Night9:耐荷重100万kg

 瞳の奥から、ごぽりと水音が聞こえる。


 ■:航くん。起きなよ


 俺の内側からさざめく気泡のようにその声は何度も立ち昇った。

 思い出せる。これは先輩の声色だろう。

 喫茶店で、キャンパスで、おれの家で、陽気に響いていた彼女の笑い声だ。

 口許を抑えて笑う、意外に上品な癖もきちんと覚えていた。

 そうだ。起きなきゃいけない。先輩の言うことには絶対服従だ。


「あれ」


 白い部屋。

 自分の体が倒れていて、自由が利かない。

 ここは――そうだ。おれは確か、公安無記課という奴らに閉じ込められていた。

 ぷしゅという音が聞こえたから、多分ガスか何かを噴霧されている。

 前向性健忘を引き起こす類の薬物だろう。それで今まで、思考能力と記憶を奪われていた。もちろん実際にはこんな都合の良い薬物は存在しないはずだ。〈代数能力〉で生成したのかも知れない――だが、おれにとっては好都合だった。

 何度も連続で使われていたせいかは判らないが、自分の中に耐性のようなものが構築されているのだろう。それでたまたま目覚められた。

 ならば、おれの〈代数能力アルゼブラ〉は使えるだろうか?

 いま窓から覗く青空が偽物か本物かは判らないが、おれにガスが効かなくなったなら、観察するチャンスはいくらでもある。

 奴らを出し抜けるかも知れない。


 おれが彼らに抵抗せず捕まったのは、彼らの言い分を聞き、必要なら罪を償おうと思ったからだ。だが公安無記課は、一方的におれの権利を毀損している。

 どんな奇跡が起きて記憶が戻ったのかは判らないが、奴らがおれを飼い殺しにするようなら、こちらも反撃に移るのが妥当だ。


 おれは床に耳を当て、ゆっくりと自分の心音を測り始めた。

 この時点を『昼』として、今から十二時間――四万三千二百秒を数える。

 数え切れたら、その時点で『夜』だ。

 後は『夜』とガスの噴射が一致するタイミングを微調整しながら待ち続ける。

 能力は使うとしてもガスの噴射される一瞬だけ。

 ロレム・イプサムがデフォルトで発動させる偽装――カメラや動画に映る、『lorem ipsum』を初めとしたダミーテキストの書字群。それらを感知されれば、おれが能力を使っていると一発でバレる。そして書字群の厳密な発動条件が不明な以上、むやみに能力を使って警戒を強めることは避けるべきだった。

