Night15:猛るポリプテルス②

 空中に縫い留められた夜嘴さんの直下に蔵内くらうちさんは走り込んでいた。

 それどころか、すでに跳躍のために身を沈めている。

ヅォン

 蔵内さんの声と同時に、先程重さを操っていた短髪の女性が動いた。

 再び「条件」だろうギターピックを取り出している。

 蔵内さんの体重を軽くして、一気に夜嘴さんの元まで跳躍させる気だ。

「黙って見てると思うかい。佐備沼さびぬま!」

 音籾ねもみさんが女性に向けて続けざまに発砲し、佐備沼さんが酸素の弾丸をその回避線上に回り込ませるように射出する。だが、


 が

  ぎ

   ん、


 蔵内さんが、逆手一刀の下に弾丸を弾き飛ばした。

 人間の運動能力ではない。火花が散り、一瞬だけ蔵内さんの『暗闇』を移植された肌が明るみに映る――



 ItaqueEcep earum▝░eur rerums░nt hic teneturo▜cae §apiente▝cat delectuscupid▚tat non§ ut autproid▞▜nt reiciendisunt in cul▰a§ voluptatibuqui of▊▊cia§ maioredese▜runt§ aliam▄llit§ conan▜m§equaturid aut e▟stperferendilab▰rum§ ――


 ロレム・イプサムの書字が、もう一層。

 蔵内さんが自身に貼付した『暗闇』の裏に刻まれていた。

 そこで、おれはようやく蔵内さんの〈代数能力アルゼブラ〉の脅威を悟る。

 不意を突かれない場合、〈代数能力〉はほとんど隠して発動することはできない。能力の焦点に対してロレム・イプサムの書字が刻印される特性上、その対象はほとんどすべての人間にとって明らかになるからだ。

 だが、この『暗闇を移植する』〈代数能力〉は――複数の能力者同士で運用された場合、その特性を掻い潜って、ロレム・イプサムの攻撃の静粛性を最大まで引き出すことが可能となる。


「自分の強化を隠蔽したね。味な真似するじゃあないか」


 音籾さんは手早く弾丸を装填しながら毒づく。

 それを好機と見たのか、〈舞踏会ワルツ〉の男女が三人、佐備沼さんに接近している。

 今の攻防は五秒にも満たなかったはずだが、恐らくは何度もこういう手口を繰り返してきたのだろう。ということは、奴らの思い通りに動かれるとまずい。

 おれは軟化させていた硝子を蹴って、地上まで跳躍した。

 先程足場にしていた水槽には、十分に能力を浸透させてある――砲弾のような勢いでおれの身体がかち飛ぶ。着弾。掌が床に触れる。

 ここだ。おれは〈代数能力〉のギアを更に上げた。脳内の回路が焼けつく感覚。


  L

    o    m

      re


 床が液状化したように波打ち、ばごんと接近していた三人を宙にかち上げ――その空隙に走り込んだ奴が誰なのか、おれはもう知っていた。


「良いパスだぜ、航」


 くる。

 尾武嵐が、暴風じみて斬り込んでくる。

 バッシュを履いた尾武は誰にも止められない。


 ……あの時。

 あいつの怪我を真っ先に治した時。

 尾武がおれのことをどう思っていたか、解らなかったわけではない。

 だがおれは、あの時の選択に一片の後悔もなかった。

 何故なら尾武がおれに追いつけないと言うのは、大いなる勘違いだからだ。

 あいつが早すぎて、一周回っておれの後ろにいることに気付かないだけ。

 ずっとそう思っている。


 Temporibus  ▶▶ autem ▶▶  quibusdam ▶▶  et aut ▶▶  officiis debitis aut ▶▶  rerum ▶▶  necessitatibus ▶▶  saepe eveniet, ▶▶――


 物理法則を越えた加速を抜き放つ、奴は疾走していた。

 全身に纏った〈代数能力〉のブリンクでその身を光散らし、最速のポイントガードが宙を駆ける。吹っ飛んだ二人を加速のままに蹴飛ばし、自身もそいつらを足場に踏みつけて、どぐしゃ、という音を蹴立てつつ上のフロアまで吹き飛んだ。

