Night3:モンキー&モデル

 ――轟音。

 次の瞬間、

 夜嘴さんの顔の右半分が吹き飛んでいる。


 反射的におれは視線をエレベーターに移した。

 昇降機の中には一人の人物が立っていた――スーツの仕立てから辛うじて痩せた男だと判断できる。辛うじてと言ったのは、そいつが精巧な猿の被り物を着用し、なおかつ足元はアメ横で買えるようなクロックスのパチモノという異様な出で立ちだったので、年齢すらも定かではなかったからだ。

 だが、そんなことは別にどうでも良かった。

 おれは夜嘴さんが取り落としたナイフを拾う。

 こいつは敵だ。

 

 その思いだけが脳裏に焼き付いている。

 姿勢を落とす。

 重心を前に滑らせて、猿マスクに肉薄。

 狙いは内小手。

 ナイフはリーチが短いので、刺突や首への斬撃は運が良ければ素人でも躱せる。

 よって、懐に入って巻き込むように手首の血管を切断することが目的だった。

 だが、その刃は空を切る。


「危ないな……」


 平坦なテノールが聞こえた。目の前の人間がそれを呟いたのだと理解した時には、

 既に男がこちらに指を向けている。

 血の一滴も流れていない。手首を返して相手の腕の内側を切りつけたはずだった。

 おれは振り抜いたナイフの刃に目をやる。

 その形状に違和感を覚えた。

 五センチほど刃先が欠けている。

 さらに妙なことに、柄の部分――つまりおれの手の付近にも、先ほどまでは見当たらなかった長方形の黒い塊がうねうねと浮揚していた。

 まるで空間に貼付されたCGウインドウのようだ。おれは塊を象っているものを見極めようと眼を凝らす。そこには、


Duis aute irure dolor in reprehenderit in voluptate velit esse cillum dolore eu fugiat nulla pariatur. Excepteur sint occaecat cupidatat non proident, sunt in culpa qui officia deserunt mollit anim id est laborum.


 間違いない。文字の塊だった。

 夜嘴さんを写真で撮った時と同じ、代数能力者ロレム・イプサム特有のあの文字記号――それらが、おれのすぐ近くに黒い窓のように浮遊している。


 咄嗟に刃から手を離して跳び退る。

 次の瞬間、ばしゅと轟音を立てて柄ごとナイフが完全に消失した。

 夜嘴さんが頭を吹っ飛ばされた時の音と同じものだと理解したと同時、足元にさっき消えたナイフの刃と柄が転がっているのに気付く。

 先程おれがナイフを窓から外に放り投げた時にも、同じことが起こっていた――こいつの〈代数能力アルゼブラ〉とやらの正体は、物体の一時的な転送なのだろうか?


 男が再びおれに手を向ける。

 奴の中指が素早く空間を打鍵した。

 コンピューターのマウスを操作するような、規則的な指の動きだ。

 それに連動するように、おれの首のすぐ傍にまたあの『窓』が形成されている。


Duis aute irure dolor in reprehenderit in voluptate velit esse cillum dolore eu fugiat nulla pariatur. Excepteur sint occaecat cupidatat non proident, sunt in culpa qui officia deserunt mollit anim id est laborum.


