☕未婚の貴族or高名の依頼人・11
〈 時系列はポーキーとキティが襲われた夜に戻る/ヴァーノン・ロッジ、グルーナー男爵のやかた/うまうまと呼びこまれた森番の娘、ジャネットのこと 〉
トウモロコシのような長くもつれた髪。いかにも田舎臭い雰囲気のマスグレーヴ家のカントリーハウスの森番の娘ジャネットが、おどおどとした態度で、しきりに髪を撫でつけながら、裏口からグルーナー男爵の執事だと言っていた男をたずねてみると、彼は以外にもすぐにやってきた。
愛想よく案内され、主人らしき、顔立ちの整った紳士の書斎に案内されるのに、ジャネットは驚く。
いまの主人とは違い、愛想のよい彼の態度に彼女の頭の中には、この大都会ロンドンで、いまのやかたよりは見劣りはするが、十分豪華なこのやかたで働ける夢が、大きく広がってゆく。目の前の紳士は彼女に様々な質問をしたあと、大きくため息をついて口を開いた。
「実を言うと、わたしはいわゆる“成り上がりの男爵”でね。君のご主人のような、生粋の名門貴族には、ひどく嫌われているんだよ。やんごとなき令嬢と恋に落ち、すぐにでも結婚する予定だったのだが、しかし、事情があって挙式が伸びてね。その間に少しでも自分のイギリス社交界での印象をよくできたら……そう思うのだが、何分、君のご主人のような方に出会う機会はそうそうなくてねぇ……君、ご主人さまの予定なんか知らないだろうか?」
実に人のよさそうな整った顔立ちの、身なりの整った青年が、真摯にそう言って、深く憂いを含んだ顔をするのに、ジャネットは酷く同情した。
「……あの、わたしは、ロンドンのやかたに勤めてはいないのですが、知り合いに聞いてみれば、出かける予定くらいは……でも、今日、カントリーハウスへ帰る予定で……」
帰る予定、そう言いかけた、そのときである。とてもここに出入りするような……少なくともそのはずで、その上に、酷くあちらこちらに、青あざを作ったボロ雑巾のような、浮浪者風の男がふたり姿を見せ、執事が主人になにやら耳打ちすると、彼は小声で指示を出し、執事は彼らを連れて消えたのは。
「……いやいや、驚かせてすまないね。急に配管工がダメになって、呼んだらしいのだが、なにかトラブルらしい」
「ト、トラブルはいつも思いがけない時間に、起きるもの……でございますね……困ったものですわ」
ジャネットは、今日、耳にした『マスグレーヴ卿の婚約者』が口にしていた、上流階級の発音を、精一杯、真似をして上品ぶってみた。
うつむいているグルーナーが、吹き出しそうな口元を、手で覆って押さえているのにも気づかず……。
「君は意外と教養のある人なんだね。おどろいたよ。それにしても、そう、トラブルといえば……」
「どうかなさいましたか?」
「君、今日の最終列車で、田舎に帰ると言っていたね?」
「そ、そうなんです。あの、それで……そろそろ……」
「……無理だと思うよ」
「え……?」
目の前の紳士いわく、チャリングクロス駅で、なにかトラブルがあって、いま列車は全面運休しているらしい。
慌てたジャネットは、何度も何度も緊張をほぐすかのように、薄汚れたスカートの布地をつかんだり離したりしながら、明日の仕事もあるのに、どうしたものかと悩んでいると目の前の紳士は、「ひとまず、勤め先のロンドンのやかたに帰って、顔見知りのメイドの部屋にでも、泊めてもらってはどうか?」そんな至極まっとうな提案をし、ジャネットは、そんなことも分からなくなるくらい混乱していた自分を、はずかしく思いながら、「では、そういたします。失礼いたします旦那さま……」
そう言おうとした瞬間だった。いきなり紳士が自分のすぐ目の前にやってくると、自分の肩を抱き寄せて耳元でなにかをささやき、手に小さな袋を渡したのは。覗いた袋の中には何枚かの金貨。
「こ、これ……あのこんなものいただく訳には……」
「なに、君も知っているかもしれないが、実は、僕の婚約者の父親が、君のご主人に、なんとか結婚を止めて欲しいと、そう頼んでいるんだ。なにせしがない成り上がりのオーストリア貴族だ。話にもならんらしい……だけど、僕の誠意を伝えたいんだ。分かってもらえるように……分かるだろう? 少しばかり、彼の予定を知らせてくれればいい……」
「…………」
「きっかけを作りたい。君のご主人の、ちょっとした予定を探ってくれるだけでいいんだ。あとは自分でなんとかする。君にはなんの問題もなかろう?」
『本当の狙いは、大富豪で由緒正しい家柄の娘であるらしき、マスグレーヴ家の婚約者だがね……』
ガスのランプが照らす、薄暗い書斎、彼はジャネットを抱き寄せたまま、にっといやらしい、本性を現した笑みを浮かべていたが、単純なジャネットは、すっかり舞い上がっていた。
ひょっとしたら、彼は自分に好意があるのかもしれない。いいえ、きっとそうよ!