 水族館のフロアは二層構造になっているので、あいつらが吹っ飛んだのはペンギンやオットセイの展示を上から観覧するために設置された歩道橋の部分だ。

 残りの一人は、佐備沼さんと音籾さんが対処している。


tua tu【▶】


 音籾さんが呟く――おれや折口さんを『停止』させた時と、逆の音声/記号。

『停止』の逆。つまり『再生』だ。

 音籾さんの〈代数能力〉は、恐らく――運動の停止などという児戯ではない。

 人間は置物ではなく、故に立つという行為そのものにも不随意的な筋肉の反射を必要とする。ただ筋肉の動きを停止させるだけの能力なら、おれたちは『停止』された瞬間に倒れ込んでいるはずだ。

 だから、音籾さんの能力は――より抽象的な、空間そのものに事象を『固定』するタイプの能力なのではないか。

 そして、それら固定された事象を『再生』した場合――


 lOrem・dOlar・labOris・Occaecat!


 停止していた弾丸が、飛翔運動を再開する。

 そしてその弾頭には、既に佐備沼さんの『O』が仕込まれており――それは不可解な軌道を描いて、死角から〈舞踏会〉の最後の一人を狙った。

 そいつは能力で防御する素振りを見せたが、音籾さんや佐備沼さんこの連携を見越してわざと広範囲に弾を散らしていたのだろう。

 機動と軌道を操作された錆の弾丸が、そいつに突き刺さる方がはるかに早い。


「一名確保!」

 佐備沼さんが錆びた弾丸を己の周囲に浮遊させながら撃たれた構成員に飛び掛かり、注射器を打ち込む。無記課には薬物を調製できるロレム・イプサムも在籍しているらしく、皮膚越しにシリンジを押し当てると問答無用で人間を気絶させられるそうだ。

 おれも事前に夜嘴さんから手渡されていた。


「有動クン! そっちに来てるっスよ!」

 だが、一人倒れたとは言え――状況は予断を許さない。

 先程から蔵内さんが暗闇に潜み、何度かおれに奇襲を仕掛けて来ている。

 空気の盾や『硬化』を使っていなしてはいるが、あちらの挙動は恐ろしく俊敏だ。

 恐らくは『重量操作』と動体視力の強化の〈代数能力〉だろう。この人に銃弾は通じない。


「大丈夫です。こっちも頑張って倒すので」


 鈍黒く閃く刀身。今度は上からの奇襲が来る。

 鋭い逆手からの斬り上げを、間一髪『硬化』させた右腕で振り弾いた。

 明らかに、何かの武術を修めている動きだ。

 本腰を入れてかかる必要がある。死ぬ確率も恐らく五分くらいだろう。


「夜嘴さんのこと、よろしくお願いします。ついでにそっちの敵も」

 再びの斬撃をかわしながら、おれはまだ宙づりになっている夜嘴さんにちらりと目線をやった。夜嘴さんが文句を言っているのが耳に入ったが聞かないことにする。

 死なないし人のことも治せる置物だと思えば腹も立たない。結局のところ、戦況がごちゃ混ぜになった今では中空が一番安全かも知れない。夜嘴さんなら傷を負っても自分で回復できるだろうし、そもそも皆夜嘴さんの方に意識を向ける余裕もなかったからだ。

 

「誰にモノ言ってるんだい、クソガキ! 片付いたらすぐ加勢してやるから、へばんじゃないよ!」

 俊敏に動き回る〈舞踏会〉に対して拳銃で牽制しながら、音籾さんもハットを上げてにやりと笑う。問答無用で全員『停止』させていない所を見るに、たぶん彼女の〈代数能力〉も万能というわけではないのだろう。詳しくは聞いていないが、それなりの「条件」が課せられているのだと推測できた。

