☕未婚の貴族or高名の依頼人・5
キティとポーキーは、一生縁がない……そんなお屋敷の客間に圧倒されて、あらゆる修羅場をくぐっているポーキーはともかく、キティは完全に硬直してしまい、緊張が頂点に達してしまっていた。
なにせ『例の男』のことを話しに、ベーカー街のホームズ先生のところに一緒に行ってくれ、お前の復讐ができるかもしれないと、幼なじみのポーキーに頼まれたときだって、最近の彼女にすれば、「ベーカー街のホームズ先生のところ……な、なんとか、なんとかこの服なら大丈夫かもしれない……」そう思える一枚だけ手放していなかった、モデル時代に購入していた、キチンとした外出用の、しかしながらひどく古びたドレスを、一所懸命に手入れをし、なんとか恥ずかしくない装いを準備していたくらいだ。
朝から、ヘアスタイルも何度も整え、マリアいわく『かわいいカッパの皿』を、何度も何度も鏡の前でかぶり直し、傷跡が完璧に隠れているのを確認してから、「見違えたな! やっぱり、キティは美人だ!」ポーキーにそう言われて、「おだててもなんにもないわよ!」なんて、ちょっときつめに言いながらも、街のショーウィンドウに映った自分の姿に、これなら大丈夫。そんな風に思っていたのに……。
目の前に広がる空間は、まるで絵本に出てくる王さまのお城の中みたいだった。
いま彼女がいる部屋は、いわゆる『応接間/ドローイング・ルーム』と呼ばれる部屋で、高く丸い天井には高価な金の唐草模様に縁どられた荘厳なフレスコ画が描かれ、暖炉のあるマントルピースの上にはチャールズ2世の胸像。あと、よく分からない豪華な飾りや絵がいっぱいだった。なにもかもが輝いていた。
『ば、場違い! こんな部屋、たとえ下働きに雇ってもらえても入れてもらえない!』
体が緊張で震える。ホームズ先生とワトスン博士に目をやってからキティは思う。
『さっさと、あの悪魔のような男の話をして早く帰ろう! 靴の裏の汚れが絨毯につくだけで逮捕される! 絶対に!』
キティは、高価そうなペルシャ絨毯と、その上に通路とでもいうように、ドアからその上に敷いてある赤い絨毯を穴が開くほど見つめ、椅子に座るように勧められたが、ペルシャ絨毯を汚しては大変だと思い、いま立っている赤い絨毯の上から、絶対にはみ出さないようにしようと、硬く決意して両手を組み合わせ、きつく握りしめる。
「えっと――その、あの、あにょ、あにょにょ男は……!」
「キティ、落ち着け!」
「だから、だから、えとえと、わたしはモデル、以前は、ちゃんとしたモデルをしておりまして! それで、そのあの、あの男はでしゅね……あのっ――あつめているんでございます!」
「キティ、落ち着け! 先生はお前に話を聞きたいだけで、別になにもされやしないから!」
ポーキーは、ふてぶてしい顔をひっこめて、キティを必死でなだめていたが、話は進みそうになかった。
「…………」
マリアはキティがくるまでは、部屋に飾ってあった伊万里焼っぽい、自分の背丈よりでっかい壺を、「わぁ――歴史は本当だった。日本の陶磁器大人気なんだ。でも、ちょっと違う……?」などとながめていたが、彼女がきてからは、邪魔をしてはいけないと壺の影に隠れて、その様子をそっとながめていた。
しかし、赤い絨毯の上で緊張のあまり、大変な状態になっているキティが心配になって、彼女を落ち着かせようと、壺の影から出て声をかけてみる。
「あの、大丈夫ですよ、取って食べられるようなことはないですから。お茶でも淹れましょうか?」
「…………」
「え? あの、だ、大丈夫ですか!? し、しっかり!」
キティは、この超階級社会のイギリス、ヴィクトリア時代で、慈善事業の場でもないのに、急に現れた、絵に描いたような上流社会のお嬢さまに、にっこりとほほえまれて優しく手を握られ、ついに緊張が限界を突破して、赤い絨毯の上で気絶していた。
「ブランデーを! とりあえず、ベーカー街に戻った方が、よさそうかもしれんな!」
「こんなかわいいところのある女だったなんて、いま知りましたよ。すみませんね先生……」
ワトスン博士とポーキーのそんな言葉に、ホームズは深いため息をついていたが、彼も、別の意味で同意せざるを得ないことは分かっていた。
