第9話 伝説の始まり

 芸事の稽古が終わると、ジュリ達は時間をかけて化粧をした。髪型を整え、着付けをする。そして、普通の女から男を惑わすジュリへと変身する。

 その時間、サクの世代の娘は読み書きとソロバンの勉強をするのだが、サクはすでに全ての課程を終了したばかりか、自分の後に辻売り(少女専門の仲買人)から売られて来たククルという幼い少女の教育係も受け持っていた。

「二かけ二はね、二枚の貝殻が二組あるという事なの。全部で何枚あるかしら?」

「四枚!」

「そうだね。偉い、偉い」

「エヘヘ」

 ククルの先生を勤めた後、サクはようやくカイの母親からヌンチャクを学ぶ事ができた。人一倍早く読み書きソロバンを覚えたのも、ククルの先生役ができるのも、サクが優秀だからというより、ヌンチャクを学びたい一心の努力によるものだ。

 晴れた日は庭で、雨の日は部屋の中で、カイの母親に客が付いた日以外は稽古がつけられた。その熱心さもあって、サクは見る見ると上達する。

「いいかい、ヌンチャクの極意は不意討ちだよ。だから、決して敵にヌンチャクを見られてはいけない。見えないくらい速く振るの。遅いよ! 速く! もっと速く!」

 サクはヌンチャクの回転速度を更に上げる。それでも普通に会話できる程に上達していた。

「グナァアンマー、不意討ちって卑怯じゃないかしら」

 グナァアンマーとは、今風に言うなら『チイママ』といった意味だ。カイの母親は、アンマーより頭一つ大きかったが、この娼館のナンバーツーという事でグナァ(小さい)と呼ばれていた。

「そんな事ないさぁ。強盗はどんな理由でも許される事じゃないからね。それに、ヤーヌカミーが負ければ、最悪この館の全員が殺される。ヤーヌカミーは、絶対に負けちゃいけないの」

