Night18:月と水槽
ぱしゃり。
当然のように、倒れたままの折口さんと蔵内さんのからだは、
水になって消えた。
そのようにしか表現できない。目標を失ったおれの疾走は無様につんのめり――転んだ先の絨毯には、人型の染みだけが残されている。
「胎児以前の状態まで、時間を『巻き戻し』したんだ」
夜嘴さんは、爪先でとんとんと濡れた床を叩いた。
「羊水になって死んでも、無味無臭だからほとんど事後処理も要らない。死体の後片付けって実際はすごく面倒なんだぜ。便利だろう? 」
その瞬間、おれは直感した。
そうだ――あの、ぱしゃりという水音は。
おれが夜嘴さんに去原さんの尋問を任せてホテルから出た後、ドアの向こうから聞こえて来たあの微かな水音だ。
その後一日くらい経って、夜嘴さんからおれに電話がかかってきたのだ。
『そうだよ。それで去原も死んだ』
『目の前で溶けたんだよ! 私はちょっと身を隠すから、きみも、』
間違いない。去原さんを殺したのは夜嘴さんだ。
そして、その情報は巧妙に隠蔽されていた。限りなく虚偽に近いが、それでもおれに電話した時点で彼女は事実しか口にしていない。
だが――彼女が去原さんを殺した理由が、まだ腑に落ちなかった。
無記課には『
事実、折口さんは蔵内さんに『暗闇』を移植されるまで能力を使えなくなっていた。〈
つまり、彼女には去原さんを殺さなければならない事情があったことになる。
そこまで考えて、ふと――佐備沼さんが残した錆の鯨が、ゆっくりと崩れていく様子が目に入った。あるいはそれこそが、彼からのおれへの最後の言葉だったのかもしれない。
意識を失っても、自身の代数能力を保つことはできる。
だが、死んだら〈代数能力〉の影響はどうなる?
ある程度は保つのか? それとも――死者の意志が、欲望が、いずれ世界に忘れ去られるように、残された能力に対しても『時間切れ』が存在するのか?
「貴女は」
おれは夜嘴さんをみた。そして、
「……蔵内さんの『模造品』を消すためだけに、去原さんを殺したんですか」
呻くように、その一言を告げる。
それを聞くと彼女は満足げに目を細めて、おれの手を軽やかにとった。
一瞬対応できるように構えたが、彼女はおれを『巻き戻す』気はないらしく、
「やっぱりきみは気持ち悪いね。こうなるから、あんまり下手なことは言いたくなかったんだよな」
「なら」
「その通り。〈代数能力〉は、使用者が死んでも残留し続けるが――やがてその影響は薄れゆく。この仕様も、普通なら無記課以外はほとんど気付かずに終わるんだけどね。だって、死んでしまったら自分の能力がどうなるかなんて考えることもできないし、そもそも
まるで、手品の種でも開陳するような調子で夜嘴さんは続ける。
「去原に頼んどいたんだよね……私が最初に蔵内の頭を灰皿でかち割って気絶させた後さ、警察が来るまでに蔵内を回収して、『劣化コピー』させた体を置いといてくれって」
「……やっぱり」
頼んでおいた、という口ぶり。『計画』という言葉。
そして、蔵内さんと折口さんを消した時の迷いのない手つき。
「〈
夜嘴さんはおれの手を離して、肩を竦めた。
「うーん……仕方ないね。きみには嘘をつかないと決めたんだ」
そしてあっさりと、真実が告げられる。
「そうだよ。〈舞踏会〉は私の作った組織だ――無記課と潰し合わせて、ロレム・イプサムを駆除するためのね」
その言葉を聞いた瞬間、おれのからだは反射的に動いていた。
彼女が今からしようとしている行いが理解できたからだ。
だが彼女は唇をにいと曲げて、
「そこで私の格好いいところ見ていておくれよ。不格好なアキレスくん」
そう言って、夜嘴さんは煙草をひらひらと振って歩いて行く。
かちん。
気付けばおれは、同じ場所にいた。
動けない。その姿を、見届けることしかできない。
音籾さんに『停止』させられた時とは全く異なる現象が起こっている。
全身を縛り止められるような感覚はない――動いているのに、その行動がかちんという音と共に『巻き戻り』続けて、結果的におれの踏み出した一歩がなかったことになる。
彫像のようなおれをよそに、踊り子が舞台へと昇るように、夜嘴さんは軽やかに水族館の上階へ歩んでいく。その途中途中で、気絶した〈舞踏会〉をみつけるたび、
ぱしゃり
「うふふ」
ぱしゃり
「ふふふ」
ぱしゃり
「ふふふふふ」
階段の途中、フロアの上、ペンギンを覗くアーチの上。
その全てで、人がただ水に還ってゆく。
「どうかな。きみに、教えて欲しいんだ」
ぱしゃり。
「きみは、こんなことになっても、誰かを壊させないと言えるのかな」
ぱしゃり。
「最初から言ったじゃないか。関わるな、って」
ぱしゃり。
そうして、彼女の作った〈舞踏会〉は、呆気なく幕を閉じた。
あっさりと、八人の男女を殺して。
上階を一回りして、こちらへ降りて来た夜嘴さんは――何かを引きずるような姿勢で、おれにへらへらと笑いかける。
「お待たせ有動くん。お友達を連れて来たよ」
うめき声。彼女の陰に見えるのは、血に濡れたドクターマーチンのローファー。
