第二章『火と水』
第9話「藤堂探偵事務所」
今宵の夜天に輝くは
間もなく八月も終わろうというのに、未だ衰えを知らない昼間の陽光の残滓が夜になっても残っている。
火照った夜気に蒸された黄色い光が
にゃー。
猫の声が木霊した。一軒の家からだ。
ごくありふれた木造平屋。家主は裕福ではないが、貧しくもない。一目見れば誰しもそう判断する平凡な家だった。
ぎっ……ぎっ……ぎっ……。
家の中から繊維の軋む音がする。居間の方からだ。
居間では、黒い猫が男を見つめていた。男は、この家の家主であろう。年の頃は四十の手前。男前ではないが、
男が麻縄で首を吊って息絶えていることも別に珍しくはない。戦後の不況が続く日々に疲れ、首を括るなんてよくある話だ。
では何が尋常から外れているのか?
男の首を吊っている縄だ。
首を
黒い猫は、しばし男を見つめていたが、やがて興味が失せたのか尻を向けて家を後にした。
望月の下を悠々と歩く黒い猫は、ふと立ち止まり、背伸びをした。
「お前、一人なのか?」
男の声が黒い猫の頭上から響いた。黒い猫が見上げると、そこにいたのは三十路手前の着流しの男である。
「にゃー」
黒い猫が一鳴きして答えると、男は黒い猫を抱き上げた。
「俺もだよ。今は俺も一人だ。女房は相撲風邪にやられてな……」
相撲風邪――俗にいうスペイン風邪だ。
大正七年の春、台湾での大相撲巡業中に力士たちを中心に感染が確認され、秋頃には本土に上陸。
感染者数は、国民のおよそ四割に当たる約二三八〇万人。死者は約三十九万人と大変な猛威を振るった。
「猫が好きな、いい女房だった……」
男は、哀愁を噛み締めながら腕に抱いた猫の背中を優しく撫でた。
「お前は首輪もしてないし、野良かね。うろうろしていると野良犬にがぶりとやられてしまうぞ。さぁ、家においで」
「にゃー」
答える猫の目は月明りを吸い込み、怪しい緑の光を放っていた。
◇ ◇ ◇
文魔の引き起こす事件はヘンゼル以降特になく、幸がやっていることと言えば、毎日事務所に通い、藤堂の蔵書の数々を読み漁るぐらいだった。
探偵事務所とは言っても、藤堂曰く文魔の起こした事件を追うために適当な身分が欲しかっただけらしく、探偵らしい仕事をまったくしていない。
なので幸としても蔵書を消化するぐらいしかやることがないのだ。
自身の指定席となった応接用のソファーに深く腰掛け、原語版のアンデルセンの童話集を読んでいると、
「幸、幸」
浅葱色をした睡蓮柄の着物の袖が引っ張られた。
本から視線を外して見やると、幸の左隣にアリスが座っている。白く細い指で幸の着物の袖を軽くつまんでいた。
「幸、これ飲んでみて」
言いながら幸の目の前にコップを差し出してきた。中には白濁した液体が注がれている。
一見すると何かの乳のようだが、乳特有のまったりとした癖のある匂いは漂ってこない。
「アリスさん、この液体は一体……」
「いいから飲んでみて」
アリスは、子猫のようないたずらっぽい笑みを浮かべている。
アンデルセン童話集の本を座卓に置いて、恐る恐る両手でコップを受け取った。
試しに匂いを嗅いでみる。やはり乳臭さはない。もう少し酸味のある香りだ。見慣れない飲み物ではあるが、変なものではないと断言してよいだろう。
幸が事務所に入った当初、アリスは気性の荒い猫が如く当たりが強かった。
どうも兄のように慕っている藤堂を幸に取られたのだと思っていたらしい。
しかしそれも数日足らずのこと。少女らしい根の素直さ故か、今ではすっかり懐いてくれている。まるで妹ができたような気分だ。
奇怪な飲み物ではあるが、アリスが幸に対して意地悪をするために勧めているとは考えられない。意を決し、コップに口を付けた。
舌の上に濃厚な甘みと微かな酸味が広がっていく。喉越しは少しねっとりとしていて少し絡む感じがするが、不快ではない。
気が付けばコップ一杯分をあっという間に飲み干してしまった。
「おいしい! ねっとりと甘くて不思議な味……初めて飲みます。アリスさん、これは何という飲み物なんですか?」
「カルピス。四年前に出た……乳酸菌? 飲料と言うらしい」
「にゅーさん菌?」
聞き覚えのない単語に、幸は思わず首を傾げた。
「うん。乳酸菌」
アリスは胸を張って頷いた。
「それはどういう菌なんでしょうか?」
気になって尋ねてみたが、アリスの返答はない。彼女は腕を組んで沈黙を貫いている。
アリスもどのような菌なのかは知らないらしい。正体不明の菌によって生み出された飲み物。今更になって怖くなってくる。
幸が訝しげにコップの底に残った乳白色の雫を眺めていると、アリスは口の中で小さく「うん」と呟き、両手を腰に当てて胸を張った。
「……多分身体にいい菌」
アリスなりに幸の不安を解消してくれようとしているのが伝わってくる。正直、効果は薄いのだが、これ以上アリスを悩ませるのも申し訳ない。
「そうですか。これは身体に
「うん。多分。牛のミルクからできているらしい」
