでしゅよ!」
「ぶし?……イケメン?」
また明日聞いてみよう。そう思っていたのに、それっきり古時計はいつもの古時計に戻っていて、僕といえば大切な柔術の技の記憶は取り置いて、もう必要のない(と当時は判断した)彼女のことは、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
ライヘンバッハの滝の上、モリアーティーと揉みあいになり、とっさに助かったのは、彼女の教えてくれた
それだけ思い出すと、まだ僕の意識の中にいた金色の髪の女の子は、まだ少し幼かったマリアは消えていた。
「マリア!」
「今更、神に祈っても……ああ、あっちのマリアお嬢さんね。それより君は一体何度言ったら薬を……おい、ホームズ!」
夢の世界から抜け出して、ベッドからガバリと起き上がったホームズは、またハドスン夫人のキッチンの貯蔵室から、ようやく思い出したあの世界に戻り、キッチンの隅にある例の古時計を見つけ、「いまはここにあるのか……それで、こちらとあちらが、こっちの時間の流れは……しかし彼女もすっかり忘れている。なぜだ?」などとブツブツ言っていると、ワトスン博士も追いかけてきて、不思議そうに彼を見ていたが、ティールームにつながるキッチンの扉が開いたかと思うと、あのマリアお嬢さんをそのまま少し小さくしたような、そんな少女が顔を出して、ホームズを指さして叫んだ。
「ああっ! あのときの恩知らず!」
「???」
ワトスン博士には、なにがなんだか分からなかったが、彼女はマリアお嬢さんの妹のテレーゼだと名乗り、今日は会員のお誕生日会だからティールームは男子禁制だと言って、なぜか、ワトスン博士には申し訳ないからと言い、キッチンにある小さなテーブルセットに、おいしいお茶を淹れてくれた。
「君は僕を覚えているの?」
「わたしのIQは180よ?」
「IQとはなんだね?」
「Intelligence Quotient、略してIQ、正式名称は知能指数。わたしはあなたと違って覚えなくていいことと一緒に、忘れちゃいけない恩を忘れてしまうような、狭い脳の持ち主じゃないのよ。なんでもかんでも覚えているわよ、元イケてない少年A、そして偉大なるホームズ先生、使い古したスリッパにタバコの葉っぱを入れるのはエコだとしても、衛生的にはどうかと思うわ」
「スリッパは新品だ……」
「こんな男に引っかかったワトスン博士かわいそう……」
「不躾な、誤解を招く表現はつつしみたまえ!」
「あら――、いきなり人の家に不法侵入する人間の言うセリフに聞こえないわ――、紳士みたいなこと言ってる!」
コブラとマングース……そんな様相を見せるふたりに、ばつぐんの調整能力を発揮したワトスン博士は、「まあまあまあまあ」とふたりの間に割って入ると、ホームズが思い出したばっかりの、それはそれは不思議な話を聞いて大いに驚いていたが、テレーゼお嬢さんが言うには、もうマリアお嬢さんもそんなことは忘れているし、大学生活を満喫して、付き合っている同級生もいるので、黙っておとなしくしているように。そういうことだった。
驚いたことに、ホームズとここの姉妹は、かなり昔に一瞬だけ関わったことがあったらしい。
「分かったら、お茶飲んだら元の世界に帰れ! ハウス!」
彼女はホームズにそう言って、元いた世界につながる扉を指さしていた。
「……君が男だったら、僕はいますぐに手袋を投げつけているよ?」
「あら――、残念! あたくし、と――ってもかわいい女の子ですもの――!」
「…………」
彼女はホームズにまったく言い負けなかった。ある意味では、アイリーン・アドラーなんて目じゃないだろう。
『悪魔のしっぽが生えているのではないか?』
そんな感想を、女性にめっぽう弱いワトスン博士ですら、このテレーゼお嬢さんには持ってしまっていたが、自分にはちゃんとした礼儀正しいお嬢さんなので、ホームズといい、このお嬢さんといい、頭がよすぎるのは、生きるのにいろいろと支障が出るのだろうとため息をついた。(ちなみに彼女のIQとやらは、世界的に見てもかなり上位に入り、そういう学生を集めた学校に留学中であったが、さみしいからと退学して帰ってきてしまったらしい! もったいない!)
「では、お嬢さんも柔術を?」
「いえいえ、わたしにはぜんぜん向いていないので、来年、姉の大学に入って、マネージャーになろうかなと思って……あ、姉さん!」
彼女の声に、ティールームへ続く扉を見ると、いつもの見慣れたマリア嬢が立っていて、ワトスン博士は安堵した。
「テレーゼ、なにをしているの? 今日は大学の見学に行ったんじゃないの?」
「さっき帰ってきてお手伝いにきたら、なんだか知らないワガママな人が突然! テレーゼ怖かった――!」
「貴様……」
マリアお嬢さんに、かわいらしい困った顔をしてから、彼女のうしろにわざとらしく、愛らしく隠れたテレーゼ嬢は、彼女には見えないところから、ホームズに口パクで、「ハウス!」そう言ってから、ティールームに消えていた。
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