Night12:ボロボロのボレロ

 三十分後、夜嘴さんの2000年式日産ボレロは首都高6号線で音を越えていた。


「ウフフフフフフ!! フッフフ!」


 夜嘴さんは唇をにィと吊り上げ、アクセルをぶっ壊れそうなほど踏み込む。

 速度計はゆうに時速120㎞を超過済みだった。

 そう言えばむかし、夜嘴さんに『給料上げるからきみのビビる顔が見たい!』と駄々をこねられて花やしきのおんぼろジェットコースターに無理矢理乗せられたことがあった(おれが取り乱さなかったので給料は結局据え置きのままだ)が、今の感覚もちょうどそれに近い。

 ボレロは車高が低く、窓からの景色が路面すれすれなので、体感的には鉄の橇で引き回されているのとそう大きな違いはなかった。

 十二月なのに『風を感じたい』と夜嘴さんが言い出したせいで窓も全開なので、車内の環境は極寒地獄のようだった。


「こんな運転してたら、事故りますよ! 後ろの人にも迷惑だし!」

 風に掻き消されないように叫ぶ。

 カーステレオは所々途切れながら、三週間ほど前に臨海公園で起こった地盤沈下事故の現状を報じていた。


『――先月終わりごろ葛西臨海公園で起きた――……液状化対策の不備が問題視されたこの事故は――……専門家は未知の震源も視野に入れた調査を――……』


「えェ? 有動くん何か言ったかい!?」

 夜嘴さんはすこぶる機嫌よさそうに答えた。

 おれはカーステレオを切って、

「スピードを、落として下さいって言ってるんです!」

「フッフフフ! きみも案外、可愛い所あるじゃあないか!」

「最初から聞こえてましたね!?」

 おれが更に怒鳴ると、夜嘴さんは爆笑しながら窓を閉めてくれた。

 そのままヒーターを付けて、シガーソケットで煙草に火を点ける。

「きみがスカイツリーを見たいって言うから、折角かん6走ってやったのに」

「じゃあ、あんな出鱈目な運転やめましょうよ……」

「安心しなよ。こちとらゴールド免許だぜ」

「そっちの方がむしろ怖いんですよね」

 夜嘴さんの真偽不明の主張を聞き流しながら、おれは余分に一本コンビニで買っておいたブラックコーヒーを運転席のドリンクポケットに差し入れる。

「いつもながら気が利くね少年」

 夜嘴さんは肩を竦めて、煙草を摘まんだままコーヒーを一口すすった。

 車はそのまま駒形橋を過ぎて、夜嘴さんの側の窓からはライトアップされたスカイツリーが見えた。それで思い出したが、むかし先輩とは一度墨田区の■■■■■■に来たことが


「あれ」

 頭が石を詰め込まれたみたいに重くなった。

 夜嘴さんがちらりとおれに目をやる。

「何だい。お花摘みでもする気になったのかな有動くん」

「いえ、ちょっと。すみません、一瞬スマホ見ます」

 おれは夜嘴さんに断ってから自分のスマホを取り出して、先輩との写真を確認した。カメラロールを開き、ファイルが出て来たところで――


 Lorem ipsum dolor sit amet, consectetur adipiscing elit, sed do eiusmod tempor incididunt ut labore et dolore magna aliqua. Ut enim ad minim veniam, quis nostrud exercitation ullamco laboris nisi ut aliquip ex ea commodo consequat. Duis aute irure dolor in reprehenderit in voluptate velit esse cillum dolore eu fugiat nulla pariatur. Excepteur sint occaecat cupidatat non proident, sunt in culpa qui officia deserunt mollit anim id est laborum.


 思った通りだ。先輩と撮った写真は、全て破損していた。

 おれの「条件」。〈代数能力アルゼブラ〉を使うと、大切なものがこわれる。

 小さく溜息を吐く。


 ……能力の使用に後悔はない。目的のためには必要なことだった。

 ただ、おれの大切なものはたぶん他にも幾つかあったはずだ。

 父が昔買ってくれた竹刀とか、尾武がおれの誕生日にくれた三徳包丁とか、色々。おれはふと思い立って、夜嘴さんにスマホを見せた。


「この画像、何に見えます」

 彼女はおれの携帯にちらりと目を配り、

「はあ? 人の運転中に自分の元カノの写真を見せてくる奴は死刑にしていいって法律を知らないのかい? きみをこのまま墨田川に放り出してやってもいいんだぜ」

「……海嶋みしま先輩だって分かるんですか?」

「おいおい、少年」

 夜嘴さんはくつくつと笑ったが、全く表情を変えないおれを見て、やっと冗談でも何でもないと悟ったらしかった。

「あー、その」

 若干気まずそうに、

「きみの『条件』のこと、もっと早く聞いておくべきだったね。降りるよ」

 珍しくかたい声で呟き、吾妻橋近くの下道へとハンドルを切る。

 中古車特有のがたついたサスペンションで、ボレロが浅草通りに入った。

 目的地の墨田水族館まではもうすぐだった。夜嘴さんはそこでようやく煙草を取り出した。


「普通はね。他人に〈代数能力〉の『条件』の詳細は明かさない。ロレム・イプサムの戦闘においては、『条件』は明確な弱点と成り得るからだ――しかし、『条件』にも軽いものと重いものがあることに、きみは気付いているかい」


 軽い「条件」と重い「条件」。おれはその違いについて考えた。

 例えば猿マスク――去原さんの「条件」は恐らくあの劣化品を使った仮装にあるのだろう。だが、それさえクリアしてしまえば実質的にリスクなく〈代数能力〉を運用できるのだと考えると、確かに軽い「条件」だと言えるかも知れない。

 そこまで考えて、尾武がおれにあっさりと自分の「条件」――『バッシュを履いていなければ能力を使えない』――を明かしたのは異常なことだったのだと認識した。しばらくあのアホの顔を見ていないし、連絡も取れていない。今回の捜査にも何故か成り行きで巻き込まれているらしいから、何かの拍子で再会できればいいが。


「ならおれの『条件』も軽い方なんですね。影響が自分だけで良かったです」

「……きみはそう言うと思ったよ。あのさ、いいかい少年。『条件』は普通、不可逆的な変化を起こすことなんて殆どないんだ。だが、能力を覚醒させる際に抱いてしまった欲望が『利他的』なものであるとき――」

 そう言って、夜嘴さんはゆっくりとおれの方を見た。

「『条件』は重くなる。良い奴から、先にぶっ壊れて行くんだ。佐備沼くんなんかは、あれ、確か人生で使える酸素を『前借り』してるって聞くし……きみの場合だと、たぶん内側からぶっ壊れて行く感じなんだろうね」

 彼女の視線がまた前に戻される。車に立ち込める、ピースの煙が重苦しい。


「欲望は自分のためのものだ。そのルールを勝手に破ったら、当然フィードバックが来る。ロレム・イプサムが能力を設計されたとおりに使おうとしないことに対する、一種のセーフティのようなものだろうね。って――私は最初に忠告したぜ」

「それでも、人を助けるのが悪いことだなんて思わない」

 おれは鞄から先輩の写真を取り出し、眺めた。

『条件』の代償によって文字の形に穴が穿たれ、ぼろぼろになったように見えるこの写真も、実際はおれがただそう感じているだけなのだろう。

 おれの能力は、使えば使うほどに、おれの繋がりを壊していく。

 それでも。

「安心しました」

「はあ? この廃人二歩手前の状況のどこに安心できる要素があるんだい」

「だって、先輩との思い出は壊れていない。おれと彼女の関係を立証するものは依然としてこの世に残り続ける。それに」

 おれは夜嘴さんを見た。

「夜嘴さんは、ずっとおれのことを見てくれるでしょう。それが思い出です」

「……若い男と言うのはどうにも困るね。化石みたいな口説き文句で」

「彼氏でも思い出しました?」

「莫迦言いな。弟が、小さい頃に似たようなことを口にしていてね」

「弟」

 弟。彼女に弟がいたとは初耳だった。

「そう。私はよく嘘をついて彼をからかっていたんだけど、ある日弟は笑って『お姉ちゃんは僕のことよく構ってくれてるんだね』ってさ。あの罪悪感ったらなかったね。その日以来、私は気に入った相手に嘘をつくのはやめたんだ」

 くつくつと低い忍び笑いが漏れる。

「齢は離れていたし、もう何年も会ってないけれど……何だか、少し気分が良くなったな。ご褒美に私の煙草、一本あげよう」

 夜嘴さんはくつくつと笑って、再びアクセルを吹かす。

「要りません。健康に悪いので」

「ふん。聞き給え少年、これも思い出だよ」

「思い出?」

「そうさ。きみが壊れてしまっても、私がその傷を埋めるくらいに、きみに沢山楽しかった記憶をあげる。これからもずっと、ろくでもない日々をね」

 彼女はにやりと笑って、おれに一本の煙草を押し付けた。

「まずは、一つ目の思い出さ。大人になるまで取っておきな。私はきみに、嘘をついてやるなんて面倒なことをする気はないんだ……」

 金縁の眼鏡の奥からは、冷たく燃える光が覗いている。

 しばらくして、口笛が車の中に響いた。ラヴェルの『ボレロ』だ。おんぼろの車がきんきん鳴らすサスペンションの夾雑は、寄せては返す旋律を蹴立てる波間の鳥のように聞こえた。水族館が近い。おれは彼女の心地よい口笛にゆだね、目を閉じる。


 ====


 夢の島の歌謡喫茶、『しんめとり』に俺が連れて来られたのは十二月五日の深夜だった。折口がよくこの店を利用していたらしく、店主に〈舞踏会〉絡みの事情聴取をする傍ら、『作戦』が決行されるまでここで待機することになっていたのだが――


「大体なんで結構場所が水族館なんスか? 僕水ある所苦手なんスけど」

 堅固けんごがだるそうにウト婆さんに食って掛かっていた。

(おいおい。これ止めないとマズいやつか?)

 俺はヒヤヒヤしながらそのやり取りを聞くしかなかった。

 ついこの間まで気楽にホストをやってたと思ったら親友が〈舞踏会〉との戦いに巻き込まれているし、戦いに力を貸したと思ったら今度は公安無記課なんて奴らに捕まって航とは連絡が取れなくなるし、もうメチャクチャだ。

 そう、あの時からだ――俺はガールズバー〈21〉での出来事を思い出す。

 と言っても、あれは戦闘ですらなかった。足止めだ。

 俺と航を引き離そうとしていたし、実際に分断された。


 俺を襲って来たのは10代かそこらの女の子だったと思う。

 航が外に居る時を狙いすましたように背後に現れ、あいつに電話しようとした俺の携帯に触れた。

 それで、携帯が動かなくなった――後で調べてみると機能がぜんぶ『初期化』されていて、そのせいで航には連絡できなかった。

 少女はちらりと黒いスーツの影を見せたかと思うと、次の瞬間にはもう〈21〉のバックヤードに逃げ込んで行くのが見えた。NBAのディアロン・フォックスみたいな敏捷性アジリティを持っているようには見えなかったが、とにかく恐ろしい速度だったのだ。

 窓を見ると、航と細身の男がやり合っているのが見えた。

 合流されたらマズい。俺は〈代数能力アルゼブラ〉(堅吾がそう呼んでいた)を起動して女を追跡したが、自動車並みの速度を出せる俺の能力でも一向に捉え切れない。

 それどころか――アスファルトに飛び降りた後も、一番街の裏路地へ逃げ込む少女の背中との距離が次第に広がっていた。

 高校時代、体力テストのシャトルランの時に航が語って聞かせてくれた『アキレスと亀』の逸話のようだった。運動能力はこちらが上なのに、俺がいくら走っても彼女の存在する地点に辿り着くことができない。

 そして”足止めされている”と気付いた時には、彼女は既に消えていた。


 俺は航が捕まっている間『参考人』として、少女の特徴や能力を堅固やウトさんを含めた無記課の面々に話したものの、あまり役には立ちそうになかった。

 彼女の容貌や声は確認できなかったし、言わずもがな監視カメラを含めた通常の捜査には期待できないから、結局こちらが打てる手は一つしかない。


“夜嘴“と、航を囮にすることだ。


「嵐クンって有動クンを手助けするためだけに〈舞踏会ワルツ〉にケンカ売ったんスよね。やっぱり何回聞いてもイカれてんな~」

 ウトさんに舐めた口を利いて一しきり説教された堅吾は、とりあえず俺の方に避難して来ていた。ウトさんと他の刑事は店の奥に引っ込んでいる。

『しんめとり』の店主への聴取が長引いているのだろう。

「別に、そんなお人好しじゃないって俺。アイツが居なくなるとバスケ練習する相手が居なくて困んだよね」

 俺は気付いたら、あまり人には明かさないはずの事情を口にしている。

 佐備沼堅吾さびぬまけんごとは、無記課に軟禁されていた一か月くらいでかなり仲良くなった。

 航の様子も堅吾経由で教えて貰ったり、大学への単位の配慮を親身になって手続きしてくれたりと、どう考えても刑事には向いてなさそうなヤツで――あちらの方が明らかに年上なのに、何故かこちらに敬語を使っているし、こちらはタメ口で喋ってしまっているし――要するに、不思議と付き合いやすい奴だった。


「えーっ。大学生でホストっスよね? 絶対パリピでテキーラ入れまくりじゃないッスか。バスケする相手なんて幾らでも居るでしょ」

 堅吾が二周くらい古いホスト観を口にしたので、俺は思わず笑ってしまった。

「居なくはねえけどさ。ただ」

「ただ、何スか?」

「最後まで付き合いたい奴は、そうは居ねえんだよなあ」

 俺はホットコーヒーのミルクをかき混ぜながら呟いた。

「自分が倒されたのに、先に相手チームの怪我の応急手当やり始めちまう奴なんだよな。マネージャーより手際良いんだぜ?」

「……ああ、運動部とかサークルの助っ人やってたって言う」

「うん。だから、試合の前日にもバスケ部の練習付き合って貰っててさ」

 

 思い出すのは、バッシュが体育館のニスに擦れる音だ。

 リバン、速攻。ジャージを着た航が素早くプレスを仕掛けてくる。

 あいつは上背が高かったし、度胸もあったから、控えのディフェンスが足りなかったバスケ部の練習に付き合ってくれるのは本当にありがたかった。

 最も剣道部もちょうど大会を控えていて忙しい時期だったので、俺はそちらに集中して欲しかったのだが、あいつは他の部員からの頼みをあっさり聞き入れてしまった。何度やめろと言っても直らなかったのだ。


 だが心のどこかで、俺も航に頼り切ってしまっていた部分があったのかも知れない。あいつは凄い奴だった。有動航なら心配はないと、いつの間にか親友を都合の良い妖精みたいに扱っていて――だからあの事故はきっと、報いだったんだろう。


「事故だったんだよ。もう後のない同じ三年の部員が、ちょっと監督に良い所見せようとして、それで熱くなって。無茶なドリブル仕掛けて来てさ」


 沈み込んで、強引な縦への突破。焦りから来た稚拙なプレーだった。

 もちろん航は真面目な奴だったから、それに対しても冷静に対応した。

 お手本のようなマンマークと、粘り強いゾーニングディフェンス。

 航はそいつにべったり張り付いて、長い手足でシュートの機会を悉く封殺した。

 結果的には、それが最悪の事態を招いた。


 その部員は本来だったら素人相手に一方的にやられるような実力じゃなかったし、もちろん取り立てて上手というわけでもなかった。ただ不調とプレッシャーとストレスが澱のように重なって、不意に爆発した。

 そいつがいきなりサイドの俺に向かってパスと言うにはあまりにも乱暴なボールを送った。

 そして同時に、

 航に向かってすくい上げるような危険なタックルを試み、あいつの守る裏のスペースに割り込もうとした。

 部員の悪送球は俺の小指と薬指をばきりと捻じ曲げ、無理な態勢で突っかかられた航は右手を変な方向に捻って倒された。


「捻挫と突き指二本。どっちもアイシングしないとヤバいんだけど、どこも部活の大会前だったから氷バッグとか、備品足りなくてさ。特にうちのバスケ部は部員少なかったから、救急用具も一個で充分だって思われてたんだ」


 うぐぁっ。 


 航が呻き声を上げる瞬間を初めて見た。

 体育館の熱気は、嘘みたいに静まり返っていた。航のことを今まで何事にも動じない地蔵みたいな奴だと思っていたから、それが全部間違いで、あいつだって泣いたり笑ったりする普通の人間だったんだということに気付くのにこちらも凄く時間が掛かった。

 俺はクソ莫迦だ。


 だが気付いた時には既に、腕を捻挫したままの航が、手を取るように俺の曲がった指ごと――たった一つの氷バッグを押し当ててくれていた。

 痛みに表情を堪えたまま、俺の手をきつく制止していた。

 いつだってそうだ。

 俺があいつを止められたことなんて、一回もない。最後まで、置き去りにされるのは俺の方だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る