第16話「髪長姫(ラプンツェル)」

 突如、金色の一閃が黒い猫の右目を射抜いた。

 金切り声の断末魔を上げながら猫の文魔の肉体が弾け飛び、赤黒い肉塊と鮮血が路地を染めあげる。

 黒い猫が破裂した瞬間、空中から垂れ下がっていた三本の麻縄は霧散し、どこへともなく消え去ってしまった。

 支えを失った幸は、地上に背中から落下した。衝撃で思わず息を吸い込んだ、空っぽになっていた肺が空気で満たされていく。


「ごほっごほっ! えっほ! ごほ!」

「幸!」


 アリスが咳き込む幸に駆け寄り、背中を撫でてくれる。


「だ、大丈夫です。アリスさん。それよりも……」


 幸は涙でにじむ眼を凝らしてついさっきまで黒い猫が座っていた場所を見やった。

 人の身の丈よりも長い金色の棒が突き刺さっている。棒の両端は鋭く尖っており、槍投げ競技に使われる投げ槍によく似た形状だ。


「文魔の前で躊躇ちゅうちょするな素人」


 男の声が天から落ちてきた。見上げると民家の屋根の上に青年が一人立っており、槍と同じ金色の眼でこちらを見下ろしている。


「そんなことでは守るべきものを何も守れない」


 歳は藤堂と同じか少し若いぐらいか。精悍な顔立ちをしており、上背も藤堂より一回り大きい。

 学生服と黒い外套を身に着けており、ベルトには女性の物と思しき髪の束が赤い紐で結び付けられている。


和馬かずま……」


 アリスは、青年を見やりながら憮然ぶぜんとしている。どうやら青年と面識があるらしい。


「お、お知合いなんですか?」

「うん。的場和馬。去年まで藤堂探偵事務所にいた。だけど禁忌を犯して藤堂の前から姿を消した」

「禁忌?」

「文魔を封印せずに殺した。藤堂が止めるのも聞かずに」


 幸が初めて藤堂の事務所を訪れた時、綺麗好きな知り合いがいたと言っていた。藤堂は、それ以上詮索されたくなさそうだったので、今まで敢えて聞かないでいたが、アリスの反応を見るに恐らくは彼のことだ。


「アリス、相変わらずお前は偉そうな口を叩くわりに、戦闘で何の役に立たないようだな」


 仏頂面の和馬は、屋根から飛び降りて幸を一瞥いちべつした。


「そいつは事務所の新入りか? 随分と情けない姿だが、逸気さんは相変わらず人を見る目がないな」


 和馬の瞳の光は、金色の輝きを纏いながらも奥底から闇が漏れ出しているように思えた。

 これは殺意だ。腹の底で煮詰まった激情が瞳を通して漏れている。

 獰猛な視線に射抜かれ、幸の背筋がぞわりと撫でられた。


 ふんっ、と鼻を鳴らした和馬は幸に背を向け、地面に突き刺さる金色の投げ槍を引き抜いた。すると金色だった槍は濡れ羽色に転じ、さらには短く細く縮んで一本の髪の毛となる。