「尾武」
叫ぶと同時に、夜嘴さんはぱっと手を離した。
尾武の身体が階段に転がって、やがて踊り場で停止する。
おれは駆け寄って、そいつを助け起こした。
「尾武! 無事か!?」
「……航か!? 悪ィ、目やられて何も見えねェ……つか、俺、夜嘴はやめとけって言ったよな? クソ……お前さァ、女の趣味悪すぎんだよ……」
尾武の両の足首は、アキレス腱から踵側がごっそり『削り取られて』いた。
閉じた目からも大量に出血しており、いつも無造作風にセットした髪は血と誇りにまみれて乱れている。こいつのこんな姿を見るのは初めてだった。
「ご本人の前で、女の趣味が悪いとは。言ってくれるね尾武嵐」
そう言いつつも、夜嘴さんの足取りは特に乱れない。
夜会の賓客のように、あくまでも確固たる余裕を持ち、踊り場から降りてくる。
「うるせェよ……クソババア。そりゃ基本、女のコは皆お姫様だと思ってるけど、あんたは別だな……引き時を知らねえ姫は店側にも切られるぜ」
「状況を理解してるかい。大体きみ、有動くんの何なのさ」
「……
尾武がおれの方をちらりと見て吐き捨てると、
「なんだ。意外と物分かりは良いんだね」
夜嘴さんはおれに向かってにやりと笑った。
「あー、一応言っておくけどさ。もしもきみが万が一、私の計画を邪魔するようなことがあればさ。私はきみのご両親や友人などの大切な人を躊躇なく殺していくよ。有動くんみたいな良いヤツにはそっちの方が効くだろう」
彼女の笑顔は、おれの知っている夜嘴さんと何も変わらなかった。
喫煙室でおれを詰ってくれた笑み、プリンを勧めてくれた笑み、おれの隣でハンドルを切ったときに見せてくれた笑み。
きっと彼女は、水を飲んで、本を読んで、煙草を吸って、おれに下品な冗談を飛ばして笑って、その最中に踊るように人を殺せるのだろう。
おれの大切なひとを。おれの、壊したくないものを。
そこまで考えて、よく解らなくなった。
夜嘴さんだって、おれの大切なひとなのに。
おれは、自分の大切なものを全部壊してまで、自分の欲望を望めるのか?
……ちがう。そうだ。先輩だ。
先輩。もう、顔も、声も思い出せない。
それでも良い。思い出せないということ自体が、彼女を大切に思っていた証だ。
おれの心には彼女のくれた色々なものが眠っている。
そのためなら、おれはまだ戦える――
「あ、そうだ。きみの探してる先輩は、私が殺したよ」
脊髄が液化したような予感がおれを貫いた。
「嘘だ」
それは、母が死んだ時以来、長らく感じていなかった――明確な恐怖だった。
自分の自動的な歯車が、時計の針が、止まってしまう予感。
「嘘つけよ」
「解ってないな。きみの心をへし折るためにこのタイミングまで黙ってたのに、嘘なわけないだろう? というか、きみも薄々勘付いてたんじゃないのかい」
「夜嘴さんが先輩を殺しただなんて、嫌だ……」
「わお。結構重症だね」
涙が溢れて来た。
先輩が死んでる? 嘘だ。何かの間違いだ。おれは絶対に認めない。
――そう思えれば、どれほど良かったか。
あらゆる状況が、彼女の死を示唆している。
彼女が〈超能力〉をおれに仄めかして失踪したこと。
尾武におれのことを頼むと言伝していたこと。
〈舞踏会〉が、先輩を探していたこと。
そして、おれが困っている時に助けに来ないこと。
先輩は水のような人だった。
おれが望むなら、いつでも傍にいてくれたはずなのに。
『巻き戻し』がある限り、夜嘴さんは無敵だ。
子供の考える都合の良い夢みたいに、現実の全部をなかったことにできる。
おれは、この人には勝つことはできない。
ロレム・イプサムとしても、有動航という個人としても。
脳みその回路がぷつんと千切れたように、おれは膝を着く。
「……解りました。夜嘴さんには、逆らいません」
膝を着いたまま、頭を下げる。
言葉は自然と出ていた。
「何でもします、お願いします……だから尾武を助けて下さい」
「ふふふ」
彼女は細くつめたい指で、おれの顎を持ち上げた。
「おい! 航ッ、俺に構うな、お前はそんなんじゃねえだろ……!」
「喧しいな」
かしゅ。叫ぶ尾武の首筋には、既にインジェクターが突き付けられている。
奴はがくんと首を垂らし、昏倒した。
「もう足と目は『巻き戻し』しといたよ。これだけで有動くんが手に入るなんて、我ながら安い買い物をしたね」
くつくつと夜嘴さんの低い忍び笑いが聞こえるが、もう何もかもどうでも良かった。佐備沼さんは死んだ。先輩は死んだ。尾武ももう戦えない。
何もかもが壊れた。
おれに残っているのは、沈みかけの泥船じみた欲望だけ。
「ああ、やっと――私だけの
そして夜嘴さんは、かるくおれの頬を挟み込んで、ゆっくりと口づけた。
水族館のガラス窓はおれを閉じ込める水槽のように見えた。
壊れた金縁の眼鏡さえも、彼女の美しさを綴じる材料にしかならなかった。
彼女の背後には月がのぞいて、夜嘴さんの影だけを照らしていた。
「月を見なよ、私の航くん」
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