第8話 小さな恋

 十歳になると、サクは客の前に出るようになる。

 料理や酒を運んだり、空いた食器を下げる係だ。時には暑がりの客を扇であおいだりもした。

 サクはこの仕事が嫌いではなかった。時々、酔って気分が良くなった客が小銭を握らせてくれるからだ。

 それは、サクの唯一の現金収入となる。サクはそれを大切に貯めた。

 時には客にからかわれる事もあった。

「ほう。幼く見えるが、えらく整った顔をしているな。歳は幾つだ?」

「十歳です」

「なんだ、まだまだじゃないか。まあ、将来の楽しみが増えた。その時は客になってやるからな」

 おのずと好色な眼で見られる事に慣れてくる。

 そして、ジュリの本当の仕事が何かも、自然とわかってきた。

 踊りも楽器も美しい立ち振舞いも、自分の商品価値を高めるための装飾品だ。

 本当の仕事は、男の欲望のはけ口となること。

 幼いサクにとって、この事は恐怖や嫌悪といった感情を持つ前に日常となった。

 時には、食事が終わるのも待ちきれずに事を始める客もいた。サクがいてもお構い無しだ。

 そんな時、サクは息を止め、自分の仕事だけに集中する。

 一度、カリンに付いた客と目が合った事があった。

 カリンに口で奉仕させながら、値踏みするような目でサクを見た。

 ツルツルの頭、布袋尊の様に大きな腹、そして信じられないほど巨大などす黒いモノ。

 その巨大などす黒いモノの上を、カリンの赤く小さな舌がチロチロと這い回る。

 ニヤッと笑った男は、まるでサクに見せつけるかのように腰を前に突き出した。

「さあ、そろそろ来ておくれ」

 男の声に、カリンはモノから口を離した。チラリとサクを見て、今のうちにここを離れろと眼で合図する。

 重ねた食器を持って部屋を出た時、カリンの声が響いた。

「ああんっ! こ、壊れるぅ! こんなの知ったら、戻れなくなるぅ!」

 サクは驚き、調理場のカイの母親の所へ走った。

「グナァアンマー! カリンちゃんが大変だよ! 壊されて、戻れなくなるって」

 だが、カイの母親は別に慌てもせず、調理を続ける。

「そうかぁ、今日の客はホテイさんだったね。心配しなくてもいいよ。エロ坊主だけど、乱暴な事はしないからさぁ」

「大丈夫なの?」

「まあ、明日は足腰が立たないと思うから、いたわってあげるんだよ。確かに、あの男を知ってしまうと、普通の男で満足できる身体には戻れないかもねぇ」

 そのエロ坊主が、本土では高名とされる本当の僧侶である事を知るのは、しばらく後の事である。



 カイは十歳になると、腕の良い船大工に弟子入りした。

 それから、重い木材を一日中運び続ける日々が始まる。

 辻村が眠りにつく頃に起き、仕事に向かう。そして、辻村が活気付く頃に帰って来て、ボロ雑巾のように眠った。

 サクとは寝る部屋も別になり、すれ違うばかりとなった。

 