 チャンスを待つ。先輩を探していた二週間に比べれば、遥かに短い。


 彼女が戻って来るならどんなことでもできる。おれがそう決めた。

 例えその愚かな行いを清算する時が来るとしても、覚悟はできている。

 夜の海を泳ぐなら、考えすぎない方が良い。

 おれはただじっとその時を待って、

 そして、


 ====


 ぷしゅと言う音が聞こえると同時に、〈代数能力〉を起動する。

 一瞬だけだ。

 眼球と肺、体内の粘膜を瞬間的に『硬化』させる。

 呼吸が止まり、視界が歪む。くらりと膝から力が抜け、倒れる。

 その直後丸窓が外れ、換気扇が作動し、そしてエアロックが解除される。

『硬化』を解く――気密の漏れる音。


 来る、と思った。

 白一色の部屋に、ぽつりと墨が穿たれた。

 おれは立ち上がる。ほとんど同じタイミングでゲートが開き、黒スーツに金髪の男性が現れる。ここまでは上手く行っている。


「こんにちは」

 とりあえず意識を逸らさせる目的も兼ねて挨拶をする。礼儀は大事だ。

「一か月くらいかな? 流石にかなり待ちましたよね」

 金髪の男は絶句していたが、すぐに瞳を動かし天井の円窓に目をやる。

 一瞬でおれがガスの噴射を耐えたトリックに気付かれた。

 この人に考える隙を与えるのはまずい。さっさと脱出できるように頑張ろう。

「尾武と先輩はどこですか。夜嘴さんは?」

 尋ねながらおれは無造作に手を翳す。

 答えが返ってくるとは思っていなかった。思考を制限できればそれでいい――だが、男はすぐに警備員を振り返り、

「逃げろ! コイツは僕が」

「――〈代数能力〉。大気を柔らかくして、弾ませる」


 トランポリンの原理だ。

 おれの〈代数能力〉では、硬度と靭性は反比例する。だから空気を柔らかくして、しなやかで良く跳ねる『膜』のようなものを形成することもできる。

 おれは背後に隠して作っていた、空気の足場を思い切り蹴り砕いた。

 ばぎん!と空気の割れる音/砲弾のように前方に吹き飛ぶ体。


 男が右腕の包帯をはぎ取り、錆に覆われた右腕を見せた。

 あれが彼の「条件」だろうか。だとしても、対処はさせない。

 身体に一瞬でも触れれば、そこを『軟化』させられる――膝を柔らかくして機動力を削ぐか、腕を柔らかくして能力の基点を潰す。


 ――微かな違和感がある。出来過ぎだと思った。

 相手は仮にも公安だ。本当に、そこまで上手く行くだろうか?


「悪いけど」


 周囲の空気がやけに粘ついている。呼吸が重い。

 わざわざあの右腕を見せたのは、誘いだ。おれの対応を一拍遅らせるための罠。

 本当の「条件」は既にクリアされていて、〈代数能力〉も発動している――


 dOlarOcOrp OrisquOquOsOdiO,……O・O・O・O――


「ちょっとキツめに行くッスよ、有動クン」

 黒。男のスーツの黒から、黒い書字が気泡のようにじゅわりと立ち上り、ほどけ、いつしか大量の『O』の文字だけが機雷のように彼の周囲に整列している。

 男の金髪が揺らめいた。指揮者のように腕を鋭く振り、『O』の群れが殺到する。

 おれは防御のため、咄嗟に空気の『膜』をもう一枚形成した。


 lorem


 書字が大気に流れ込みしなやかに張りつめる。

 足場に踏みつけ、更なる機動に繋げようとするが、


 l 〈O〉 rem


 その膜がした。

 足場の形が変わり、バランスを崩して弾き飛ばされる。その一瞬。

 既に金髪の男は銃の形に構えた指をおれの方に向けていた。

 こいつは――折口さんのように、多層的な攻撃を前提に戦闘を組み立てている。

 O・O・O・O!

 飛来してきた『O』の弾丸がおれの身体に着弾した。


「酸素を埋め込みました! 『迷路』から突き飛ばしお願いしゃッス!」

 

 男は鋭く叫び、廊下の監視カメラに向け二回足踏みをして、


 Culpa.

 Culpa.


 光の文字が視界に焼き付く。

 瞬間がち/がちと空間が切り替わった。そう言う風にしか形容できない。

 スマホのカメラロールをスワイプするみたいに、一瞬『外』から風景が差し替えられて、気付けばおれたちはあの白い部屋の外――夜の駐車場に立っていた。

 さっきから、目まぐるしく状況が変化しすぎだ。たぶん、こういう圧倒的な情報量で連携して相手の判断をすり潰すのが公安無記課の戦い方なのだろう。

〈舞踏会〉も公安無記課も明らかに場慣れしていて個々の戦術がある。


 気を抜いたら一瞬で致命的な事態を招く。集中しろ。

 インターハイの準決勝と同じだ。

 ちょっと油断したら終わり。

 集中しなければ。

 心を残すな。

 あれ。

 先輩?


