第17話「役に立たなくちゃ」
事務所に帰った幸は、文魔の正体を探ろうと本棚の本を片っ端から座卓の上に積み上げてソファーに座りながら読み漁った。
アリスは、疲れてしまったのか、幸の膝を枕にして寝息を立てている。
和馬が殺したあの文魔がアリスの言う通り初版体だとしたら、近い内に力を増して蘇る可能性が高い。
復活までどれだけの時間が残されているかは分からないが、さほどの猶予はないのだけは確かだ。今夜中に正体を突き止めねばなるまいが、猫の登場する物語は数多い。
『猫とねずみとおともだち』
『長靴をはいた猫』
『吾輩は猫である』
『不思議の国のアリスのチシャ猫』
しかし、どれを読んでみても文魔と繋がる描写のある物語ではなかった。
「やはり一度しか読んだことのない物語ですね……この辺りは何度も読みましたし……どうして私は、何度も読まなかったのでしょうか? 怖かったから?」
麻縄を操り、首を吊って相手を殺す猫の文魔。怪奇小説の類や伝承に現れる妖怪か?
「時間がないのに……どうして分からないの?」
遅々として進まない文魔の正体追及。焦りばかりが火山灰のように降り積もる。
一刻も早く正体を突き止めて、次に出会ったら自分の異能、燐寸売りの少女で確実に討伐しなければならない。なんともしても新たな被害者を出す前に。
『お前が藤堂さんと志を同じくして封印を理想としても必ず決断を突き付けられる時は来る。命か、掟かを』
和馬の声が鐘の音のように頭の中を反響する。
『もっとも僕からすれば御伽の異能は殺すための力だ』
幸の異能は、足止めに使えるような器用な代物ではない。敵を骨まで焼き尽くす炎を操る以外にできる芸当はないのだ。
一刻も早く正体を突き止めなければ遠からず決断を迫られる。
藤堂が信念とする掟か。
いざその場面に陥っても、きっと決められない。結局答えを出せないまま、まごついて、アリスを危険な目に合わせた時の二の舞になる。
文魔の正体を突き止めようと躍起になっているのは、正義感や義務感からではない。責任を負いたくないからこその後ろ向きな逃避行動だ。決断から逃れようとしている自分に嫌気が差す。
家族の命を奪った贖罪のために御伽狩りとして戦うことを決めた。それなのに今では自分の心を楽にすることばかり考えてしまっている。
罪を自覚せず、自己憐憫に浸っていた頃の自分は愚かに思えるが、今の自分も同様かそれ以上におこがましい存在に思えた。
そんな幸を藤堂とアリスは大切にしてくれるが、二人と幸では決定的に異能の質が違う。
藤堂は、ヘンゼルと戦った時、言っていた。
『苦しませてすまない』
幸の炎は、破壊と苦痛を与える以外の役割を持たない。万物を焼き溶かすしか能がない
どうしてこんな異能を授かってしまったのだろうか?
誰かを傷つける
何故燐寸売りの少女なのか?
どうして殺して傷つける以外にできないのか?
殺してしまう以外にできることはないのだろうか?
「――幸さん」
藤堂の手が本で敷き詰められた座卓の隙間にお茶の入った湯呑を置いた。
「藤堂さん……」
「気を張りすぎるのもよくないよ。少し休みなさい」
優しくされる度に突き付けられる。己の無能さを。己の未熟さを。まるで役立たずの無知な愚か者。
この人たちと同じ所にいる資格も、優しくされる資格も、一緒にいる資格もない。
心臓がイバラで締め付けられてズタズタになりそうだ。
「……ですけど、すぐにでも力を増した文魔が復活するかもしれません。今度は逃がさずにちゃんと封印しないと」
「それは分かっているよ。大切なことだ。幸さんが頑張ってくれてすごく助かっているんだよ。だけどそれで幸さんが身体を壊してしまったら元も子もないと思わないかい?」
「でも!」
幸の反論を抑えるように、藤堂の掌が頭を軽くポンポンと叩いた。
「ほら、お茶が冷める前に飲みなさい。所長命令だ」
一見すると笑顔だが、目が笑っていない。表情の裏に頑なな意志を感じる。お茶を飲むまでは、ずっと氷のような瞳の熱視線を浴びることになりそうだ。
藤堂は穏やかな気性だが、時々食えない面を見せてくる。恵みであり、時に甚大な災害の原因ともなる、まるで雨のような男だ。
渋々幸は、グリム童話集を座卓において湯飲みに口を付けた。程よい渋みが苛立ちを少し諫めてくれるような気がした。
「……美味しい……です」
「それはよかった」
藤堂は、お茶の入った湯呑に口を付けて、ほっと一息吐いた。
「俺はさ、紅茶も好きだけど、やっぱり緑茶が一番好きだな。心を落ち着かせてくれるからね」
「そうですね……」
「幸さん。お茶のついでに、俺でよければ相談に乗るよ?」
藤堂は、辛いことがあると必ず手を差し伸べてくれる。
「いえ、いつも相談には乗っていただいているので」
「でも、言いたいことはあるんじゃないかい?」
人に優しくするのがうまい人だ。話をしていると本心をつるっと吐き出したくなってしまう。頼っていいんだと思ってしまう。
「……私の異能は、傷つけることしかできないんです。藤堂さんの力とは違います」
「そうかな?」
「そうです。私も藤堂さんのような異能がよかったです。無差別に何もかも焼き尽くしてしまう炎なんかじゃなくて……」
藤堂は、湯呑を持っていない左手で顎先を撫でた。
「幸さん。幸さんは自分の異能をどう思っているんだい?」
「どうって……それは」
「
やはり見抜かれている。
藤堂に対して取り繕うより、ありのままの気持ちを話した方がいい。
「そうかもしれません……いえ、そうです。こんな異能じゃなければ家族を失わずに済んだのかもしれない……そう思うんです」
「確かに君は不幸に見舞われた。そしてその原因の一端は御伽の異能にあるのかもしれない……その可能性はある。だけどね、御伽の異能があればこそ、幸さんはここにいるんだよ」
「私は……」
そんなの頼んでいない。そう言おうとしたが――。
「そんなの頼んでいない。きっと俺が幸さんの立場ならそう思うだろう」
またお見通しだ。だがここまで言い当てられるとさすがの幸も気分が悪くなる。
「……先回りしてずるいです」
「ごめん。少し
藤堂は、湯呑を口に運んでお茶をすすり、ささやかな笑みをたたえた。
「幸さん。君の感情は間違っていないよ。怒りのぶつけどころがないのは理解できるからね。だけどこれだけは覚えていてほしいんだ。御伽の異能にも意思はあるのだと」
「御伽の異能の意思……藤堂さんは、前にもそう仰っていましたね」
「うん。御伽の異能は、天から授かるモノではない。御伽の異能自身が自らを振るうにふさわしいと思う人間に宿って初めて扱えるようになる力だ」
「燐寸売りの少女は、私を選んで宿っている……どうして彼女は、私を選んだのでしょうか?」
「君が優しいからだよ」
「……私が?」
「うん。君なら自分の力を正しいことに使ってくれる。御伽の異能はそう強く信じて君に宿ったんだ」
藤堂は、湯呑に視線を落とした。新緑の湖面がわずかに揺らいでいる。
「君と御伽の異能は多くの人の命を奪った……のかもしれない。だけどその原因を作ったのは文魔だ。そして文魔もまた人の感情の深淵が産み落とした異形だ。人が生み出してしまったモノだ」
