第12話 番外編②師と武術と沖縄と

 我が師、一文字隼人(仮名)は、昭和41年に当時アメリカの占領下にあった沖縄へ密航同然で渡り、琉球の武術を3年に渡り学んだ。

 師、23歳の時である。

 その時の話は何十回と聞かされたが、毎回同じ内容でも大変面白かったのを憶えている。

 現地の方のご好意により家賃の取り決めも無く下宿させてもらった、と言えば聞こえはいいが、実際はたまたま知り合ったお爺さんの人の良さに付け込んで居候していた、というのが実状らしい。

 沖縄には「イチャリバチョーデー」という言葉がある。「知り合えば皆兄弟」という意味らしいが、この地にはそういった精神が確かに息づいている。

 師も一見ストイックな武道家に見えるので、年配者に好かれたのだと思う。実は結構な野心家だったのだが……。

 師は当時、既に剛柔流と糸東流の段位を持っていた。それでも沖縄で空手の原形である唐手(トーデー)を学んだ時には大変なショックを受けたという。

 空手と唐手では、常識が見事に180度逆転していたからだ。

 詳しく書くとややこしくなるので簡単に述べるに留めるが、空手で『防御』として伝わっている技が唐手では『攻撃』であり、『攻撃』として伝わっている技が『防御』だったりする。要は沖縄から本土に伝わった時に、逆に伝えられたという事なのだろう。

 どうしてそんな事になったのか、師に聞いた事がある。

「君達の世代ではピンと来ないかもしれないが、昭和40年頃はまだ、沖縄差別的なものがあったんだよ。ましてや、唐手が本土に伝わったのは明治から大正の時代だ。差別されている側が、差別している側に、何でもホイホイ教えると思うかね?」

 沖縄差別。

 それを象徴する出来事が、明治36年に大阪万博であった。そこで沖縄県人は『土人』として『展示』されている。

 この万博では沖縄県人だけではなく、世界10程の地域から32名が展示された。当時の日本の差別意識の強さが窺える。

 また、昔の唐手は、現在のスポーツ化された空手とは目的も意義もまるで違う。教え方も、今のように競技のルールにそって手取り足取り教える訳ではない。そもそも競技ではないからルールが無い。

 剣術でもそうだが、古来の武術の伝え方は、まず断片的に『動き』を教える事から始まる事が多い。習う方は、意味も分からずにその動きを繰り返すだけだ。

 動きが身体に浸透して、最後に免許皆伝などの形で『串』となる部分が教えられる。『鍵』といってもいいかもしれない。すると全てが繋がり、単なる『動き』は『技』となるという仕掛けだ。

 だが、本土において唐手は、大正から昭和初期にかけて慶應義塾大学や東京帝国大学といったエリート学生を中心に広がる。彼らは、どこまて沖縄から来た指導者に偏見無く教えを乞うただろうか?

 途中で学ぶ事はもう無いと未熟な判断で我流に走ったり、差別的な態度で指導者の反感を買ったのであれば、『串』は本土に伝わらなかっただろう。

 昨年(2021年)、東京オリンピックで空手の形競技のメダル獲得に日本中が沸いた。

 それは観るものを感動させるもので、テレビはその美しさと迫力を讃えたが、反面「その技で実際に闘えるか」という言及は一切無かった。

 形は遺す事が大切だと解説者は語った。確かにその通りだと思う。

 だがそれは、『串』が伝わらずに『動き』だけが伝わった事の証明だとも言える。

 武術としての『串』を失った唐手は空手と呼ばれるようになり、ルールが整備されてスポーツになった。そして世界中に広がってオリンピックというスポーツ最大の舞台で競われるまでになる。それはそれで素晴らしいことだ。

 その陰で、武術としての唐手は消え行く運命にある。

 しかし、昭和40年頃には、まだ武術としての唐手を伝える指導者が僅かながらいた。師が学んだのもそういった人物の一人だった。


 そして、唐手と共に師が指導者を求めたのが、現在は琉球古武道と呼ばれて一緒くたにされている武器術の類だった。

 本土でも沖縄空手の看板を出している道場で、主に棒、トンファー、サイ、ヌンチャクを学ぶ事ができる。特徴的なのは、この4つの武器を段階的に学ぶカリキュラムが採用されている事だ。