 ばしゅという音を置き去りに、再び『窓』が展開された。転がって避ける。

 髪が数束吹っ飛ばされていた。


「危ないのはどっちですか? おれの上司の頭まで吹っ飛ばして」

 おれは吐き捨てる。とにかく時間を稼ぐ必要があった。

 猿マスクの男は溜息を吐き、こちらに向き直った。

「急に刃物を向けてくる子供に言われたくない……」

 との間に、初めて会話らしい会話が成立した瞬間だった。

 男は指を構えながら、ゆっくりとおれに近付いてくる。こちらが体勢を立て直す前に、あの『窓』でおれを消し飛ばそうとしているのだ。

「本当にただの人間なの? 違うよな。きみの〈代数能力アルゼブラ〉は、何だ?」

「逆に聞きますけど、自分の死因に興味があるんですか? 凄い趣味ですね」

「はあ?」

 男の指が止まる。

「一緒でしょ。〈代数能力〉とかいう力で死ぬのも、車で轢かれて死ぬのも」

 言いながら、おれはブルゾンジャケットを脱いだ。黒い綿を起毛させたお気に入りのやつだ。

「殺し合いだと思ってたんですが、指示が食い違ってるみたいですね」

「何が言いたい?」

「おれは〈舞踏会ワルツ〉から指令を受けてます。夜嘴環という女性の監視と、有動航という学生の戸籍の乗っ取りです」

「……ちょっと待て、そいつはボスの」


 言葉の途中で、ジャケットを男に放り投げる。

 反応は待たない。待つ必要がない。

 今言ったことは全部猿マスクの言動を総合して造った出鱈目だからだ。

 こいつは先程、おれに対して『本当にただの人間なのか』という疑問を口にした。

 つまり、おれがロレム・イプサムではないという確信を持ってこの襲撃を仕掛けて来ている。

 だから反撃を喰らうことは予想外のはずだ。

 そして人間は予想外の出来事に適応しようとする。先輩が失踪してから、おれがとにかく行動することで空白を紛らわそうとしたように。

 その気持ちは、よく理解できる。

 今起こったこともそれと何ら変わりはない。『予想外の反撃』に出鱈目でも一応の理屈をつけてやれば、緊迫した状況下の中で脳はそこに逃げ道を求める。

 無論、考えればすぐにボロが出るハッタリだ。

 だが、敵が考える一瞬の隙を作れればいい。

 綿のブルゾンが奴の顔に張り付く。

 奴はおれを仕留めるために距離を詰めて来ていた。それが仇となった。


 身体を跳ね起こし、男の懐に滑り込む。

 手には夜嘴さんの落としたスリムライターがある。

 彼女が倒れた時にナイフと一緒に拾っておいたものだ。

 点火。ライターをブルゾンに放り投げた。

 火が毛羽立つ繊維と接触する。

 次の瞬間、焔がジャケットの表面を狂ったように走った。

 表面フラッシュ現象という。

 起毛加工を施されたセルロース系の繊維は、非常に着火・燃焼しやすい。

 そのためアイロンを掛ける際は特に留意しなければならない素材の一つである――家庭科の授業は昔から好きだったので覚えていたのだ。

 男の叫び声が上がる。顔面を炎にくるまれたままよたよた歩いていた。

 おれは備え付けの消火器を男に向け、ピンを引こうとする――。


「今ので確信した。きみは、頭がおかしいね」

 