 敗れたヤーヌカミーは、見せしめに残虐に殺される事が多い。それを脅しに金品を要求するのだ。

 だが、金品を渡したからと言って、命が助かる保証はどこにもなかった。むしろ、口封じに殺されると思って間違いない。

「勝たなくていい。負けなければいいのさぁ。だから、この村のヌンチャクには負けない為の知恵が詰まっている。背中で構えるのもその一つ」

 指導する時のグナァアンマーの顔は厳しいが、ふと優しい顔に戻って言った。

「生きてさえいれば、それは勝ったのと同じだから……」

 その言葉の意味を、サクは間も無く知る事になる。



 暮れ六つ(現在の午後六時頃)の鐘が鳴ると、アンマーが神棚に商売繁盛を祈り、娼館の門は開かれる。

 その神棚の横には、鮮やかな赤い紐で繋がれた二本の黒く塗られた棒が掛けてある。知らない人が見れば神事の道具か御守りの類に見えるが、言うまでもなくヌンチャクだ。

 賊が侵入した時、ヤーヌカミーはこのヌンチャクを持って現場へと向かう。

 このヌンチャクを見習いが使う事は許されていない。サクも触る事ができなかった。

 グナァアンマーは四〇歳手前、体力的には下り坂だが技は益々冴えており、サクが実戦を経験するのはずっと先の話と誰もが思っていた。

 だが、運命はサクに戦いを強いる。


 その日、サクは調理場で、大量に運び込まれる食器と格闘中だった。単純で退屈な仕事だが、幼い頃のカイの言葉を思い出して、一人笑っていた。

「お茶碗とかお皿は洗える? オチンチンを洗うみたいに、優しく洗うんだ。壊さないようにね」

 あの頃の、お喋りでよく笑うカイはもういない。寡黙で力持ちで、感情をあまり表に出さない男になった。

 だけどサクは、そんなカイの事を思うと、胸の奥がむず痒くなる。

 そんな感情に戸惑っていると、今日は客が付かずに裏方の仕事をしていたジュリがサクに声をかけた。

「グナァアンマーはどこかしら?」

「お客さんに付いています。今頃、真っ最中かと」

 ジュリの身体に負担をかけるプレイを望む客はいるもので、金払いが良くてどうしても断れない時、そんな客の相手をするのはアンマーがグナァアンマーだった。

 今日の客は、男二人で一人の女を攻めるのが好きな客だ。当然、体力も二倍使う。

「困ったわぁ。裏口の方で物音がするのよ。こんな時間だし、ネズミだとは思うけど」

 辻村に強盗が入るのは、明け方と相場が決まっている。客が帰り、男が居なくなる時間を狙って入るのだ。

 サクは洗い物を中断し、手を拭きながら言った。

「私が見て来ますよ。ネズミだったら追っ払いますから」

「大丈夫?」

「ええ、念のためにヌンチャクを持って行くので」

 サクは、つまらない事でグナァアンマーに負担をかけたくなかった。

 右手に自分の練習用のヌンチャク、左手に行灯を持って廊下を進む。

 この時間、裏口付近は誰も居ないし、暗いしで気味が悪い。

 だが、何の物音もせず、ネズミも逃げた様だ。

 サクはホッとして、鍵の確認だけして戻ろうと思う。

 そして、心臓が止まる思いをする。

 鍵が壊されていたのだ。

 サクは行灯で床を照らす。うっすらと大きな足跡が廊下に続いていた。

 外部からの侵入者がいるのは間違いなかった。

 サクは足音を立てないように足跡をたどる。角を曲がった所で行灯を床に置き、両手でヌンチャクを持った。

 右手を右耳の横に、左手を右の脇の下へ、するとヌンチャクは右肩の後ろに隠れる。側構え(そくがまえ)という構えだ。

 その構えのまま、サクは慎重に進んだ。足跡は物置部屋へと続いており、閉まっている筈の戸が開いている。

 ーー明け方まで、ここに隠れているつもりね。

 サクが応援を呼ぼうと後退りを始めたその時だった。物置部屋から、髭面の男がヒョイと顔を出した。

 廊下が明るくなった事を不審に思って出て来たのだ。

 サクと目が合った男は、ニヤッと笑って右手の鎌を差し出す。

「おっと、騒ぐなよ。騒がなければ、命までは取らないからよ」

 低く、ドスの効いた声だった。

 男は、舐め回すようにサクを見る。

「へへへ、とんでもねえベッピンだな。その髪型、まだ初御客前か。ジュリの処女を頂けるなんざ、オレもようやく運が向いたぜ。さあ、殺されたくなかったらこっちに来な」

 男が不用意に近付いたその瞬間、サクは左手を離し、右手をクルリと前方に向けて一回転させる。するとヌンチャクはサクの右脇にぶつかり、その反動で前方へと強く打ち出された。

 ヌンチャクが男の顔面に命中したビシッという鈍い音と、鼻骨の折れるパキッという軽い音が同時にした。

 鼻血がボタボタと、滝の様に滴り落ちる。

「あれ?」

 男の眼はヌンチャクを追いきれず、何が起きたのか理解できない。

 辻村ヌンチャクの蛇舌(じゃぜつ)という技だ。蛇が舌を突き出す動きに似ていることからその名がある。

 サクはヌンチャクを引き戻すと、連続で蛇舌を放つ。二発目は男の眉間に当たり、三発目は顔を庇おうとした手に当って鎌を吹き飛ばした。

 男がガクンと膝をつく。

 サクは頭上でヌンチャクをクルクルと回転させて加速をつけると、渾身の袈裟打ちを男の肩口に叩き込んだ。

「アガー(痛い)!」

 男は呻くと、裏口に向かって逃げ始める。慌てたサクは技もヘッタクレもなく、男を滅茶苦茶にブン殴った。そして叫んた。

「ドロボー! ドロボー! 誰か! 誰か来てぇ!」

 逃げる男を更に追いかけて数発殴ったが、グナァアンマーの言葉を思い出して追うのを止めた。

「いいかい、歯向かう者は容赦せず、逃げる者は追わずだよ。追い詰められた賊は窮鼠と同じ、猫だって噛んじまうからね。万が一、組み付かれたら、ヌンチャクの技は封じられてしまうよ」

 逃げて行く男を見送りながら、サクは生きていれば勝ちだという言葉の意味を実感していた。だが反面、心は不安で一杯になった。

 グナァアンマーが賊と対峙した時、ほとんど一撃で敵を倒す。どんな大男でも、三発以上打ったのを見たことがない。

 サクも、技が決まりさえすれば、敵を一撃か、一撃とはいかなくても数発で倒せると思っていた。

 ところが現実はどうだろう。何十発殴っても男は倒れない。倒れないどころか、スタコラと逃げて行った。

 もしかすると、自分は致命的にヌンチャクのセンスが無いのではないか、ヤーヌカミーに向いていないのではないか……そんな思いがサクを襲う。

 サクの叫びに気付いたジュリや客が裏口前に駆け付けた時、サクは血溜まりの上に茫然と立っていた。

 その姿は、返り血を浴びて真っ赤だったという。


 赤き龍の伝説の始まりだった。

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