2021/08/10

Night10:平和と共に去りぬ

 折口との圧迫面接じみた接触から一週間後、あたしは夜嘴環との密会に漕ぎ着けた。こういう連絡にはネットカフェのPCは使わない。決済が必要な手続きは足が着くので、別の手段を使う。〈舞踏会〉はボスが独自に認知症や重度の臓器疾患で介護施設に送られた『幽霊』のリストを有していて、今回はそこに記載された身分を用いて警察に接触した。


 たぶん生活安全課の刑事は最初、あたしのメールを西新井に住む90代のお婆ちゃんから送られてきたものだと勘違いしたはずだ。実際は糖尿の治療で入院中のその人の住居に、親戚のような顔をして何食わぬ顔であたしが侵入していただけ。付箋で詳らかにされたパスワードを打ち込んでPCを立ち上げ、


『〈舞踏会〉→公安無記課:lorem ipsum dolar amet. 夜嘴環と密談希望』

 

 とだけ書いたメールを警察に送れば、後は優秀な公安が勝手にこちらを捕捉してくれる。それでもってメールを送ったその日にはもう、送信専用の捨てメールアドレスで位置情報だけがこちらに返信されていた。

 待ち合わせ場所には個人出版社『凪浜グラフ』を指定された。夜嘴の経営するオフィスだ。あえてその場所を指定したということは、あたしの正体にも彼女は勘付いているのだろう。航くんから話は聞いていたけど、やっぱりろくでもない女だ。この人に比べたらあたしなんか聖女みたいなもんだろう。


 八月十日、いよいよあたしは西新宿の『凪浜グラフ』に赴いた。

 蝉の声が降りしきるなか、汗を拭って目的のビルに辿り着く。オフィスは建屋の一階と二階を丸ごと借り切った洒落っ気のあるつくりだった。採光の良い間取りはダークブラウンを基調としたインテリアで整然と束ねられているけど、マホガニー材のキャビネットの上には丸い水槽のアクアリウムが飾られていて、適度な遊び心が見られる。

 沈没した船のミニチュアの周囲を、青白い筒のような熱帯魚が真面目くさって回遊していた。ふと約束をわすれて魚の動きを目で追っていると、


「気持ち悪いだろう、その子」


 すっと背骨に線を引かれるような声だった。

 振り返ると、つややかに黒い生成りのサマーコートを羽織った女性が、煙草を手に佇んでいる。

 金縁の眼鏡から、きんと怜悧な視線が覗いた。


「そうかな。こんな変わった魚、ちょっと物好きだとは思うけど」

 肩を竦めて、球形の水槽にそっと触れる。

「ポリプテルス・セネガルスさ」

 女性は勤勉な学芸員のように優美な口調で返した。

「デボン紀から地球に生息しているロートルで、非常に温和な性格だ。しかしこいつはちょっと厄介でね。気は優しくても最大で50㎝にまで成長するし、自分や仲間の平穏が壊されそうになったときには、水槽から飛び出すくらいの瞬発力を見せるんだ。気持ち悪くないかい? だから丸いアクアリウムの中で飼ってるんだ」

「悪いけど。あんたのそれ、全然わかんないな」

 あたしはガラス越しに、ポリプテルス・セネガルスと呼ばれた彼をぞった。

「熱帯魚飼うの、趣味なの?」

「まさか! 暇つぶしで面倒見てやってるだけさ」

 女は火の点いた煙草にくちづけ、短く煙を吐く。

「〈舞踏会〉の海嶋先輩は、随分とこういう交渉ごとに慣れているみたいだ」

 彼女はこつこつと水槽をノックするように軽く叩いて、あたしの内側にするりと入り込んでくる。またこれだ。この人はカジュアルに他人に線を引いたり、そうかと思えば勝手に踏み入ってきたり、大人気がない。

「そっちこそ、随分あいつに執着するんだね。公安無記課の夜嘴さん」

「ふッ」

 くつくつと笑って、夜嘴は灰皿で煙草をにじり消す。

 こいつ今鼻で笑った? 思わず手が出そうになったが、それより先に夜嘴がそっとあたしの手に触れる。冷たい感触に、腕が止まる。

「失礼。だがね、きみとこうして喋れる機会は正直ありがたいんだ。私たち公安無記課も、〈舞踏会〉には手を焼いていたからね。きみが私に接触を試みたのは、彼らの情報を売ろうとしているからだろう?」

 夜嘴はあたしの手をさっと握り込み、歌うような調子で続けた。

「きみがそうまでして求めるものとは、何だい? 〈海馬プリン〉」

 ……メールに〈海馬プリン〉の名前は出していない。

 それにも関わらず、無記課の中で既に海嶋円果=〈海馬プリン〉だという図式が成り立っているなら、腹の探り合いをする必要もないだろう。完全に痕跡を消すことは不可能だし、いくつか〈舞踏会〉の任務もこなしてきた。

 公安に正体が露見していたとしても、あたしにデメリットはない。何故なら――

「公安無記課による護衛」

 

