第19話 番外編③師と辻村ヌンチャク

 辻に詳しい方はお気付きでしょうが、ツキ姫とウミ姫とハナ姫、本当は音樽之前、思鶴之前、真加登金之前というお名前です。なんかスマホに打ち込むの面倒だし、読む方も混乱すると思って、簡単で親しみのあるお名前に独断と偏見で変更させて頂きました。

 ワッサイビーン(ごめんなさい)。

 さて、三人の姫の祠ですが、辻遊郭跡に現存するものは、戦後再建されたものです。

 前にも書きましたが、辻は1944年の沖縄空襲で徹底的に破壊されました。今の辻遊郭跡にある多くの遺跡が、その後に再建された物であるのは仕方の無い事です。


 我が師、一文字隼人(仮名)が沖縄に渡った1960年代後半の辻は、地域にお金を落とす米軍の兵士のお陰で、キャバレーやバー、料亭などが潤い、大変な好景気に沸いていたそうです。

 そして、その景気を支えていたのが、公的には認められていない『売春』でした。

 ちなみに、この頃はジュリ馬行列祭が再開されて十数年が経った時期です。昔ながらの行列や踊りの奉納などもあったと思いますが、外国人のバンドマンと一緒にトラックの荷台に乗り、水着姿で踊り狂うキャバレーのホステスさんのパレードが一番印象に強いと師は言っていました。

 まだ沖縄に行った事の無かった私は、「さすが南国、1月でも水着で寒くないんだ」と妙に感心した記憶があります。

 いずれにせよ、当時のジュリ馬行列祭は、何でもありのチャンプルー(ごちゃ混ぜ)な祭だったようです。



 さて、そんなある日の事じゃった。隼人青年が三人の姫の祠の前をフラリと通り掛かった時のこと、その辺の草をプチリプチリとむしるお婆さんがいたそうな。そして、親しげに話し掛けてきたげな。

「本土の学生さんかい? 旅行かね?」

 隼人青年は答えた。

「いえ、学生ではありません。空手の修行に来ています」

「カラテ(空手)? ああ、トーデー(唐手)の事か……」

 『唐手』が本土で『空手』と呼ばれるようになるのは昭和6年から8年にかけての事じゃが、昭和40年頃の沖縄の高齢者は、まだ多くがトーデー(唐手)と呼んどった。

「……という事は目的は『カキダミシ』だね。夜は通りにアメリカの兵隊さんがようけ出るから」

 カキダミシとは、要は腕試しのことじゃ。

 唐手は武術なので試合が無い。じゃが、血気盛んな若者は、同様な輩が集まる場所へ出向いて腕試し、つまりケンカをしていた訳じゃ。

 これの語源は『掛け試し』で、手と手が掛かる、つまり相手を掴めるほどの近距離からの攻防を学ぶ練習法じゃったが、いつ頃が胸ぐらを掴み合うケンカを意味する隠語になってしもうた。