 和馬は、ベルトから垂れ下げた髪束に毛を丁寧に戻した。

 一撃で文魔を粉々にするとは、凄まじい破壊力だ。

 しかし和馬は封印の手順を踏んでいない。これでは文魔が力を増して復活してしまう。


「文魔を殺したんですか?」

「当たり前だ。こいつらは人に害をなす化け物だぞ」

「でも、封印しないと……」


 汚物でも見るかのように、和馬は顔をしかめた。


「封印? お前も逸気さんの甘い思想に囚われてしまっているのか? お前たちが攻撃しなかったのは正体が分からなかったからか?」

「封印しないといけませんから……」


 和馬が幸に向ける蔑視は、一層濃度を増していく。


「くだらん。思考停止した石頭が。状況をよく見てから物を言え」


 対するアリスも外敵から飼い主を守る忠犬のように憤怒を露わにしている。


「余計なお世話。私と幸でできた」

「無理だな。あのままだったらアリスもやられていたぞ? 君は年長者として若輩を守るどころか、頼って死の危険に置いたんだ」

「それは……」


 和馬の言う通りだ。

 判断が遅く、さらにはその判断が誤っていた。藤堂ならこんな失態を犯さない。

 落ち込む幸とは裏腹に、アリスはますます和馬に向ける敵意の情を煮詰めている。


「和馬。見てたならなんですぐに助けてくれないの? 幸が怪我をしないですんだのに!」


 和馬は、威圧的に胸を張ると鼻息を荒くした。


「助けたら助けたで罵倒されるんだろ? 封印せずに倒すなんてよくない、とか言ってな」

「そうしないと文魔は復活する! それが藤堂の教え! なのに和馬は!」

「まったく命を助けてやったのに恨み言を言われるとは心外だ。僕はむしろ感謝されるべきだと思うのだがね。しかしあの人は本当に物好きだな。女ばかり集めても何の役に立たないだろうに。見た目だけで助手を選んでいるのか」

「彼女たちは助手じゃない。大切な仲間だよ」


 罵倒を切り裂くように藤堂が路地に姿を現した。その表情は、網走の監獄ですら温かく感じられるような絶対零度の怒りを滲ませて強張っている。


「和馬、二人を助けてくれてありがとう。恩に着るよ」

「どういたしまして。だが礼だけで済むまい。どうせ説教を垂れる気だろう?」

「君も知っているはずだ。初版体の文魔は、封印しないと力を増して復活する。封印してあるべき姿に戻してやるのが一番なんだ」

「こいつが初版かもわからないだろ?」

「初版だった。私の異能によれば間違いない」


 アリスの反論に、和馬は嘲笑を露わにする。


「お前の能力は当てにならないだろ。役立たずの分際で大きな口を叩くな。身の程知らずめ」

「和馬」


 藤堂の声が大気を凍てつかせる。触れた瞬間、身体の芯まで氷結させる極寒の気迫を纏った藤堂は、和馬に詰め寄っていく。


「俺をどんな風に言おうと、どんな風に思おうと構わない。だけどアリスや幸さんへの侮辱と罵倒は許さない。訂正しなさい」


 和馬は、わざとらしく音を立てて舌を打った。


「冗談じゃない。無能を無能と言って何が悪い。僕にとってみればあなたは考えこそ甘いが有能だ。その甘い考えさえ捨てれば日本一の御伽狩りと呼んでも差し支えないだろう。しかしくだらない思想に囚われている。それ故にあんたも無能に成り下がっているのだ。あんたの判断力の欠如の証明がそこの役立たず二人だ」

「訂正しなさい」

「断る」


 立ち去ろうとする和馬を藤堂は肩を掴んで制止した。


「訂正しろと言ってるんだ」

「訂正しなかったら?」

「俺の全力で君を殴る」


 藤堂の瞳が御伽の異能を行使する時の水色に光っている。本気を感じたのか、和馬は肩を竦めた。


「怖いね。あんたとやり合うつもりはない。だが訂正はしない。事実は事実だ。あんたの考え方は間違っている。いちいち正体を調べたり、本を読み漁るのか? その間に人が殺されたらどうする?」

「犠牲を最小限にするために努力しているよ」

「その努力の結果が仲間二人を危険に晒すことか!?」


 和馬は雷光のような怒気を露わに、藤堂の胸倉を掴み上げた。


「仲間を大切だと思うなら守ってみせろ! 危険な目に合わせておいてよく偉そうに言えたものだ!」

「君の言う通りだ。助けてくれたことは本当に感謝しているよ。だけど彼女たちを侮辱したのはそれとは別だ」


 和馬は、鼻息を荒くして藤堂を突き飛ばし、踵を返したが、藤堂の手が和馬の肩を掴んで離さない。


「だからさっき二人に言ったことは全面的に撤回しなさい」

「……逸気さん、あんたのやり方で誰かが死んだとしよう。被害者には家族が殺されてもしょうがないとあきらめさせるのか? 僕はそんな思いを誰にもさせない。どんな地獄か知ってるからな」

「君の事情は理解している。だけどむやみやたらに殺すのは感心しないよ」

「僕だって封印できる状況なら封印はしている。だけど人の命と封印を同じ天秤には置けない。人の命をどれだけ犠牲にしてでも封印だけしたいなら、あんたが勝手にしていろ。僕は目の前に文魔に襲われている人がいたら助ける。それだけだ」