「有動クンも死ぬなよ――そんじゃもう一発、でかいの行くッス!」

 佐備沼さんは管内展示の鯨の標本に酸素を浸透させている。

 あちらは任せて問題ないだろう――そう判断したところで、ようやくこちらも目の前の蔵内さんに意識を集中することができた。


「こんばんは」

 ひとまず挨拶を交わす。礼儀は大事だ。警官の父からそう教わった。

「おう、こんばんは。有動の坊ちゃん」

 水族館のインフォメーションコーナーは出っ張った円状のルーフを支えている。

 蔵内さんは刀を逆手に、その半身をルーフが落とす影に埋没させていた。

 何だか嫌な予感がする。

「知ってるんですか? おれのこと」

「そりゃ気になるよな。まあ、上からの指示でね。連れて来いと言われてる」

「別におれのことはどうでもいい。ただ、〈舞踏会〉のボスには興味があります。あとは無記課の拘束からどうやって脱出したのかも」

「肝が据わってるなァ、坊主。流石、東京湾を陥没させただけのことはある」

「……何?」

「おっと」

 蔵内さんは孫にサプライズプレゼントの予定を漏らしてしまった、とでも言いたげに肩を竦め――その暗闇が、わずかにれる。それと同時。

 ひゅかっ

 と、風切り音。

 隠した半身から、蔵内さんがナイフを投擲していた。

 当然の如く〈代数能力〉で『暗闇』を移植したものだ。理解していても、刀身が隠密されているぶん、見てから防ぐのは困難だった。咄嗟に空気の盾を形成して弾くが、その内の一本が防御を掻い潜っておれの右腕に突き刺さっている。

 自分自身の『硬化』が遅れた。複数のナイフの内の一本を『軽く』されたのだ。初速が他のナイフと違うから、その分対応が間に合わなかった。

 単純なフェイントだが、有効だ。フェイクリアルと織り交ぜてこそ意味がある。

 おれは傷口ごと『硬化』させ、突き刺さったナイフを左拳でへし折ったが、その一瞬を縫って蔵内さんがおれの目の前に躍り出ていた。


 ……防戦が続いている。

 引けば速度の違う暗器の投擲、寄れば強化された動体視力による日本刀の一撃――防御だけなら可能かも知れないが、攻め手を作り出せない。

 恐らくあの類の古武術は組討ち術も何個か備わっているはずだ。

『硬化』で刀を受けつつ相手に至近で一撃を喰らわせる戦術はリスクが大きい。

 だからと言って、このまま選択肢を失えば、いずれ削り殺される。

 もっとも、地面を『軟化』させて敵ごと上に弾き飛ばすやり方は一回見せた。

 次は『重量操作』の〈代数能力〉で蔵内さんを重くするなどして、確実に対処されるだろう。蔵内さんをサポートしているあの短髪の女性は、先ほどから水槽の陰から的確に能力を投射しており、おれの〈代数能力〉の射程圏内に接近してこない。