「……つまり誰のせいでもないと?」
「誰のせいでもないし、誰のせいでもある。不条理だけどこれが現実だよ」
幸は、両手で湯呑を包むように持った。掌に伝わる温度がいつもよりも熱く感じる。
「じゃあ誰かを恨むのが間違っているんですね」
「そうでもないさ。誰かを恨まずにいられるのは、それはそれで心が壊れている証拠だよ。だけどね幸さん。御伽の異能は君が大好きなんだ」
「私を?」
「うん。大好きで、大好きで、大好きだから君に恨まれても君に寄り添い、君の命を守ろうとしている。幸さん、
「御伽の異能には二つの力があるというお話ですよね。覚えています」
「幸さん、
「異能を理解……」
「君の魂の中に、御伽の異能は住み着いている。そこに問いかけてみるんだ。そして話をしてごらん。そうすれば第二頁の力も扱えるようになるはずだ」
仮に理解できたとして、幸が望む力が手に入るだろうか。壊すための力ではなく、誰かを癒したり、幸せにできるようなそんな力。
「もう一つの異能は誰かを傷つけない異能なんでしょうか?」
「分からない。こちらが選べるものではないからね。だけど必ず君が御伽狩りとしてやっていくためには必要な力だと思う。幸さんの異能はまだまだ未覚醒で他にも凄まじい力が秘められている。俺はそう思っているんだよ。御伽の異能にも意思はあり、御伽の異能が幸さんを選んだ。それは幸さんが誰よりも心優しくて賢くて強い人だから、俺はそう思っている」
まっすぐに好意を伝えられるのは慣れていない。思わず幸は、はにかんでしまう。
「……私のことを買いかぶりすぎです」
藤堂は、酒に酔っているかのように頬を緩めた。
「これでも人を見る目には自信があるんだよ。今のところ、見誤ったことはない。和馬だっていい人間だよ。ただ彼は少し心が疲れてしまっているんだ」
肉親を失う悲哀は、知り尽くしている。彼が文魔に抱く復讐心には共感できる面もある。
「彼の気持ちがわかる……と言ったら藤堂さんは怒りますか?」
「いや。俺が怒るとしたら幸さんがなんでも俺の言う通りになってしまうことかな」
「藤堂さんの?」
「俺は、自分の意思に従う人形が欲しいわけじゃない。自分の意思で歩いていける人と絆を結んでいきたい」
「自分の意思で……歩ける人」
「大丈夫。幸さんはそれができる人だよ。だから自信を持ちなさい」
どうしてこの人は、ここまで他人を信頼できるのだろう?
幸が藤堂の立場だったら幸みたいに自分を卑下するのが癖になっている人間を心から信じられるのか?
いや、恐らくは
だから疑問に思ってしまう。何故藤堂がここまでよくしてくれるかを。
「藤堂さんは、どうして出会ったばかりの私に、優しくしてくれるんですか?」
「家族だからだよ」
梅雨に雨が降るのは当たり前だろう?
そんな調子で藤堂は言った。
「俺にとってこの事務所のみんなは家族だ」
「家族……ですか。もしかして私も?」
「当然だよ。幸さんも大切な家族だ。この探偵事務所のみんなも幸さんにとって家族だと思ってほしい」
「藤堂さんとアリスさんが私の家族……なんだか兄様と妹が同時にできたみたいですね」
「そうだね。だから困ったことや悩んだことがあれば兄や妹を頼ってほしいんだ。俺たちも困った時や悩んだ時は幸さんに頼るからさ」
「藤堂さん……ありがとうございます」
この人に出会えてよかった。どれだけ救われたか分からない。だからこそ役に立ちたい。助けになりたい。もう居場所は失いたくないから――。
「幸さん、というわけで早速お願いがあるんだ」
藤堂は、喉元に刃を突き付けられているかのように切羽詰まった顔をしている。
「な、なんでしょう?」
「あそこにいるゴキブリ獲って!」
藤堂の人差し指が風切り音を伴って床を指した。昼間出たモノよりも二回りは大きい大物である。
「ああ、はいはい」
幸は、膝を枕にしているアリスをそっとソファーに寝かせてから昼間と同じように、箒でゴキブリを事務所の外へ追い出した。
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