2021/12/24

Night22:ラスト・ウェット・ワーク①

 先輩の夢を見てから五日後――つまり十二月二十四日。

 おれは夜嘴さんに夢の島へデートに行かないかと誘った。クリスマスイブだから、怪しまれずに彼女を外に連れだせる確率がほんの少しは高くなるだろう。

 去年もこうして誰かを誘った記憶だけはあるが、やはり思い出す途中で思考が文字に塗りつぶされる。


 先輩の『記憶整除』という〈代数能力アルゼブラ〉は、『質問』をキーとして、対象からその周辺記憶を収集し、それを元に都合のいい記憶を彫刻する。その能力の性質上、対象と会話すればするほどその能力の深度は増加する(〈代数能力〉は基本的に発動時間や接触時間に比例して規模や効果が大きくなるという原則通り)ものの――要は記憶の“編集”であって“復元”ではない。

 よって、おれの「条件」で損壊した記憶を修復することも不可能だ。

 むかし試して貰ったから解る。

 おれと先輩は、お互いに〈超能力〉を有していた。

 二人で組んで、それなりに愉快に日々を過ごし、ちょっとした探偵みたいなことにも手を出して――最終的に、夜嘴さんに敗北した。


 あの夢の中で、先輩はおれに語った。

『あたしがあんたの記憶を消した理由は二つある。一つは、それが夜嘴がアンタを見逃すために出した条件だったから。それでもって、もう一つは――』


 先輩はおれの記憶を『取り除く』という形で隠した後、ロレム・イプサムの『死後代数能力の影響は薄れていく』というルールを準用して、おれの記憶――先輩に編集された、『先輩』の人格と感情が刷り込まれた記憶を一番最後に取り戻すように仕込んでおいたのだ。まるで時限爆弾のように。

 そして、「〈超能力〉って知ってる?」という質問によっておれの〈代数能力〉に関連する知識を『取り除き』、なおかつおれが先輩を追うよう誘導した。


『夜嘴にとっては、あんたのことを傍に置ければ何でも良かったの。だからこれは賭けだった――あたしは、あんたが“正義の味方“であることに賭けた。何も知らない状態で、それでも夜の闇へ漕ぎだす愚か者である方に賭けた』


 だが、彼女が残してくれた『先輩』の人格の記憶ももうすぐ消える。

 おれの脳に巣食う『彼女』を目にすることは、あれから一度もなかった。

 唯一の証は、きまって夜に、瞳の奥で潮引くような水音が響くことだ。


『夜嘴は、都合の悪いことは何回もやり直せると思ってる。付け入る隙があるとすれば、そこしかない』


 そうだ。この戦いに、やり直しは利かない。

 この海鳴りが消えたとき、おれの旅も終わる。


 ■■■■


 かちり。

「ウフフ。健気だね、海嶋円果」

 時計の音が耳奥で響き――

 次の瞬間には、あたしの両手が水となって溶け落ちる。

 その水滴を掬う手も失われた。ただ、浜辺の砂が濡れるのを眺めることしか。

 ……あたしの『記憶整除』は通じない。

 自認を捻じ曲げて自殺させるやり方も、記憶を全て消して廃人にするやり方も、『巻き戻し』の前には通じない。彼女は、自分に起きた都合の悪いこと全てをなかったことにできる。

「惚れた男を助けたい――そんな退屈な目的で、公安無記課も〈舞踏会〉も一人で相手取ったとは恐れ入る。だがね」

 夜嘴は煙草を咥えたまま、あたしの顔を覗き込んだ。

「悪いが、きみは有動航をおびき寄せるための餌でしかない。それに正直なことを言えば、最初に会ったときからブチ殺してやりたかったよ」


 あたしの〈超能力〉は通じない。

 でも、それがどうした? 

 こいつがあたしだけの世界を踏み荒らそうとしていることと、

 いったい何の関係がある?


「ねえ、夜嘴さん」

 だから、気付けばその言葉は口から零れ出ていた。

「何だい、海嶋円果」

「航くんってさ。あんな感じなのに、すごくキス上手いんだよね」


 夜嘴の煙草がぽろりと落ちる。

 その瞬間、あたしは跳躍した。

 狙いは首元。夜嘴の頸動脈に噛み切ろうとする――その中途。

 永遠にも近い体感時間の中で、あたしは見た。

 夜嘴の真っ黒い瞳に、歯車のムーブメントの如く文字が刻印されていく。


 .auqila angam erolod te erobal tu tnudidicni ropmet domsuie od des ,tile gnicsipida rutetcesnoc ,tema tis rolod muspi meroL


