第13話 薩摩からの書状
カイが館を出て行って、三ヶ月が経った。カイのいない日々が日常になるのに、十分な時間だった。
ただ、サクだけが、厨房の片隅で丸くなって食事をしていたり、廊下を遠慮しながら身体を斜めにして歩いているカイを眼で探してしまう。便所の前でバッタリ出くわさないかと期待してしまう。
ーーもう、ここにいる筈もないのに……。
そう思う度に、サクの眼に涙が浮かんだ。
そして、どうか元気でいますように、と心から祈った。
☆
そしてアンマーは、今まで経験した事のない事態に当惑していた。その日、グナァアンマーを呼んで相談する事にした。
手紙の束を見せて言った。
「見てよ、この書状。全部サクの初御客の申し込みさぁ。名門の商家、有力な貿易商、貴族、士族。例のエロ坊主のもあるけど、これは却下ね。お得意様だけど、いきなりあの人じゃ、サクが壊れてしまう……」
アンマーは、束の最後にあった一枚を引き抜いて台の上に置く。
「……私はね、この人にしようかと思うの。この書状が本物だったら、だけど。どう思う?」
グナァアンマーは何気なく書状を手にした。しかし、少し眼を通しただけで、みるみると顔色が変わっていく。
「まさか……タチの悪いイタズラ? 何よ、島津斉彬って、薩摩のお殿様じゃない。誰がこんなもの持って来たのさ?」
「昨日、諏訪数馬様という方がお忍びでおみえになったの。遊んで行かれる訳でもなく、この書を置いて帰られたわ」
「諏訪様って、軍役奉行のお偉いさんだったかしら? という事は……」
「この書も本物……内容も、藩は無関係で、お殿様からの個人的な申し込みとなっているわ」
「なるほど……初御客に付くのも、お殿様ご本人ではなく、この小松帯刀という方なのね。誰?」
「諏訪様から一通り聞いたけど、まあ複雑よ。諏訪様の前の軍役奉行は、小松清猷様という名門小松家の領主様で、幼い頃から神童と謳われた天才だったの。お殿様も、これからの薩摩のみならず、日本の舵を取る人物として、大変期待していたらしいわ」
「知ってる! 琉球で赴任中に急死されたのよね?」
「そう。まだ28歳の若さだったらしいわ。昨年の事よ」
「原因は何なの?」
「分からないみたい。心臓が悪かった、というのが表向き。でも、暗殺説も否定できないって。琉球は外国の怪しげな薬が色々持ち込まれるし、幕府側で命を狙う者もいたでしょうし」
「それでそれで?」
「領主が居なくなった小松家も、未来を預けていた薩摩藩も、とーぜん大慌てさぁ。神童と呼ばれていた清猷様に匹敵する人物なんて、そうそういる訳がない」
「そりゃそうでしょうね」
「ところがいたのよ」
「……ちょっとアンマー、ズルくない?」
「それが小松帯刀様。跡目養子となって家督を継承したの。清猷様並の天才なんですって」
「でも、そんな天才が、なぜサクの初御客の相手に手挙げを?」
「そこで『赤き龍の乙女』の伝説なのよ。帯刀様は、幼い頃からの過度な勉学のせいで、お身体が弱いらしいわ。お殿様としては大変心配なのよ。また清猷様のようにポックリ逝かれたんじゃ堪らない」
「赤き龍の乙女を抱けば無病息災っていう、あのくだらない噂をお殿様が信じたの? 誰がそんなデタラメをお耳に?」
「まあ、溺れる者は藁だって掴むから。噂の事を知らせたのは諏訪様ね。あの方のお役目は、主観を入れずに、客観的に琉球での出来事を藩に報告すること。それが、お殿様の眼に止まったのだと思うわ」
「なるほどね。だけど、この金額、零が一つ間違ってない?」
「それは私も尋ねたわ。間違いないって。薩摩としては、言わば藩費で女を買う訳で、なるべく外には知られたくない。口止め料込みってことよ」
「やったあ! 私達、しばらく遊んで暮らせるさぁ!」
はしゃぐグナァアンマーに、アンマーは真面目な顔で言った。