『あんた変なとこで要領悪いのね。ほんとは考えないようにしてるんでしょ?』

『あたしも居なくて、警察にも捕まって、その後の人生もめちゃくちゃ』

『怪獣だってやれちゃうのが、あんたの不幸なとこよね。アハハ』


 やかましいですよ先輩。勝手に居なくなっといて無茶言わないでくださいよ。

 大丈夫ですって。いつもみたいに、おれが何とかしますから。

 約束じゃないですか。絶対壊させませんよ。

 見てて下さい。


「ぉげぼっ、ごぶぇっ……ぇ、がっ」


 酸っぱい塊をそのまま垂れ流すように嘔吐する。脚に力が入らない。痙攣している。肺がきりきりと痛む。

 今のは幻覚だったんだなと思う。仕方がない。そう都合いいことが起こる訳もない。

 その証拠に、おれはべちゃりと吐瀉物の上に倒れ伏している。更に不気味なことに、おれの皮膚にはまたじわじわとさっき打ち込まれた『O』が染み入っていた。

 

 ……そうだ。

 何でこんな簡単なことも解らなかったんだろう。

『O』さんそだ。

 こいつの〈代数能力〉は、酸素の直感的な操作。

 例えばさっきのように、おれの形成した空気の『膜』に酸素を送り込んで、空気の質量組成そのものを弄って足場を崩すこともできるだろうし、酸素を空気に撒き散らして高圧状態を作りつつ、敵の体内にも直接酸素を送り込むことで、ある現象を引き起こすこともできる。

 酸素中毒。高圧の酸素を摂取し続けることで中枢神経系の麻痺や呼吸困難、肺の損傷を経て、最終的に死亡する。大学二年の夏休みに暇だから取ったライフセービング講習で習ったのを、ぼんやりと思い出した。

 呼吸が早くなる。病んだ犬のような吐息。

 男が、声をひそめて呟く。


「場所が悪かったスね。『記述迷路』から僕の所までは一本道だった。正直釣りが後二秒遅れてたら、有動クン、僕を倒してますよ。アンタは一人で、圧倒的に有利な僕たちを追い詰めて――」


 それだけなら。


「質、問に」

「あ?」

「質、問に、答え、てくだ、さい」


 それだけなら、まだやりようはある。

 勝ったとか負けたとかは正直どうでもいい。決めて、動く。それだけだ。

 病んだ犬のような呼吸は、故意に行っていたものだ。

 荒く浅い息を何度も繰り返すことで強制的に過呼吸状態に移行した。

〈代数能力〉。肺を過呼吸の萎んだ状態で『硬化』させ、意図的に酸欠状態を作りすことで、体内の過剰な酸素を中和する――そして自分の吐瀉物に倒れ込んでいる間に、次の攻撃への仕込みも既に完了していた。


 地面に、

 手が触れている。


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 短い間だが、戦いを繰り返して改めて理解できたことがある。

 夜嘴さんもちらりと言っていた。

 基本的に、接触をトリガーとする〈代数能力〉が引き起こす現象の規模は、接触時間に比例する。そしておれは、ずっと駐車場の路面に触れていた――


 ぼぐん。

 路面が一気に液状化し、陥没する。

 駐車場に止まっていた車がトランポリンのように上空へ弾き飛ばされた。


「おい、嘘でしょ!? これで戦意喪失しねえの!?」


 金髪の男が叫びながら上に弾き飛ばされる。

 周囲一帯――およそ百メートル平方が、うねり狂うアスファルトの海に覆われていた。おれは柔らかくしたアスファルトを掴んで、自身の体が打ち上げられるのを抑えていた。


「尾武と、先輩は。どこ、ですか……夜嘴、さんは」


 呼吸。呼吸。呼吸呼吸呼吸。

 意図的に酸欠状態を作った代償だ。脳を直接ぐちゃぐちゃにかき回されている気がする。すこんと脳髄に穴が開いて決定的な意志が抜け落ちるたびに、自分の内側から酸素をくみ上げ、辛うじて活動を続ける自転車操業のような状態だ。