 ピンが作動しない。

 なぜだ?と考える暇もない。

 何故なら男の指がぴったりおれの方に据えられているからだ。全く信じられない。

 奴が無事であるわけがなかった。

 だが現実として、融けたジャケットの隙間から、猿の覆面がのぞいている。

 覆面――そう、奴は顔をおれたちに確認されたくない。当然だ。

 人を殺したり殺そうとしたりするのは歴とした犯罪だからだ。

 だからおれは、頭部だけを燃やすことで、覆面を脱がざるを得ない状況を作り、男を撤退に追い込むつもりだった。

 しかし、こいつは熱を一向に意に介していない。それどころか、燃え盛るジャケットを素手で掴み、まるで熱など感じないかのように乱雑に放り投げている。


が切れてたんだ。ちょうどよかった」

 男は恐ろしいほどに平坦な声で呟きながら、燃える衣服に手をかざす。

「こんな怖い人間の相手、長いことしたくない」

 次の瞬間、『窓』が開く音が弾ける。おれの頭上――


 Duis aute       reprehenderit

 Duis aute irure dolor in reprehenderit

 Duis aute irure dolor in reprehenderit

 Duis aute irure dolor in reprehenderit

    aute irure dolor in re

    aute irure dolor in re

    aute irure dolor in re

    aute irure dolor in re

    aute irure dolor in re

    aute irure dolor in re

    aute irure dolor in re


「な」


 その形状は、服――さっき奴が手を翳したおれのブルゾン―――に酷似している。

 先程の意趣返しのような状況だった。

 はめられた、と直感する。

 降って来る服型の『窓』は、既に避けられる位置にない。

 だからおれは、動かなかった。

 一瞬の浮遊感。

 景色が暗転する。


 そして次の瞬間、おれはホテルの廊下に落下していた。

 後ろには壁。

 眼前には、猿マスクの男。

 手早く全身を確認する。

 身体部位の欠損はない。まだ戦える。

 だが、背後には逃げ場がない。追い詰められている。

「驚いたな。避けると思ってた」

 おれは答えなかった。この一連の攻防で多少猿マスクの能力が推察できたので、相手に余計な情報を与えたくなかったのだ。


 奴の能力――まず、『窓』だ。

『窓』には触れた物体を猿マスクの近くに転移させる性質がある。

 そして、奴はその性質を上手く利用し、人体の一部だけを転移――というか、『消し飛ばす』ことで殺傷能力を持たせているのだと推測できる。

 結果的には、その性質が辛うじておれの命を救った。

 無駄に動かず服型の『窓』にすっぽりと入ることで、体ごと転移したのだ。

『窓』へ投げたナイフが、放った当人の近くに落下してきたことから、『窓』に入った後の転移場所はこの廊下からそう離れることはないと判断していた。

 だが同時に、その『窓』の能力と、先程の熱を無効化する芸当が結びつかない。

 昔やっていた剣道の試合でも、こういう直感が勝敗を分けることは多かった。

 だから直感を補強するために〈代数能力〉の前提条件が知りたかったのだ。

 

 ロレム・イプサムは一人で複数の能力を所持できるのだろうか?

 こいつが他人の能力を摸倣・窃盗できる可能性は?

 というか夜嘴さんは何で先にこういうことを教えてくれないんだ?


 そこまで考えて、やめた。

 情報が皆無な現況で、奴の〈代数能力アルゼブラ〉とかを看破したところで意味がない。

 武器も失われた以上、こちらが嬲り殺されるのが先だ。

 あの男はおれと違って面倒なパズルごっこに付き合う義理などないのだ。

 

 ――それとも夜嘴さんは、別の勝算とやらをおれの中に見ていたのだろうか。

 あの人はかなりいい加減な大人だ。

 深夜にインターンの従業員を呼び出すし、会社の冷蔵庫を煙草で埋め尽くすし、おれが居るのも構わずに喫うし、社会人としてはまったく尊敬できない。

 けれど、一つだけ確かなことがある。

 夜嘴さんはおれを命の危険に晒すような嘘や出鱈目は吹かない。

 彼女はおれのことをいい玩具だと思っているが、それだけに壊すのがもったいないのだろう。そういう思考は全く理解できなかったけれど。

 だからきっと、あの言葉も。


『そう驚くことじゃないだろう。きみもロレム・イプサムじゃないのかい?』

『刺されたのに無事だったじゃないか。身を守るために〈代数能力〉を使った』

『ロレム・イプサムになる条件は正確に解っていないけど、欲望に係わる心理的機序に密接に左右されることは間違いない』


 夜嘴さんは、欲望こそがロレム・イプサムの本題だと言っていた。

 おれの欲望。

 倒れたままの夜嘴さんに視線を向ける。

 ――考えないようにしていた。

 何かをしていないと、本当に空っぽになりそうだった。

 けれど、彼女はおれに巻き込まれて二度もこんな目に遭っている。


 死んで欲しくない。

 自分の周囲の全てに、壊れて欲しくない。

 だが現実に先輩は消え、夜嘴さんは頭を吹っ飛ばされた。

 こんな光景がおれの望みなのか。

 違うと思った。そうではない。


 手の届くどんな人も。

 手の届くどんな物も。

 壊れることは許さない。


 ばちり、と頭の中の回路が跳ね起きる感覚があった。

 脳みそを突き飛ばされたような、

 お前のやりたいことはこれだと叩き起こされたような、

 二十年の人生が通電する。


「――〈代数能力〉持ちじゃないとしても、然るべき手順で追い詰めるだけだ。避けることは出来ない……」


 男の声は遠かった。耳鳴りがひどい。

 視界が壊れかけの豆電球のように明滅した。

 ホテルの薄暗い照明は映写機のストロボ光だった。

                