「これが牛の乳からできているんですか? あまり飲んだことがないので分かりませんが、すごいんですね牛の乳は」
「うん。すごい」
藤堂は、給湯室から顔だけ出して幸とアリスの中身のないやり取りを微笑ましげに眺めている。
幸は、藤堂の姿を視界の端に入れていたが、あんこのたっぷり乗った串団子が割り込んでくる。
「幸。これも美味しいお団子。一緒に食べよ」
「あ、ありがとうございます」
幸が団子を受け取ると、給湯室から藤堂が出てきた。手には急須と湯飲みを三つ持っている。
「お茶、よかったら飲んで」
藤堂は、座卓の上に湯呑を三つ置いてそれぞれに茶を注いでいく。
「いつもすいません。今度からは私がやります。男の方にお茶を淹れていただくなんて申し訳なくて――」
藤堂は急須を座卓に置くと代わりに湯呑を手に取り、立ったまま口を付けた。
「こういうのは暇な方がすればいいよ。それに俺は結構こういうの好きなんだ」
「ですけど……」
「俺が好きでやっていることなんだから、君は気にしなくていいよ」
「ですが、私はここへきて本を読んでいるばかりですし、お仕事も特にしていませんし、これではまるで遊びに来ているだけのような……」
自分の孤独を解消したい。本音はそこにあれど、罪を償うために戦いたい欲求も嘘ではない。
親切にしてくれる人のところへ遊びに来ているだけの日常は、罪人にはあまりにもったいなさすぎる幸福ではないだろうか?
「別に、それならそれでいいんじゃないかい?」
藤堂は、心底そう思っているようだった。
それでいいとは一体どういう意味だろう?
今の幸は何の役にも立っていない。役に立たない人間がいてよいことなんてないはずだ。
「あの……それでよいとは一体どういう意味で?」
「言ったままの意味さ。俺と幸さんは、文魔の事件が縁で出会ったけど、俺たちの関係性は友人と呼べるものじゃないかい?」
「ゆ、友人……私と藤堂さんが?」
友人なんて今まで一人もいなかった。
ましてや人からそう言われたことなんて一度もない。
どう答えればいいのか。当然のことに戸惑ってしまい言葉が出てこない。
そんな幸の様子を見かねたのか、藤堂は膝を曲げて座っている幸を目線を合わせた。
「少なくとも俺は幸さんのことを良き友人だと思っているよ」
幸に微笑みかけてから、藤堂はアリスを
「アリスもそうだろう?」
「うん。幸は友達、大事な友達」
藤堂とアリスは、いつでも幸を温かく迎えてくれる。
ここにいていいのだと。ここが幸の居場所なのだと。
だけど親切に甘えるばかりではいたくない。
藤堂の言うように文魔が出現しないに越したことはないが、何もせず安穏と過ごすだけでは何の罪滅ぼしにもならないし、ここにいる大義名分をも失ってしまう気がした。
幸の異能は、二人の異能とは違う。戦ったり、壊したりするしか能がない。戦う以外に役に立てる方法がなかった。
藤堂の
アリスの御伽の異能は『白雪姫』の魔法の鏡。自分が探し求めるモノの気配を探知する能力を持ち、さらには探し求めるモノがどこに存在するのか、おおよその位置を鏡に映し出すことも可能だ。
それらと比較すれば幸の異能は、全てを焼き尽くす炎を操るのみ。汎用性からは程遠い攻撃的な異能だ。
「……私の異能は戦う時しか役に立ちません。どうせならもっと平和的な異能がよかったです。傷つけるしかできない異能じゃなくて……人の役に立てるような。例えば傷を治したりとか」
「俺は、そうは思わないよ」
藤堂は、
「御伽の異能には
藤堂も水で刀を作る異能と冷気を操る異能の二種類が扱える。
彼の言うように幸の異能にも炎を操る以外の別の力があるのかもしれない。
しかし炎に関連する異能ならばどうせ何かを壊すための力だろう。
「……ですけど、
幼い少女は寒空の下、燐寸の火の中に見える幻影に囚われ、幸せを願いながら命を散らす。物語の結末から連想されるのは、孤独な死だ。
――そうですね。私のような罪人には、お似合いの異能かもしれません……。
藤堂やアリスと出会ってからの日々は十年ぶりに味わう幸福な日常だ。あまりに幸せ過ぎて、時折自分の犯した罪を忘れそうになる。
たくさんの人を焼き殺してしまった。多くの人の人生を変えてしまった。どんな贖いをしたところで許されるはずがない。
だからこそ、せめて二人の役に立たなくては!
幸せをくれる人たちに少しでも恩返しをしなくては!
こんな自分を傍においてくれる二人に対して何かできることはないのか?
大切な人の役に立ちたい。罪人であろうとも、そう願うことは、悪ではないはずだ。
「藤堂さん。アリスさん。私にできることがあればなんでも仰ってください。お二人のためならば、どんなことでも――」
「幸さんありがとう。何かあれば……いやあああああああああああああああああ!」
突然、藤堂の悲鳴が事務所に木霊した。
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