 そんな生活が二、三年続いた後、カイは少しずつ仕事を任されるようになる。木材を切り、そして削る。古い船の傷んだ板を外して、新しい板に取り替える。

 そうした日々を繰り返しているうちに、カイは船には魂があると感じてきた。愛着と感謝の気持ちを持つ事で、船はその役目を果たしてくれるのだ。

 船大工は、山で船材の伐り出しに立ち会うときに木霊に御酒を供え、船が進水するときにまた御酒を船霊にお供えする。

 船の魂は、船乗りの命と共にある。沈む事は、即ち死を意味する。

 船大工の仕事とは、単に船を組立る事ではなかった。船に魂を込める事なのだ。

 その誇りと自覚が、カイの顔を少年から男へと変えていった。


 だが、遊郭で育ったカイにとって、美しいとは肌が白く、滑らかて柔らかいことだ。

 真っ黒に日焼けし、日々の肉体労働でゴツゴツと肥大した筋肉ばかりの肉体は、カイにとってコンプレックスでしかなかった。

 たまの休みの日、カイは昼まで寝ている。起きても、昔のようにジュリ達と食事をすることはない。自分の部屋に引き込もって、一日の大半を過ごす。

 だが、三線の音が聞こえると部屋を出て、少し離れた所からジュリ達の楽器や踊りの稽古を見つめた。その中にはサクの姿もあった。

 サクは三線はまだまだだったが、踊りはすっかり上手になっていた。

 特に、繊細な手先の動き、視線の流し方、顎や首の小さな仕草というのは、教えたからと誰にでもできるものではないだろう。

 そういったセンスの良さに加え、透き通る様な肌と細くスラリとした手足のサクの踊りは、カイには天女の舞いのように見えた。

 ジュリ達の稽古が終わると、カイはまた自分の部屋に戻る。

 そして膝を抱き、バケモノの様に醜く変化していると信じている自分の肉体を呪うのだった。



 そんなある日、サクは米俵運びを頼まれる。玄関に届いた米俵を、調理場まで運ぶのだ。

 取りに行って、サクは愕然とする。いつもよりずっと大きなサイズの物だったからだ。

 手伝うよと言ってくれたカリンの申し出を断った手前、強情なサクは何とか一人で運ぼうと奮闘を始める。一メートル程フラフラ運んでは休み、また一メートル運ぶという事を繰り返していた。

 そして何回目かの挑戦の時、持ち上げた米俵が、そのまま宙に浮いた。

 仕事を終えて帰ってきたカイだった。軽々と米俵を肩に担いでいる。

「運ぶよ」

「疲れてない?」

「平気さ」

 本当に久しぶりの会話だった。

 そこには、お喋りでコロコロとよく笑う、昔のカイはいなかった。代わりにいたのは、無口で何を考えているのかわからない、今のカイだ。

 だけど、優しい眼だけは昔と変わらない。

 カイは重い米俵を担いでスタスタと歩きだした。サクは慌て後を追う。

 サクは、カイの後ろ姿をマジマジと見た。昔はサクよりチビなくらいだったのに、今では見上げるほど大きい。

 二の腕はサクの太股より太く、米俵を支える肩の筋肉は塊となって蠢いているのがわかった。

 力持ちになったカイを、サクは憧れの眼差しで見る。大きな筋肉も強い力も、サクがどんなに望んでも手に入らないものだ。

「仕事、楽しい?」

 サクは頑張って話し掛けてみる。

「楽しいよ。兄弟子に嫌なヤツが一人いるけど、あんなヤツ、どこにでもいるし」

 カイは自分から話し掛けるのは苦手だが、受け答えは普通はできるタイプだった。

「カイは偉いねぇ、小さい頃の夢を叶えて。カッコいいよ」

「カッコいい? ボクが?」

「うん! 背が高くて、強くて、カッコいい!」

「こんなに真っ黒なのに?」

「それも男らしくてカッコいいさぁ」

 カイは、溺れていた水の中から救われた気がした。

 調理場に二人は入っていく。

「母さん、米俵ここに置くよ」

「おや、カイかい。お帰り。ありゃ、こんな大きな米俵だったのかい。知らなかったよ。ゴメンね、サクちゃん」

 サクは首を振った。

「いえ、カイが運んでくれたから」

「カイもありがとね。そこに晩ごはん準備してるから。サクちゃんはこの料理、客室に運んでくれる」

「はい!」

 サクはカイを真っ直ぐに見た。

「じゃあね、カイ。米俵、持ってくれてありがとう。またお話しできる?」

 カイは照れ臭そうに答える。

「うん、また」

 サクは嬉しそうに微笑むと、料理の乗った盆を持って調理場を出て行こうとした。

 カイは慌ててサクを呼び止める。

「あっ!」

「え?」

「あの……サクもさ、凄く綺麗になったよ」

 サクは返事をせず、満面の笑顔をカイに見せると、調理場を出て行った。

 カイは、優しい眼でサクの後ろ姿を見送る。

 そんな二人を見て、カイの母親の胸は切なさで一杯になった。

 そして、これ以上二人が愛が深まらない事を、心から願った。

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