 棒の課程が終了したらトンファーに、トンファーが終了したらサイへ、と順番に学ぶ事で、広く浅く技術を習得する事ができる。

 師はこのシステムを、後の空手家のマーケティングによるものだと言っていたが、確かにその側面はあると思う。少なくとも「空手と琉球古武道は車輪の両輪である」という一部の空手家の主張は、歴史的にも民俗学的にも誤りだ。

 唐手は士族に伝えられ、武器は庶民が使っていたものだ。この二つか接点を持つのは、明治以降である。

 琉球処分(1879年)により、貴族や士族はその地位と特権を失う。貧窮した元士族が、唐手の技術を切り売りする事で生活の糧を得ようとしたのはやむを得ない事だった。

 そこで初めて接点ができる訳だが、より強く影響を受けたのは武器術側である。立ち方や歩法といった基本技術が空手とほとんど共通である理由がここにある。

 体系化され、首里や那覇、泊といった地域的な特徴で分類されていた唐手に対し、武器術は個人芸の域を出るものではなかった。形の伝承は極端に少なく、今となってはどの様に使用するのかさえ明らかでない武器も少なくない。

 当然だろう。琉球の民は薩摩からの重税に苦しみ、生きるのがやっとだった。

 武器は、自分と家族の命、そして僅かな財産や食料を海賊、山賊といった輩から守るのに切実に必要な物だったのだ。襲われたらそれで抵抗し、生き延びれば次も使う。誰かに伝えるとか、後世に遺すとか、そういった余裕は無くて当たり前である。

 そんな武器術と唐手が交えば、侵食されるのが武器術であるのは必然だ。

 だが、原形としての武器術が全く残っていないかと言えば、そうでもない。

 村棒と呼ばれる棒踊りがそうである。棒踊りは沖縄各地に伝わっており、今も祭りで踊られる。

 踊りとしての伝承ではあるが、最初は『模擬戦闘』的な出し物だったのだろう。当時どのように闘ったかを伺えるものも多い。

 中には『スーマチ』のように、何十人もの人が棒を持って一斉に踊るものもある。集団自衛訓練の名残だと言う。

 師はそういった、後の空手家の解釈が加えられていない、かつ実戦の技を残した武器術を探し求めた。

 そして見つけたのが、ある漁村に伝わっていたトンファー、そして辻村の秘伝とされていたというヌンチャクだった。


 平成2年に亡くなられたが、上原栄子さんという方がいた。戦前、本当に辻村でジュリをなさっていた方だ。

 その方の著者『辻の華』は、終戦記念日や沖縄戦の日が近づくと様々なメディアで取り上げられるので、今さら説明の必要はないかもしれない。人々の関心が、どうしてもショッキングで悲惨な話が続く戦中戦前の後半部分に向いてしまうのは、仕方の無い事だろう。

 だが前半は、10・10空襲で消滅するまでの、最後の辻遊郭の姿を知る事ができる貴重なものだ。しかし、その中に辻村ヌンチャクの記述は一切出てこない。

 近代化が進んだ昭和の時代には、遊郭と言えども遊女が自ら闘う必要は、もう無かったのだろう。

 ところが、ジュリ馬祭りが復活した平成12年、神棚にヌンチャクが飾られた写真が公開された。私はネットで見ただけだが、黒い本体に赤い紐と、師に聞いていた通りのヌンチャクだった。

 その写真をネットにアップした旅行者は「神棚にヌンチャクなんて(笑)」と書いていたが、経緯を知らない人にとっては当然の反応だと思う。だがそれは、少なくともその時まで、辻村に隠された武技がある事を知る人がいたという証明だろう。


 昭和41年当時の辻村は、バーやクラブが建ち並ぶ歓楽街になっていた。そして、米兵相手の売春が事実上黙認されていた。

 約1000人もの娼婦がいたという。

 まだ若かりし師は、女に興味があったり、米兵のケンカ相手を探したりで辻村に出入りしたのだろうが、そこである老婆との出会いがある。

 そして、秘伝とされる辻村ヌンチャクの存在を知るのだが、それはまたいつかの機会に……。

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