          lorem


 ホテルの壁に手を付き、荒く息を吐く。


          Ipsum


 今しがた触れた壁面に、あの文字が焼き付くように刻印される。


        dolor sit amet,


 踊る無記名の代数。能力の証。

 願いを叶えるための、おれの欲望。


「待て、まさか、目覚めたのか? この土壇場で?」

 猿マスクの男が慌てた様子で横に転がっていた消火器に手を翳した。

「……やっぱり、情報と違うな。きみは危険だ。始末させて貰う」

 次いで壁際に追い詰められたおれに指を向ける。マウスをクリックするように滑らかに指が動く。


 aute irure dolor in re

 aute irure dolor in re

 aute irure dolor in re


 中空に奴の〈代数能力〉の文字列がプロットされた。

 瞬間、おれの頭上に複数の消火器が出現する。

 これは『窓』ではない。物体そのものだ。

 空間に貼り付けられるように突如として現れ、重力に従って落下している。

 だがその攻撃が本命でないことは理解できた。

 おれを囲い込むように、先ほどの服型の『窓』がこちらへ展開されているからだ。

 二重の追い込みなのだ。

 背後には壁。退くことはできない。

 回避すれば、今しがた開かれた『窓』に突っ込んで体が消し飛ぶ。

 回避しなければ落下してきた消火器に当たってそのまま気絶する。

 避けることが出来るだろうか。

 おれの欲望を叶えるためなら。


 誰にも壊れて欲しくない。そう思う。

 瞳の奥で、水音が弾けた気がした。


 ぐにゃり、

 と、文字を流し込まれた壁が、柔らかい泥じみて沈み込む。

 硬質なエンボス加工の壁が粘土細工のようだ。

 その勢いで、おれの身体も背後に傾いだ。

 眼と鼻の先で消火器が鈍い音を立てて落ちた。

 おれは転がるように、眼前に展開された服型の『窓』を潜り抜ける。

 男の驚愕の声が聞こえる。

 

 掴むために手があるように、

 走るために足があるように、

 欲望を成就するために〈代数能力〉は在る。

 夜嘴さんの説明は正しかった。これは手足と同じ『器官』なのだ。

 従って、力の使い方もすぐに理解できた。

 意識を集中し、おれは自身の能力を起動する。

 脳内の電球が灯る感覚。通電。


 Lorem ipsum dolor sit amet, consectetur adipiscing elit, sed do eiusmod tempor incididunt ut labore et dolore magna aliqua.


 拳の周辺に、硬質なゴシック体が立体として浮かび上がった。まるでおれの皮膚が書冊の一頁になったかのようだ。そしてそれら無記名の代数は、装甲のような感触を纏っている。


 硬度の操作。それがおれの〈代数能力アルゼブラ〉だった。

 接触を起点として、壁を柔らかくすることも、拳を固くすることも自在だ。

 ものを壊させないための力。壊さないための力。 


 男が素早くおれに指を向けた。

 再び『窓』を開くか、もしくは物体の貼り付けを行うか。

 こういう一瞬を争う遣り取りは部活で慣れている。低い姿勢のまま、地面を手で触れる。


 Lorem――カーペットに文字が流れ込み、床が一気に水飴状に液化する。

 男の体勢が崩れ、能力基点である指先の方向がずれた。

 ここだ。

 無防備な顎に向け、おれは硬化した右腕を金槌のように振り抜く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る