うわさのお相手は、きっと彼の地位を固めるための存在に違いない。地位を与える本妻、心から愛する身分の低い恋人。成り上がりの貴族には、よくある話だ。ジャネットは、自分の美貌に自信があった。
「……そう、かもしれないですね」
「じゃあ、話がまとまったら、やしきに戻りたまえ! 列車が止まったのも、きっと神の思し召しだ!」
「はい、では、失礼いたします!」
なにも知らない、しかもそんな都合のいいことを、夢見て思い描いていたジャネットは、冷たい雰囲気の自分の主人よりも、愛想よく金払いのよいグルーナー男爵と名乗る紳士の方が、よほど素敵に見えたし、特に問題もないだろうと、警官に囲まれたやしきに帰ると、取り囲んでいる警官に、ここの使用人だと言い、
***
〈 グルーナー男爵のやかた 〉
「キティの襲撃は失敗したようです……。ホームズは馬車で帰宅後、外出の様子がないので、見張りを続行中です」
「ふむ……進展はなしか……いまのところ、さっきの小汚い下働きに期待するしかないか……」
「なにも、ご主人さまが、ご自分で相手をしなくても……」
執事のしかめた顔に、男爵は、例の皮張りの手帳の表紙を、うっとりと撫ぜながら、薄く笑って口を開く。
「わたしにも気晴らしが必要なんだよ。ちょっと見た目はいいが、あの面倒で、気位ばかり高い、ヴァイオレットとのつきあいで、すっかり神経がまいっているんだ。……あのときの、なんといったかな、取り逃がしたモデル相手の気晴らしくらいは、あの女でできそうじゃないか?」
「……はい。薬品のご用意をしておきます」
***
〈 その日のマスグレーヴ家のロンドンのやかた周辺/深夜 〉
アセルニー・ジョーンズ警部が、キャンディーをなめながら、難しい顔をしていたヤードで長官にがっつり叱責されたあと、パブで愚痴りながら、例の婚約者宛に手紙を書き、再び警備の指揮に戻ってたレストレード警部の前に現れていた。
「お待たせしました! 交代にきましたよ。これ、差し入れです!」
「シードケーキじゃないか! しかもベリーグッドの方!」
小腹がすいていたレストレードは、もしゃもしゃと口にする。
「しかも、こんなおいしいのは、初めて食べたよ!」
「喜んでいただけて、なによりです」
「君の奥方は料理上手なんだなあ、うらやましい……ひょっとしてコックを雇っているとか? 君、実家が裕福だったのかね?」
水筒のぬるい紅茶を飲み、シードケーキを食べ続けながら、レストレードは、ジョーンズ警部を、うらやましがっていた。
「今朝、自分で作りました。菓子を作るのが趣味で……いやあ、それほど、ほめていただけると、照れますよ……」
「え……?」
シードケーキに罪はない。レストレードはそう思いながら数時間後、ようやくヤードの自分の部屋に帰り、古びたソファで仮眠を取っていると、なぜか独り者の自分は、例の田舎の家に住んでいた。
そしてなぜかメイド姿の“ジョーンズ警部”が、真剣な顔で、オーブンを覗き込んでいて、思わず飛び起きていたのである。
「……夢か、驚いた!」
男ならコックだろう。なぜメイド……いや、夢か……。気がつくと、もう窓から朝日が差していた。
そんな訳で事件は、訳の分からない『光るマーガリン』なんかの話を挟みつつも、じわじわと進んでいた。
そしてシードケーキを食べた翌朝、マーガリンの話のあとで、別件で長官に叱責されていた、レストレードは急に腹痛に襲われる。
あのシードケーキひょっとして……さっきの変な光るプレミアムバターを、使ったのか!? まさか……。
レストレードはそんなことを考えながら、ここ数日、どなりっぱなしの長官の前で意識を失って倒れていった。
******
※ベリーグッドシードケーキは、この時代の上等な方のシードケーキです。(基本的に二種類あるそうです。上と並?)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます