第5話「文魔」

 浅草六区の喧騒は、夜になっても衰えを知らない。道行く人々は和装に洋装、各々が自分らしいモダンな着こなしを追及しており、地面を叩く靴底の音色が早朝の小鳥のさえずりよりもやかましく奏でられている。

 活動写真を上映する電気館や浅草オペラの演劇場を筆頭に、のぼりの隊列が雑踏の巻き起こす微風で揺れていた。

 帝都暮らしの幸だったが、浅草へはほとんど足を運ばないから人出の多さと昼間のような明るさに驚かされる。上京した若者がこの光景を目の当たりにしたら人の津波と光と色の暴力に打ちのめされてしまうはずだ。

 青年は、めまぐるしく流れる人波の隙間を慣れた様子で縫っていく。幸は彼の背中を追いかけるのに精いっぱいでどこへ連れていかれるのかという疑問が頭から抜けて置いていた。


「ここだよ」


 青年が幸を連れてきたのは、三階建ての煉瓦造りの建物の二階である。入口の扉に埋め込まれたガラス窓には『藤堂探偵事務所』と書かれている。


「俺は、ここで探偵をやっていてね。藤堂とうどう逸気いつきだ。よろしく。君の名前は?」

「幸……です。神楽幸」

「神楽幸か。いい名前だね。よろしく幸さん」


 藤堂が扉を開けた途端、埃っぽい紙の香りと咽そうに濃厚なインクの匂いが漏れ出してくる。

 心地の良い香りに、幸は目を細めた。


「……いい匂い」

「いい匂い? ……ああ。紙とインクかい?」

「え、ええ」

「これがいい匂いか。君にとっては精養軒の洋食よりもそそられる香りなのかな」

「あ、いえ。変なことを」


 最近の女は『青鞜』の思想にかぶれて学問だ、文学だなどと生意気だ。図書館帰りに、目上の男性や年配の人にそう言われることも少なくない。

 けれど藤堂は、毛ほどもそんな感情を抱いていないようだった。


「何も変なことはないよ。俺も本が好きなんだ。さぁどうぞ」


 藤堂に促されるまま、幸は事務所に足を踏み入れた。電灯がついていなくても相当広い空間が広がっているのが入口から部屋の奥にある窓との距離で理解できる。

 入口の近くには来客用と思しき、ソファーが座卓を挟んで置かれており、窓際にある机の右手にある窓越しに、今や私娼窟と化したかつての浅草名物、凌雲閣がこちらを見下ろしている。

 藤堂が電灯の明かりをつけた瞬間、幸の視界一杯に本棚が飛び込んできた。

 窓以外の壁面が本棚で埋め尽くされており、棚の上から下まで本たちが窮屈そうに肩を寄せ合っている。

 専門書や法律書の類ではない。いずれも童話や御伽話で、日本語訳されたモノから英語や独語、仏語のタイトルが背表紙に刻印された本も少なくない。


「むさくるしい上に暑苦しい事務所ですまないね。以前ここにいた仕事仲間は掃除好きだったんだけど……」


 言いながら藤堂の顔色がどんどんと曇っていく。


「……どうかしました?」


 何の気なしに聞いてしまってから後悔する。

 あまり触れられたくない話題なのは、藤堂の表情を見れば想像に難しくない。

 出会ったばかりの小娘にぶしつけな質問をされては藤堂も気を悪くしてもおかしくない。

 人との交流を避け続けたせいで会話の距離感が上手く掴めない。口が上手い人なら何か別の話題に切り替えるのだろうが、長年手入れをしていない幸の舌は錆びついて思うように動いてくれなかった。

 そんな幸の内心を察したのか、藤堂はにこやかな顔で肩をすくめた。


「いや、去年友人と喧嘩別れをしてね。それ以降荒れる一方なんだ。しかし暑いな。暦の上ではもう秋などと言ってもまだ夏の盛りが終わる気配はない。やはりこの国の季節を現すには旧暦の方がふさわしいかもしれないね」

「……むさくるしいなんてとんでもないです。ここはまるで宝物庫です」


 幸にとってこれだけの蔵書は、荷車に山積みされた金塊や宝石よりも遥かに価値がある。


「それは光栄だよ。君さえよければ好きなものを読んでくれて構わないよ」

「いいんですか!」


 獲物を前にした猛獣のように、幸の動きは素早かった。すぐさま右手側にある本棚に飛びつき、無作為に一冊抜き取った。それは英語の本でタイトルは『燐寸マッチ売りの少女』だ。