 それでも押し切る。おれがそう決めた。

 決めたからやる。単純な理屈だ。

 路面を大きく蹴って跳躍。金髪の落下地点に飛び込む。

 一方、男は吹き飛ばされた軽トラをいつの間にか掴んでいた。


「……そうか。キミ、”正義の味方”なんスね。貧乏籤びんぼうくじ引いたなあ」


 金髪の男が、さんかくみたいな口をしてへらりと笑った。

 lOrem・dOlar・labOris・Occaecat――

 男が生み出した『O』の書字が軽トラに浸透し、巨大な車体が一瞬で赤銅に変色する。直感した。あれは、だ。

 酸素を操作する〈代数能力〉。

 ということは、当然――


「ならやり合うしかないスよね」


 こいつは、錆も操作できる。

 赤銅に包まれた軽トラが、物理法則を超越した挙動と速度で中空から唸りを上げて突っ込んできた。回避はできない。

 

 Lorem。一瞬だけ全身を硬化させ、正面から鉄の爆弾を受け止める。

 迎撃=衝撃。

 周囲が灰の海に包まれた/違うおれが陥没している。


 トン単位の重量で、ゴムの海となった路面に打ち込まれているのだ。

 重い。それを受け止めるおれの全身は、高熱を上げて軋むようだ。

 限界を超えて駆動する頭蓋にマグマが満たされている。

 肺腑からなけなしの呼気が漏れる。今度は掛け値なし、本物の酸欠だ。

 全身がいつも料理で使う豆腐とかチーズみたいに崩れそうだった。


「全部終わったら、有動クンを無記課にスカウトします。約束ッスよ」


 車に塞がれた空の頭上から、金髪が勝手なことを言っているのが聞こえる。

 錆びた車が次々と宙に浮揚する、がぎごぎといった金擦れも。

 ……手詰まりだ。

 陥没した地面が、おれや軽トラを先程のように弾き返すことはない。

 恐らくは、だ。

 たぶん『軟化』の靭性によって弾き返せる重量にも、一定の制限がある。輪ゴムが一定の負荷を受けるとそのまま千切れるのと同じで、このねじ曲がったアスファルトの海にも、必ず限界点は存在する。

 今おれが陥没している一点には、おれ自身の重量78㎏+トラックの重量約1500㎏に加えて、更に男が浸透させた酸素の質量が加重されている。


 赤錆、つまり酸化第二鉄の化学式はFe2O3だ。化学基礎の授業をきちんとやっていてよかった。Feの原子量が55なのに対して酸化第二鉄Fe2O3の分子量は158なので、鉄原子一つで比較すると理論上重量はおよそ1.4~1.5倍に膨れ上がる。もっとも男がこの重量オーバーを見越して、車体に含まれる酸素の割合を限界まで上昇させていることも考えられた。