「まあ、しかたないだろう。それに、レディ・マリアもいったんは、ここを離れた方がよさそうだ」
彼はそう言うと、執事にマスグレーヴを呼びにやらせた。
そう、『マスグレーヴ卿の恋人』の話が、新聞に掲載されて以来、グローヴ、スター、ポールモール、セントジェイムズ、イヴニングニューズ、エコー、その他、ありとあらゆる新聞社の記者が、このやかたを遠巻きに取り囲んでいたのである。
(遠巻きなのは、記者が敷地に一歩でも入ったら、即座に逮捕しろと、マスグレーヴがスコットランドヤードにねじ込んで、警官がびっしりと、やかたを取り囲んでいるからだ。)
「話はうかがいました。しかし、しかし、レディ・マリア、それはいけません! ここにいれば、なんの不便もおかけいたしません!」
そう言われながら、マリアは思っていた。
なんか分かんないけど、とりあえずベーカー街に戻って、キティちゃんが立ち直ったら、一回家に帰って出直そう。もう旅行どころじゃなくなってる気がする。
ヴァイオレットは、まあ、お話では助かるし、大丈夫大丈夫。翻訳も元の世界に戻った方が早くない? 早いよね? と、自分が苦手なタイプと思われる彼女に、すでに心の中で別れを告げていた。最近、一番のモットーは、『三十六計逃げるに如かず』である。
「……ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫ですわ、これ以上の迷惑はかけられません。翻訳の件は、ご安心ください。あとで必ずお届けいたしますわ」
「いや、しかし……」
そんなふたりのやり取りを見ていた、「ようやく我が家のご当主さま、若さまにも春が!」そんな考えで頭がいっぱいの執事は、頭の中に満開の薔薇が咲き誇り、さっさと他の邪魔な人間を追い出さねばと考えたり、いやしかし、付き添いのご婦人は、そういう訳にも……しかし、ああ、ようやく、当家にも新しい、ご当主一家の家族の肖像画を飾れる日が! なんて、密かに涙ぐみ、この機会を逃してなるものかと、決意していた。
が、紛らわしい? やり取りをしているマスグレーヴは、そんなことは砂粒ひとつも考えてはいなかった。
彼は、不出来な弟が、ときどきこっそりと帰ってきては、先祖伝来の家宝(具体的に言えば、持ち出しやすい古伊万里の皿など)を、模造品とすり替えているのではないかという疑惑をずっと抱いていたが、自分は専門外であり、まだ疑惑の段階で家の恥を、おおやけにさらすことに悩んでいた。
が、そこに現れたのがマリアである。父上が専門家であるならば、謙遜はしているが、彼女もある程度は教養として、陶磁器の知識を持っているはずと踏んでいたのである。
「いやいやいや、ホームズたちの用事が滞るなら、もう少し小汚い……いや、彼の客が落ちつけるように、使用人の使っている清潔な小さな部屋を貸しますので! それより、いま気づきましたが、やしきの“古伊万里”の鑑定をぜひとも!」
「えっっ、そのわたくし、陶器のことは……」
執事はマスグレーヴのホームズたちに向けた「こいつら追い出せ」の目配せを、「レディ・マリアとふたりっきりにしろ」そんな風に解釈して、ホームズたちを、さっさと使用人、つまりは自分の部屋に追い出し……もとい、案内するように、ひかえていた自分の息子や、他の使用人たちに合図しようとしていると、残念ながら、気の利かない使用人のひとりが銀のトレーに訪問客の名刺を載せてやってきた。
「ご当主さまが予定のない方には絶対に会わないと、何度言えば分かる!?」
「そ、それが、その……ひどく強引で……すみません……」
ホームズは、使用人の不自然な様子を見て、トレーに載っている名刺を素早く引ったくって目を通し、案の定な名前に内心ほくそ笑む。
『グルーナー男爵』
「まったく、先日も大佐を通してしまって……いちいち、わたしが……」
「待ちたまえ!」
文句を口にしながら、やかたの正面玄関に向かおうとする執事を、ホームズは呼び止め、にんまりと笑っていたし、マリアはそんなホームズの表情を見て、心の中で思ってしまった。
『鴨がネギと鍋とカセットコンロを背負ってきたような顔をしている……』
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