「……懐かしいです」


 昔、実母の雪と継母の光子がよく読み聞かせてくれた本だ。手に取るのは何年ぶりか。焼き尽くされた過去への郷愁がぶり返し、胸が締め付けられる。

 本を開かずにそのまま抱きしめると、藤堂はせせらぎのように穏やかな微笑をたたえて机の角に腰掛けた。


「君、歳は?」

「十七です……あ、数え年だと十八です」

「満年齢を言うとは珍しいね」

「……母の影響です。西洋の文化に精通した方だったので。語学も非常に堪能でした。父は海運と造船の会社をしていて、母も手伝いを」

「海運と造船か。それではこの不況は堪えたろうね。欧州動乱に端を発した好景気では海運と造船は儲けたというが、今の不況の煽りも受けたのもそこだったと聞くし」

「いえ……父の会社は、その頃にはとっくに――」


 幸が言いよどむと、藤堂の眉尻は、我が身の不幸を経験した時のように下がった。


「……悪いことを聞いてしまったね。すまない」

「いえ、そんな」


 藤堂は窓に目をやり、凌雲閣を見つめて、うっすらと笑んだ。


「もはや鎖国は遠い昔。欧州の動向に左右され、切っても切れない関係か。西洋化が進んだおかげで暮らしは便利になった半面、ややこしくなった部分も多い。俺の仕事もそういう煽りを受けていてね」

「煽りですか?」

「世界中の物語が日本にいながら読めるようになったのはいいが、多くの物語が広まったのは俺の仕事柄は厄介な状況とも言える」

「探偵さん……なんですよね?」

「表向きはね」


 探偵は本業ではない、という意味だろう。

 裏の仕事が藤堂の真の生業なのだしたら、怪物になった少年と藤堂が操る水の刀。この二つが関係しているのは間違いない。

 普段、他人に興味を持たないように努めている幸だが、今回ばかりは理性よりも好奇心が優勢だ。


「……どんなお仕事ですか?」


 藤堂は右手の人差し指で顎先をなぞりながら幸に視線を戻した。


「幸さん、質問に質問で返して悪いけど、君、本は全部借りているのかい? 君が落としたグリム童話も図書館の物だろう? ずいぶんな読書家のようだけど買わない理由が?」


 真実を話すか。誤魔化すか。今までなら躊躇なく後者を選択してきた。

 けれど直感が教えてくれる。藤堂逸気の真実を知るには、こちらの真実も差し出す必要があるのだと。


「買ってしまうともったいなくて……」

「ふむ……何故って聞いてもいいかい?」


 幸は、答えようとした。でもいざとなると言葉にできない。

 自分の罪から、いつも逃げてきた。人との交流も、社会との繋がりも。自分の心を庇うために孤独を選んできた。それでいいと思っていた。これ以外に安らぎを得る方法はないのだと。だけど今は違う。

 謎の存在、文魔。そして水を刀に変える驚天動地の技を操る藤堂逸気。

 彼は知っているかもしれない。幸に付き纏う炎の正体を。家族を殺めた黒い影の真実を。


「燃えて……しまうからです。何もかも、私の大切なものは全部、燃え尽きて灰になってしまうから――」


 幸は、話した。これまでの人生と自分の身に起きた不可思議な現象を。

 聞き役の藤堂の表情は真剣そのもので、今までの人たちのように疑いの目は向けず、幸の身の上を時折相槌を混ぜながら関心深げに聞いている。

 幸が話し終えると、藤堂は神妙な面持ちで口を開いた。


「なるほど……間違いないな。君が出会った怪物は、文魔と呼ばれるものだよ。その対を成す存在が俺のような御伽の異能テイルセンスを持つ狩人、御伽狩おとぎがりだ」

「御伽の異能? 御伽狩り?」


 聞き馴染みのない単語の登場に、幸は首をひねった。


「っと、その話をする前に、揺蕩たゆたう力の話をしておかないといけないかもね」

揺蕩たゆたう力……?」


 また新しい単語の登場だ。けれど藤堂は戸惑う幸には、お構いなしに続けた。


「地球全体に存在する形も意思もない力場のことだよ。完全なる透明……それ故何色にも染まり得る。これが文魔や御伽の異能の元となるんだ。そもそも揺蕩たゆたう力とは何か? これは数多の戦争が関係している」