 ――るすとうこつみ噛に筋首の嘴夜

 。たし躍跳はしたあ、間瞬のそ


 かちり。


「がぼっ」

 夜嘴の手が、水になったあたしの右肺を貫いていた。

「が、ふびゅっ……ふぶっ、ふぼ、ぐュっ」

 苦しい。呼吸が出来ない。唇から粘ついた血が唾液と一緒に吐き出される。

 あたしの息は、どれだけ泳いでも尽きることはなかったのに。

「おや、これじゃあキスがしづらいだろう。盛ったガキにはお気の毒だね」

 夜嘴はくつくつと笑って、あたしの腹からずるりと右腕を抜き出す。

 膝が震えていた。景色が傾ぎ、惨めに砂浜に倒れ伏す。

「どうしようかな。このまま砂浜に返すと海が腐ってしまいそうだ」

 視界の端で、夜嘴が肩を得意げに竦めるのが目に入った。

 そして次の瞬間、

 その首がばぢんと捩じれた。

 ふいに飛び込んできた誰かの影によって。


「先輩」


 あたしの後輩は、あたしのヒーローは、あたしの航くんは、

「待っていてください。一分で片付けます」

 駆け寄ると、穴が開いたあたしの右わき腹に通る空気を『軟化』させて、人口の肺を作り出す。そして傷口の方は反対に空気を『硬化』させて塞いだ。

 そして、彼は前を向く。

「最近様子が変だから、追ってみて正解でした」

 既に夜嘴は首が折られたことなどなかったかのように、航くんに向き合っている。


「やあ。随分ご挨拶だね、有動くん」

「すみません。だけど、貴女は先輩を傷つけました」


 航くんは平坦な口調のままそう呟いて、そっと夜の砂浜に手を触れる。

「今から貴女を終わらせます。何があっても」


 ====


 クリスマスイブの冬の夢の島公園は、満天を湛えている。

 あたりに住宅街はなく、静かな運河に囲まれ、森閑とした闇が心地よかった。

 おれたちは波止場のウッドデッキに来て、二人で夜の海を眺めていた。

 時刻は十二時を回ろうとしていて、もうひとの気配も感じられない。

 むかし夜嘴さんがおれに言った通りだと思った。


『いいかい、有動少年。ロレム・イプサムこそが夜の新しいことばなんだよ』

『ほら、夜はさ、すべてが許されている気持ちになるだろ』


 彼女の言葉を借りれば、別に、何をしたって構わない。

 おれが今、夜嘴さんと戦う理由は何だろうと考えてみる。

 ここで夜嘴さんを無力化できれば、尾武を助けられるから?

 あるいは、おれを裏切っていた夜嘴さんへの憎しみ?。

 それとも先輩や佐備沼さんの復讐のため?。

 まさか死んだ〈舞踏会〉への弔い?

 考えてみてどれも違う気がした。


 これまでの、形が決まった人生に、自分の動機が介在する余地はなかった。

 おれは自分のために船を漕ぎ出すことはできない。しようとも思わない。

 他人のために自動的に動くことこそが、自分の希望だと考えていた。

 少なくとも有動航はそういう原理で駆動する人間だったはずだ。


 だが、おれはあの時――佐備沼さんが死んだとき、

 夜嘴さんに報いを受けさせたいと感じた。あんな気持ちは、初めてだった。

 先輩が死んだと聞かされた時でさえ、おれの心にあるのは凪いだ哀しみだけで、その感情はずっと自分の方を向いていたのだ。


「夜嘴さん」

 おれは金縁眼鏡の奥に伏せる、夜嘴さんの黒い瞳を見た。

「夜嘴さんの弟さんって、どういう人だったんですか」

「何だ。デートだってのに、イブの夜に聞くことがそんなことかい? もっと男性遍歴とかも聞いて良いんだぜ。あ、ちなみに私男作ったことないからね。たぶんきみが初めてなんじゃないかな」

「……すみません。あと、それは別に知りません」

「ふん。まあ良いさ」

 夜嘴さんは煙草を口切り、しゅぼっとスリムライターで火を灯した。

 赤い光が運河につつましく踊るが、すぐに消えて見えなくなる。

「ここ、灰皿ありませんよ」

「じゃあ君が灰皿になってくれよ。さっきの罰だ」

 彼女はうまそうに煙を喫い、たっぷりと時間をかけて吐き出した。

「手」

 おれは言われるがままに掌を差し出した。

 ピースの灰がおれの掌中に落ち、じゅうと肉が焦げる音が響く。

「わお。熱くないのかい?」

「いえ、熱いし痛いんですけど。何だかもう、どうでも良くなってしまって」

「あっ、そうそう。そう言う所が、弟に似てる」

 夜嘴さんはくすりと笑った。

「自分のことを徹底的に軽く扱って、他人を助けようとする奴でね。だから私は、あいつのことを結構面白いと思っていたんだ――」

「嘘だ」

「嘘? おいおい」

 彼女の口調が少し低くなる。

「言ったろ。私は、きみに嘘はつかない」

「知ってます。夜嘴さんが嘘をついているのは、自分自身にです」

 焼けた掌をじっと眺めて、おれは続けた。

「夜嘴さんは、ただのお人好しに靡くような素直な人じゃない。そうでなければ、佐備沼さんをあんなにゴミみたいに殺すわけがない」

「……」

「おれは、単なる“正義の味方”として貴方に見込まれたわけじゃない。あの日に、蔵内さんが言っていたことに、もっと早く気付ければ」


『肝が据わってるなァ、坊主。流石、東京湾を陥没させただけのことはある』

 夜嘴さんは、自分に嘘をついている。

 おれは、正義の味方ではない――正義の味方すらも捻じ伏せる、ただの怪獣として彼女に見初められたのだ。


 ■■■■


「すみません。だけど、貴女は先輩を傷つけました。」

 航くんは平坦な口調のままそう呟いて、そっと夜の砂浜に手を触れる。

「今から夜嘴さんを終わらせます。何があっても」


 ……手を触れたまま、動かない。


「まさか夜嘴さんが〈超能力〉を持ってるなんて思ってませんでしたが」

「それはお互い様だろ」

「なら、知ってますよね。〈超能力〉の規模は、基本的に接触時間に比例します」

「……おいおい。きみの〈代数能力〉がどんな代物かは知らないけどさ」

 夜嘴は口角を吊り上げて肩を竦めた。

「地面を這わせた攻撃かい? それとも砂を媒介にした操作? 何でも良いぜ」

「そうですね」


 その瞬間――


「落とし穴なんてどうでしょう」


 航くんの手から

 いちめんの

 黒が

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