 あたしは両手を上げて呟く。

 案の定、彼女はぽかんと口を開いて、それから――


「……護衛? ふ、ふっふふ、ふ!」

 張りつめた糸がぱちんと切れるように、ぷ、と噴き出した。

「成程ねェ。確かに公安無記課がきみに着いて〈舞踏会〉を壊滅させれば、きみを脅かすロレム・イプサムは誰も居ない。うん、悪くないね、全然悪くない。泥臭いが強かなやり方だ。何だい案外堅実な」


「違う」

 

 あたしは夜嘴の手を振りほどいた。

「あっ! 何するんだ穏やかじゃないな――」

 そのまま煙草を引っ手繰って、掌の中で押し潰す。

「アッハハ。夜嘴さん、いい。人の話を聞くときは、煙草を、

 じゅう、と肉の焼ける音。

 煙草の残骸を灰皿に落として、あたしは手の火傷を夜嘴の方に向けた。

「薄々思ってたけど、あんたは自分以外の全部を見下してる。だからこうやって足元掬われるし、口寂しさに咥えてる煙草だって取られてる」

 あたしがそう言うと、夜嘴は大げさに肩を竦めた。

「煙草一本取られたくらいで鬼の首でも落としたような騒ぎようだね。きみさ、結局何が言いたいんだい?」

「護衛の対象は、あたしじゃない」

「何?」

「有動航。彼をあんたたちに守って欲しい。それがあたしの目的」

 やっとここまで言えた。何だかどっと疲れた気がする。

「ちょっと、待って。話が見えないな」

訝し気な声に、あたしはぶっきらぼうに答える。

「狙われてんの。〈舞踏会〉の、ホントに上――折口とか『去り手』も知らない、ボスだけの目的」

「……ならどうしてきみが、そんな事実を知ってるんだい?」

 夜嘴が目を剃刀のように細めるが、あたしはそっちの質問には答えなかった。

「そんなことどうでも良いからさ。火貸してよ。あんた人の目の前で吸い過ぎ。あー、航くんの前だから禁煙してたんだけどなあ……」

 あたしは夜嘴のデスクに置いてあった煙草を一本取り出し、彼女に向ける。

 夜嘴は顔を露骨に歪めたけど、最終的にはガウチョパンツから高級そうなブランドのスリムライターを取り出し、あたしに放り投げてくれた。

 片手で受け取り、煙草に火を点ける。

 中指と薬指で挟んで、ゆっくりと煙を吸い込んだ。咽せる。

 クソ不味い。あたしの知ってる味じゃない。

「何これ。ほんとにピース?」

「フフフ。薬事法には違反してないよ、日常のスパイスってやつさ」

「アッハハ! 仮初の平和が好きってわけね」

 あたしは肺の底から煙を吐き出し、天井を見上げた。

 ステンレス製の換気扇がふぉんふぉんと旋っていた。


「きみはさ。何で有動くんにそこまで拘泥するんだい?」

 夜嘴があたらしい煙草を取り出して、火を口切った。

「別にこだわってなんかないっての。ただ……」

「ただ?」

「何でもない。だいたい、あんたこそ執着しまくりじゃん」

「私が? 冗談はよせよ。私が何かに心を奪われるなんて、在り得ない」

「嘘」

「本当さ」

「それも、嘘」

「見て来たように言うね」

「理由がなきゃひとに何かを期待して映しちゃいけないわけ? 同じ人を守ろうとしてるんだとか、そういう仮初の平和を感じちゃいけないわけ?」

「そんなことはないさ。ただ、私はどうにも、ナイーブなのは苦手だ」

 そう言って夜嘴は口を閉ざした。あたしは彼女を横目でながめた。

 短く流れた黒髪は滅びた街の国旗みたいに美しかった。

 あたしは不意に、夜を閉じ込めたようなこの人は、何もかもを怖がっているんじゃないかと思った。昼と夜で線を引いて、自分でその線を飛び越えてみる。取り返しのつかない悪戯の後に、子供が恐る恐る顔を上げて、裁きをどこか待ち望むような卑屈な恐れを身に抱えているのだ。


「別にこだわってなんかない」

 あたしは本当のことを白状する気になった。

「こだわるなんてお洒落な気持じゃないよ。難しいコトなんて何もない」

 もっと凡俗で卑俗で、野暮ったくて目も当てられない、化学調味料たっぷりのプリンみたいな愚鈍な甘さだ。正直これが映画なら、あたしはあたしのことをポップコーン片手に詰っていると思う。それでも。

「ただ、あいつのこと好きなだけ」

 それでも航くんは、あたしにとって正義の味方だ。


 あたしが■■■■を身に着けたのは高校生くらいの時だ。

 当時は水泳部に入っていて――


 ■:ん。

 ■:なんだ。あんた、もうこんなとこまで来ちゃったの。

 ■:残念だけどさあ。ここから先はまだ見せてあげない。

 ■:もうちょっと頑張りな、航くん。あたしは仮初の平和ピースと共に去るよ。


 ■:別に……あたしのあれ、返事はしなくて良いからね。

 ■:あとさ。煙草なんて吸わない方が良いよ。


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