「戦争と言うと、先の欧州のような?」

「あの戦争もそうだし、過去に起きた戦争も全てだよ。数千年繰り返された度重なる戦争によって人類の集合的無意識に二つの感情が生まれた。飽くなき争いへの絶望と平和への願い。陰と陽。黒と白。この二つが混ざり合って生まれた巨大な力場を揺蕩たゆたう力と呼ぶんだ」


 では文魔や御伽の異能とは?

 藤堂に尋ねるまでもなく、幸はその概要を掴みつつあった。文や御伽と言う単語。探偵事務所には不釣り合いな蔵書の数々。


「……藤堂さん、文魔や御伽の異能とは、物語から生まれるという認識でいいのでしょうか?」


 藤堂は、感心深げに口元をほころばせて頷いた。


「幸さん、その通りだよ。著名な物語とは人類の共通認識でもある。例えば桃太郎や浦島太郎。御伽話に対して抱く印象は多少の差異はあれど、万人で共通しているものだ。となれば桃太郎から生まれる文魔は三匹の家来や鬼を象徴したモノに。浦島太郎なら亀や乙姫を象徴したモノになる。これは文魔と表裏の存在である御伽の異能も同様だよ」

「あの、揺蕩たゆたう力が物語の影響を受けたモノということは理解できました。ですけど、なんで揺蕩たゆたう力は物語の影響を受けるんですか?」

揺蕩たゆたう力は、色も形もないただそこにあるだけの力だ。だからこそ何色にも染まるし、どんな形にもなる。そして人間の強い感情は揺蕩たゆたう力に色と形を与えてしまうことがある。物語もまた、人間の強い感情が込められたモノだからね。願い・恐れ・愚かさ・尊さ……物語に秘められた想いと物語を読んだ大勢の人間の感情。世の出来事に絶望や希望を抱く人々の感情。それら全てが混ざり合い、強大な改変力となって揺蕩たゆたう力に干渉する。そして人に害をなす文魔と、文魔を狩り、人々を救う御伽の異能を持つ御伽狩りとが生まれる――」

「あの!」


 幸は、藤堂の解説を断ち切った。失礼なのは分かっていたが、どうしても尋ねておきたい気がかりがあった。

 藤堂は、特に気を悪くしていないらしく、視線で「質問どうぞ」と問いかけてくる。


「……藤堂さんは、水を刀にしていました。あれが御伽の異能でよろしいですよね?」

「うん。俺の御伽の異能は『南総里見八犬伝』に出てくる『村雨』だよ」


 南総里見八犬伝。曲亭馬琴が二十八年の歳月をかけて完成させた大傑作だ。幸もこの物語についてはよく知っており、数年前に全巻を読破している。


「犬塚信乃が扱う宝剣ですよね。抜けば玉散る。三尺の氷。刀の茎から露が滴り、邪を祓う力もあると……」


 藤堂の水の刀を操る力が御伽の異能ならば、これまで幸の身に起きた炎のそれも御伽の異能であると考えると辻褄は合う。

 しかし認めたくはなかった。認めてしまえば、それは幸自身の手によって家族を焼き殺したのだと認めることに他ならない。


「あの……藤堂さん……」


 ここまで来てしまったら、もう目を背けることはできない。いや、許されないと言った方がいい。


「私は……」


 聞くのが怖い。知るのが恐ろしい。自分の罪だと思い知らされるのは嫌だ。

 だけど確かめる他にない。このまま何も知らないふりをして生きていこうとしたところで、また文魔に出会わないとも限らない。

 火事の直前に見た影が文魔なのだとしたら、幸はこれまでの人生で影の文魔に二回と藤堂が倒した文魔に一回、つまり三度も人知を超えた怪物と遭遇していることになる。

 これから先もあんな怪物と遭遇する機会があるかもしれない。その時、近くに誰かがいたら巻き添えが出る可能性だってある。

 そう考えたら、真実を知らないまま帰ることは罪に思えた。

 覚悟を決めて幸は言った。


「わ、私は……御伽の異能を……持っているんですか?」

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