 お婆さんに図星を突かれ、隼人青年は照れ笑いをした。

「いや、まあ……ははは」

「ほどほどにせんと、アメリカの兵隊さんは大きいからね、いつか敵わん相手にぶつかるよ」

「はい、肝に銘じます」

 お婆さんの心配が単なるお節介ではないことは、隼人青年も身に染みとった。

 ほとんどのケンカ自慢の米兵の攻撃はボクシングスタイルで、パターンは予測できるものじゃった。こっちはボクシングを知っとるが、あっちは空手を知らん。

 これは、圧倒的なアドバンテージじゃ。

 ところが、米兵の中にも東洋の文化に興味を持ち、空手を学ぶ者がおった。こういった相手には、当然空手を知っておるからといって圧倒的な優位とはならん。

 ヘタをすると、体格差の分、米兵の方が優位ですらあったんじゃ。

「そんな事に時間を使うより、沖縄にはトーデーの他にも村々に色んな武術が伝わっとる。それを学んだらどうかね」

「はあ、棒とトンファーなら少し習いましたが」

「そうかね。他にも色々あってな、例えばこの村にはこういった物が伝わっとる」

 お婆さんは、祠の一つに供えられていた二本の短棒を手にした。黒く塗られて赤い紐で繋がっている。

 言うまでもなくヌンチャクじゃったが、ブルース・リーが世に出るずっと前の話じゃ。隼人青年は、それが武器だとは最初は思わんかったそうな。

「お供え物を勝手に触って大丈夫ですか?」

「大丈夫さぁ。これは辻を守る為にある物だから。こうやって使うのよ」

 お婆さんはヌンチャクを振り始めたが、それは眼には見えないほどの高速じゃった。ビュンビュンという風を切る音がして、隼人青年は目ん玉が飛び出すほど驚いたげな。

「加速と遠心力で当たると痛いのよ」

「いやいや、痛いどころか、頭蓋骨陥没ですよ」

 お婆さんは、しばらくドヤ顔でヌンチャクを振っておったが、終る時はピタリと動きを止めて言った。

「どうかね、やってみんかい?」

「教えてもらえるんですか?」

「その気があれば教えるとも」

「門外不出とかではないのですね」

「昔はそうじゃったよ。辻は女ばっかりだったから、娼館の一軒一軒にヌンチャク使いがおって、館を守っておった」

「そんな貴重な技を、男で、しかも本土から来た私なんかに良いのですか?」

「消えて無くなるよりいいさ。辻でも、琉球が沖縄になった頃から、どんどん使い手は減っていった。戦争前にはわんだけになっとったし、娘も孫も全く関心が無い」

「失礼ですが、お婆さんも元ジュリ……?」

「なんだい、その顔は。わんも若い頃はそりゃあ美人で、お前さんなんか一目でのぼせ上がるくらいだったさ」

「すみません、決してそんなつもりでは」

 お婆さんは、遠い目で空を見上げた。

「戦争で辻は燃えてしもうた。もうヌンチャクで守るべき娼館もここにはない。だけど、辻村ヌンチャクの技だけでも未来に伝えられたら……」

 こうして隼人青年は、辻村ヌンチャクを学べるようになったげな。

 めでたし、めでたし……。



 とまあ、こんな事があったようです。

 今となっては、お婆さんの名前も分かりません。

 師に至っては、行方も生死も不明です。生きていれば、間も無く80歳になります。

 師は、話のネタになる逸話の多い人でした。今でも時々師の名前をネットで検索したりしますが、ヒットするのは悪い噂ばかりです(汗)。

 結果論になりますが、90年代にプロレスと接触を持った事がダークなイメージを決定付けたように思います。あれが無ければ、ここでも師の名前を堂々と書けたと思います。

 当時、プロレスって絶対正義だったんですよ。それと敵対する構図を取ると、相手の格闘技側が必ず悪役になるのがお約束でした。

 当然です。プロレスの集客は、他のショー格闘技と比べて圧倒的でした。そもそも、舞台となるのはプロレスのリングでしたから。

 それでもビジネスになると師は計算したんでしょうね。プロレスで色々と問題を起こして追い出された問題児を団体に招き入れると、イメージをリニューアルして、当時の一番人気のスターにぶつけようと計画します。

 まあ、試合実現までに色々あったのでしょう。結局、途中で師と問題児のマネジメント関係は消滅します。

 この辺は色んな人が色々書いていますが、みんなプロレス側の人なので、やはり悪者は師になっています。

 僕は、その頃はもう師の元を離れていたので、その経緯を自分の眼では見ていませんが、やはり知人とかの噂は聞こえてきました。師は師なりの理屈や正義があっての行動だし、僕は師だけが一方的に悪い事はないと思っています。

 しかしまあ、プロレスファンからすると、ヒールである問題児を更に騙した極悪人、という事なのでしょうね……。

 ちなみに、その問題児、僕と同学年なんですよ。ヒール人気というか、アンチ人気というか、今なら絶対に受け入れられるキャラクターだと思います。

 数年前に壮絶な闘病の末にお亡くなりになりましたが、僕は好きでした。多趣味なオタクで、当時も僕の様なオタク方面の人には支持されていましたよ。

 師も問題児も、時代が少し早過ぎたのが悔やまれます。


 話しが随分逸れましたが、プロレス関係者からは詐欺師の様に言われた師も、沖縄で学んできた武術は本物でした。

 そして、お婆さんが望んだ通り、辻村ヌンチャクの技は、21世紀の今も細々と受け継がれている。

 これを次に繋げるのが、僕の役目だと思っています。

 いや、マジで……。

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