 つまり、この化け物じみた攻勢を何とか一時的にでも止める必要がある。

『重量操作』の奴を倒すのはそのあとだ。

 おれはバックステップを踏み、わざと後ろに転がるようにたたらを踏んだ。

 当然、蔵内さんが凄まじい速度で接近してくる。

 ここだ。

 Lorem――おれは床に〈代数能力〉を流し込む。

「重!」

 叫び声。同時に、蔵内さんの足がみしりと床に沈み込む。

 床を『軟化』させて弾き飛ばす前に、自重を重くして対応された。

 それでいい。身体を重くした分、動きは鈍くなる。

 つまり、今からやることへの対応が一瞬遅れる。

 おれは確かに、床を『軟化』させた――自身の後ろの床を。

 軟らかくなった床を握り、ゴムのように引き延ばす。

 間一髪で刀の軌道上に滑り込み、接触する――その瞬間に、今度は引き延ばして飴細工状になった床を『硬化』。

 食い込んだ刀ごとおれを守る奇妙なオブジェが形成される。

 蔵内さんの動きが一瞬止まった。

 その一瞬。おれは先程拳で折り砕いたナイフ――『暗闇』が移植された刀身を、左手に握り込む。

「!」

 すかさず蔵内さんは回避行動を見せる。女がギターピックを砕き、〈代数能力〉を更新した。重量の切り替え、跳躍。蔵内さんの体が一瞬で視界から消えた。

 恐らく物を『浮かして』いたことから見て、0Gに近くまで過重を低減することも可能なのだろう。しかし、


「それでいい」


 おれは呟き、握り込んだ刃先を物陰――『重量操作』の女の方に向ける。

 落下速度は重量に依存しない。初歩的な物理法則だ。

 少なくとも跳び上がるまでに要したこの一秒間、例えどれほど『重量操作』を素早く解除されたとしても、空中にいる蔵内さんはおれに手出しは出来ない。

 暗器の投擲に対しては、既に右手で頭上に空気の壁を形成している。

 おれは左手を〈代数能力〉で『軟化』させ、欠けた刃ごと握って引っ張る。

 照準器は横向きに構えたチョキピース。『軟化』させた掌を砲身、『硬化』させた腕をスタビライザーとして、


 ぎ り り り


 スリングショットの要領で、ナイフを弾丸として放つ。

 しゅか、と闇を切り裂いて暗刃が飛ぶ。

 当たる。そういう確信があった。


「っこの!」

 女がギターピックをまとめてへし折り、水槽の陰へと転がる。

 恐らくあの『重量操作』は――対象物をある程度限定する。

 厳密に言えば、焦点を絞る必要があるのだろう。自身、もしくは事前に了解を取った人物や道具にしか『重量操作』は仕込まれていない。おれに対して『重量操作』を使ってこなかったり、蔵内さんへの『重量操作』は常に合図を伴っていたりと、推理できる材料は揃っていた。

 従って、高速で飛翔する弾丸に対して『重量操作』を発動できる道理もない。

 代わりに自身の体重を軽くして跳躍し、回避距離を稼ごうというのだろう。


 すべて織り込み済みだ。


 水槽の縁に、『暗闇』を移植された刃が着弾。

 ――そして、


〈代数能力〉。刃を『軟化』し、靭性を付与した。

 だが、跳弾の瞬間におれはもう『軟化』を解除している。

 刃の弾丸は跳ねまわり、視界から消える。同時に水槽の裏で叫び声が上がり、目元を抑えた女性が飛び出してきた。抑えた掌の下からは、血が漏れ出ている。

 それに伴って、『重量操作』が解除される。

 だから、蔵内さんが落下してくる前に、既におれは駆けていた。


 背後の空気を/自身の骨を/『軟化』する。

 LoremLorem――二重の発条で、一気に加速。

 手探りでギターピックを取り出した女の腕ごと――『硬化』の回し蹴りで砕く。

 ぎあああ、といううめき声が上がると同時に、今度はその女を『軟化』。

 そいつを足場として踏みつけ、更にもう一度蔵内さんの落下地点まで、ノータイムで跳躍を切り返す。さっき尾武がやっていた動きだ。

 空中で、身動きの取れない蔵内さんの瞳が見開かれる。

 足場のない場所では寝技は使えない。

 蔵内さんは自身の懐からヒ首を抜き放ちおれを迎撃するが、その刃は――

 

 がぢん。


 「やっと取れた」


 硬化させた掌で、勢いが乗るより先にその柄を挟み込んでいる。

 おれは剣道部だ。鍔迫り合いの駆け引きには慣れていた。

 おれは足元の空気を『軟化』させ、落下の勢いのまま蹴り出した。

 横っ飛びにカフェブースに突き飛ばされ、二人ともが椅子を蹴立てて転がる。

 リノリウム製の床にたたきつけられ、蔵内さんが大きくうめき声を上げた。

 おれも状況的には似たようなものだったが、全身を『硬化』させていたから大した問題にはならない。


 それに、蔵内さんはナイフではなくヒ首を使った。なら、彼に獲物はない。

 おれはよろついた蔵内さんに飛び掛かろうとして――


「選手、交代だ……坊主」


 蔵内さんの呟きと共に、

 いつか見た――あの、折り紙の手裏剣が飛んでくる。


「まさか」


 閃光。

 ぢゅいっ、という肉の焼ける音。

 おれの右腕が、いつの間にか床に落ちていた。


「ま、た! 貴方か……!」

おれは歯を食い縛り、カフェ置かれたペンギンの看板を背後に佇む男を見る。

「……やっぱり、子供に撃つのはあんまり気が進まねえなあ」


 ――なぜだろう。

 〈代数能力〉を封じられたはずの折口さんが。

 折り鶴を手にして、おれの前に立っている。

 

 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る