「君の意見は分かった。だけど二人を侮辱したことは謝罪するんだ。これは意見の相違の問題じゃない。明確な蔑視だ」


 藤堂の指先が和馬の肩口に食い込んでいく。

 和馬は、藤堂の手を払いのけたが、立ち去ろうとはしない。

 しばらく立ち尽くした後、振り返って幸を見据えると会釈するように頭を下げた。


「……確かに言いすぎたかもしれん。非礼は詫びる。すまなかった」


 和馬の声には誠意が籠っている。多少不服の念も混じっているが、その場しのぎの謝罪でないのは理解できる。

 一転して藤堂の表情が和らぎ、和馬の肩を優しく叩いた。


「俺は、文魔の被害を最小限にしたい。したいからこそ初版体が力を付けてしまう事態は避けるべきだと考えているんだよ」


 微笑みながら藤堂は深くお辞儀をした。


「だけど君が二人の命を救ってくれたこと、改めて礼を言う。ありがとう」

「……僕は古い掟の盲信より、命を優先しているだけだ。御伽狩りとして当たり前にな」


 和馬は、藤堂から視線を外して幸を見つめる。まるで幸を見定めるように金色の瞳が鈍い光を放っている。


「幸とか言ったな。お前が逸気さんと志を同じくして封印を理想としても必ず決断を突き付けられる時は来る」

「決断……」

「命か、掟かをな。精々後悔のないようにすることだ。もっとも僕からすれば御伽の異能テイルセンスは殺すための力だ。迷う必要などないと思うがね」


 そう言い残して和馬は去っていった。

 和馬の言うことにも理はある。結局何もできず、いたずらにアリスを危険に晒してしまった。あの状況で封印しか考えないのは浅はかだった。

 藤堂だって人命が危機にあれば難しい判断を迫られると言っていたし、殺す選択肢を取る場合だって時にはあるのかもしれない。

 凝り固まった思考では人命は救えないし、判断も誤る。自分の未熟さをひどく痛感させられた。


「ごめんなさい藤堂さん……私のせいです。私がアリスさんを危険な目に」

「幸のせいじゃない! 私がのろのろしてたせい……何もできなかったせい」


 藤堂の手が幸とアリスの頭を撫でた。


「君たちのせいじゃないよ」


 和馬に見せた極寒の怒気は既になく、翠雨すいうのように心地の良い笑みを浮かべていた。


「それに彼も痛い所を突いてくる。目の前で殺されそうな人がいるのに、それでも封印を優先するのか……たしかに正論だよ」

「あの人は……」


 言いかけてから聞いてもよいものかと、考える。けれど彼のことは聞いておかなくてはいけない。そんな気がした。


「和馬という人は藤堂さんの昔の?」

「彼も藤堂探偵事務所の仲間だったんだ。彼は家族を文魔に殺されているんだよ。御伽の異能は髪長姫ラプンツェル。髪を操る異能だ。そしてあの髪は殺された彼のお姉さんの物だ」

「お姉さんの……」


 束子のような髪をガシガシとかきむしりながら藤堂はバツが悪そうにしている。


「だから彼の気持ちも分かるんだ。だけどそれでも俺たちは自分を律して戦うしかない……」

「そうですね……」


 口ではそう答えながらも内心では迷っていた。

 和馬の境遇は幸と似ている。もし幸が異能の暴発を招いた文魔と相対したら、冷静でいられる自信はない。もしかしたら封印よりも復讐を優先してしまうことだって――。


「ところで幸さん、やつの正体に見当は付きそうかい?」

「え、えっと……」


 現実に引き戻された幸は、改めて敵の正体を考察してみる。


「麻縄を操る力を持つ猫でしたけど……」


 あと一つ何かしらのきっかけがあれば答えに辿り着けそうなのに、そのきっかけが思うように掴めない。

 悔しい。

 もう少し何か情報があれば答えが得られそうなのに。

 藤堂とアリスの役に立てるかもしれないのに。


「もう少しという感じは自分でもしているんです。だけど、具体的にどの物語かと言われると……」

「そうか。それなら幸さん、一旦事務所に引き返そう。あそこにある本を読めばやつの正体がよりはっきりと分かるかもしれない」


 藤堂の提案に同意するようにアリスが着物の袖をつまんでくる。


「うん。帰ろう幸」

「はい……」


 結局文魔の封印も正体を突き止めることも何もできなかった。

 帰りの道中、幸を支配していたのは拭いきれない敗北感だった。

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