 つまりどう見繕ってもこの場には2t以上の圧力がかけられているわけで、あとは完全に路面が千切れるかどうかの綱引き状態だった。


 そして、路面が千切れたら――その下には同じく液状化した地面が埋まっている。このまま『綱引き』が続けば、おれは確実に生き埋めになる。

 結局この状況に追い込まれた時点で、結末は二つに絞られていた。

 路面の『軟化』を解いてグチャグチャに押しつぶされるか、

 路面の『軟化』を解かずにこの地下へと擦り混ぜられるか。


「勝手に、ひとの進路、決めないでください」


 おれは腕の『硬化』を一切解かず、トラックを受け止め続ける。

 まだ、どちらの道も選ぶわけには行かない。


 ひとを殴った。

 先に攻撃されたとはいえ、じぶんの欲望と目的のために、対話の努力を放棄して暴力を行使した。

 後悔はない。それが最適な手段だと理解もしている。けれど、許されないだろう。

 こうして自らにのしかかる鉄が象るように、あまりに重い罪だ。

 いずれおれは、自らを自らで裁くだろう。清算の時は来る。

 だが、今ではない。目的を果たすまでは泳ぎ続ける。そう決めている。

 全身から軋みが上がろうと、けして膝は着かない。


 lorem

 肉を硬く。

 ipsum

 骨も堅く。

 dolar

 鋼のように。

 sit

 機能のように。

 amet,


 「来い」

 その一言だけを呟いた。

 弔砲のごとく、錆を媒介として赤銅の砲弾が放たれる。

 たぶん、一度生物に取り込まれた酸素分子以外ならば自由に操れるのだ。

 自動車の弾丸は軽トラごとおれを路面に叩き込むように放たれ、


 おれは路面の『硬化』を解除した。

 lorem/lorem

 ほとんど同時に、受け止めていた軽トラを『軟化』させる。

 ipsum/ipsum


 ……


 そしてずっと、おれの手は――ここに打ち込まれたトラックを受け止め続けていた。よって、この車体に及ぼせる能力の深度は、先ほど地面に施した『軟化』の比ではない。錆びた自動車を撃ち込まれたトラックが、蒟蒻みたいに歪んで潰れ――そのまま男の放った車体の弾丸を弾き返す。


「マジかよ」と、男が微かに呻く。

 パンパンに張ったゴムボールに石を投げるのと同じだ。

 投げた石は速度を保ったまま跳ね返ってくる。

 他人に避けられない速度で撃ったのに、自分だけ回避できるという道理はない。

 

 だが、この手段を使うには、おれもまともではないやり方を取る必要があった。

 おれの身体で支えているトラックを逆に『軟化』させると同時に――背後のアスファルトを『硬化』する。そうしないとアスファルトが引きちぎれて生き埋めにされるからだ。無記課の連中に反撃するためには、まずおれ自身が行動できる状態で生き残らなければならない。

 だが当然、地面とトラックの間に挟まれるおれは、一瞬ではあるが――軽トラ+自動車を合わせた2・5t以上の荷重を一人で受けることになる。

 これはもう仕方ない。

 そうまでしないといけないくらいには、あの男は能力の運用に長けている。

 あとはもう気合と〈代数能力〉で耐えるだけだ。

 公安無記課が優秀であることは既に彼らの奮闘によって証明されているので、

 あとは時間との勝負だ。


 〇秒。

 硬化させた腕と膝がまずひしゃげる。

 旧型ロケットにおいて、搭乗員に掛かる重力は約8Gだという話を思い出した。おれの体重は約80kgなので、80×8=640kgまでなら気絶するだろうが耐えれる。問題はこの先だ。

 

 ○・五秒。

 今度は腰椎にばきりと罅の入る感触がした。音がやけに遅く聞こえる。

 サークルの助っ人をしている時にワンダーフォーゲル部の奴から聞いたが、人間の荷重限界は約1200kgらしい。つまり、押しつぶされれば余裕で死ぬ。


 一秒。

 膝を着く。痛みの先触れのような怖気が、急速に背骨を這い上がりつつある。

 時間が飴細工のように引き延ばされる反面やたら思考が早く回っていた。

 これが走馬灯というやつだろうか。

 膝と腕から割れた骨が突き出した。血が噴き出る。

 その血ごと、lorem――『硬化』させる。また砕ける。

 更に『硬化』/更に砕ける/もっと『硬化』/もっと砕ける――

 骨と血が砕けて固まって砂利みたいになりながら、おれは少しずつ壊れてゆく。

 絶え間ない激痛の中で、思考だけが明後日の方向に飛んで行った。


 事務所のプリンまだあったんだっけ。

 人生の最後に考えることがこれか?

 でも、一度くらい食べておけば


 一瞬の出来事だった。


「――【||ut aut


 しわがれているのに品のある声。

 あの時、折口さんという〈舞踏会〉の動きを止めた文句だ。

 

 ふっと、体を押し潰さんばかりの重さが消えた。

 トラックが、おれの目の前で空中に縫い留められるように


 ……賭けには、勝てた。

 おれはそのまま、砕けて真っ赤に染まった膝で倒れ込んだ。

 薄れゆく聴覚の中で、誰かの声だけが耳に残響している。


『きみは、本当にばかだね。有動少年』


 なぜかその声は軽やかで、今にも踊り出しそうに聞こえた。

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