「ダメよ。ジュリが身体を売るのは生活の為だけじゃない。分かってるでしょ」
グナァアンマーは肩をすくめる。
「分かっているわ。冗談よ」
アンマーは窓から外を見た。庭にサクとククルがいた。
ククルの手には、米粒か何かが乗っているのだろう。小鳥が集まって、ククルの手から餌を啄んでいる。
小鳥と戯れるククルを、サクは眼を細めて見ていた。
すると、小鳥より少し大きな鳥が一羽飛んで来た。小鳥達を追い払い、エサを独占して食べ始める。
「ああっ、小さいコ達が逃げちゃった」
ククルが落胆の声を上げる。
鳥はすぐに食べつくし、もっと欲しいとねだる様にククルとサクを見上げた。
その眼が可愛くて、ククルの機嫌がまた良くなる。
「でも、このコも可愛い」
サクは右手を鳥の前に差し出した。そこにも米粒があるのだろう、鳥はサクの手に飛び移った。
「だけど、少しイタズラっ子ね。少しお仕置きが必要よ」
そう言うサクの方がイタズラっ子の顔だ。
鳥は食べ終わると、満足そうに羽繕いをした。そして、飛び立とうと羽を拡げる。
まさに飛ぼうとしたその瞬間、サクは鳥を乗せた手の力を柔らかく抜いた。急に足場を失った鳥は、羽をバタバタとさせるだけて飛び立つ事ができない。
豆鉄砲を食らった顔とはこの事だろう。鳥はしきりに首を傾げる。
鳥はもう一度飛ぼうとする。サクはもう一度イタズラを仕掛け、鳥は飛べない。
もう一度、更にもう一度……。
とうとう、鳥は飛ぶのを諦めてしまった。
サクは、動かなくなった鳥を、空高く放り投げた。鳥は空中で翼を羽ばたかせ、どこかへ飛んで行った。
「ネェネェ凄い! 魔法?」
ククルの興奮は半端ない。
「違うわよ。呼吸を合わせただけ。鳥さんは飛び上がる時、たぶん息を止めて全身に力を入れるの。だからネェネェは、それに合わせて息を吐いて全身の力を抜いたのよ。ただ、それだけ」
アンマーとグナァアンマーは、お互いの顔を見合わせて笑う。
アンマーは呆れ気味だ。
「それだけ、ですって。私達じゃあ、そもそも何時間庭に立っても鳥なんて飛んでこないから」
グナァアンマーも頷く。
「お侍は剣を極めると、超人的な感覚や集中力が身に付くと言うけど、サクはもう、そういう領域に入っているのかもね」
「剣でなく、ヌンチャクで?」
「そう、ヌンチャクで」
アンマーがサクとククルに手招きした。それに気付いた二人は、まるで呼ばれた子犬の様に嬉しそうに部屋に入って来る。
「そこにお座り、サク。今日はククルも一緒に居ていいわよ」
いつもは性技の講義が始まると部屋を追い出されるククルは嬉しそうだ。
「サクの初御客の日まで三ヶ月。この十年、本当にアッと言う間だったね。幼い頃から美しかったけど、稀に見る美少女に育ってくれた。頭も良いし、いざとなったら自分で闘える。サクみたいな娘、他にいないさぁ……」
アンマーがあまりにもベタ褒めするので、サクは頬を赤く染めて俯いてしまう。
「……歌は今一つってみんな言うけど、飾り気の無いサクの声、私は好きだよ。踊りは誰よりも上手になった。色っぽい、男を惑わす踊りだね。殿方を喜ばす技も、一通り身に付けた。本番では落ち着いてやることさぁ……」
グナァアンマーも、アンマーの言葉に頷きながら、優しい眼でサクを見つめている。
「……今日は、私たちジュリが男に買われる事にどういう意味があるのか、それをこの辻が出来た経緯と交えて話してあげるね」
サクとククルは、一体どんな話が聞けるのかと、眼をキラキラと輝かせる。
アンマーはサクとククルの顔を覗き込むと、勿体振るように話し始めた。
「……それは、むかーし、むかーし、200年以上も昔の話さぁ……」
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