第10話「強敵の襲来」

 悲鳴を上げた藤堂は、土足のまま窓際の机に飛び乗った。ピンと伸ばした人差し指で床板を何度も指し示している。

 冷静沈着な普段の姿は、まるで見る影もない。真夜中に、障子越しに見える木の影をお化けだと言って怯える童のようだった。

 あの藤堂がこれほど取り乱すとは……もしかして文魔!?

 咄嗟に幸が藤堂の指差す場所を見やった。

 そこには一匹のゴキブリが佇んでいた。それなりの大きさがある。恐らくはチャバネゴキブリだ。


「きゃっ!」


 小さな悲鳴を上げてアリスが幸の背中に隠れた。紺色の袴をすがるように掴む手は、小刻みに震えている。

 幸は、アリスの手をさすりつつ、藤堂とゴキブリを交互に見やった。

 どう見ても文魔だとは思えない。ごく一般的なゴキブリのようだ。それなのにどうして藤堂はこんなに怯えているのだろうか?

 しばし考えた後、幸の中である可能性が浮上した。


「あの……藤堂さん。もしかしたら虫が苦手なんでしょうか?」


 藤堂は、ゴキブリを指差したまま首がもげそうな勢いで頷いている。水鏡のように涼しい瞳が恐怖の涙で潤んでいた。

 とりあえずゴキブリを外へ出すのが先決だ。幸は、そっとアリスの手を袴から離した。八月も今日で終わりだが、まだまだ彼奴等の盛りは終わっていない。俊敏な動きに対応するには身軽でなくてはいけない。

 幸は、ゴキブリを刺激しないように忍び足で壁に立てかけてある箒を取りに行った。別に怖くはないが、さすがに素手で触るのは少々抵抗がある。

 事務所の扉を開け放ってから、幸はゴキブリの正面に回り込んだ。

 まだゴキブリは動かない。こちらの様子を窺っている。

 今が好機。

 幸は素早く箒を動かしながら前進し、ゴキブリの反応を許さず、事務所の外へ掃き出した。すぐさま扉を閉めて藤堂とアリスに向き直ると、二人は感涙で頬を濡らしていた。


「すごいよ幸さん!」

「幸、できる子!」

「い、いえ。これぐらい」


 大したことではないのに、世界を救った英雄のように称えられるのは嬉しいよりも恥ずかしさが先に立つ。


「本当にありがとう幸さん! 俺、虫はどうも苦手で……幸さんは救世主だよ。アリスも虫はダメなんだけど、この建物は本当に虫多くて、君がいないとこの事務所はもう回らないよ!」

「幸、救世主! メシア!」


 役に立つなら、もっと他の分野で役に立ちたいのだが、何もないよりはいいと考え、受け入れることにする。


「そんなに大げさなものではないと思いますけど……あ、ありがとう……ございます」


 だけど虫退治なんかじゃ足りない。もっと文魔の事件解決においても役に立ちたい。

 ゴキブリ騒動が一段落したところで、アリスは藤堂の机の上に置かれた鏡を手にしてぽすんとソファーに腰掛ける。

 蒼玉が如き瞳が紫水晶と見紛う輝きに変じると、鏡に浅草六区周辺の地図が映し出された。

 これはアリスの日課で付近に文魔の気配がないかを確かめている。朝・昼・夜の一日三回、毎日欠かさない。


「アリスさん。文魔の気配はありますか?」


 アリスは、愛くるしい面立ちに不釣り合いなしわを眉間に寄せた。


「うまく気配を探れない……最近はずっと調子が悪い」


 藤堂が飛び乗った机から降りて、アリスの鏡を覗き込んだ。


「元々どんな探し物をするにしても大雑多な範囲しか分からない異能ではあるんだけど、それにしても雑だ」

「藤堂、レディーに対して失礼」


 ふくれっ面のアリスが鏡に念を込める。しかし鏡に映し出される地図の範囲が広がった。


「……ぶぅ」


 こんな時、なんて声をかけて慰めるべきなのだろうか。

 十年間、人付き合いを断ってきた幸にとって友人を慰めるのは、数学者でも首をひねる数式を解く以上の難問に感じられる。


「あ、あのアリスさん……えっと……その……えぇーと……」

「幸、大丈夫。私は平気」


 まごついている間に、当のアリスから助け船を出されてしまった。

 年下の少女に気を使わせる自分が一層恥ずかしくなってくる。


「すいませんアリスさん。私、とっても口下手で……」

「そんなことない。私は幸と話すの楽しい」

「そう……ですか? だったら私も嬉しいです」

「うん。そんな幸だから話す。今私には不安なことがある」

「不安なこと、ですか?」


 アリスは、小さく頷き、鏡を覗き込んだ。


「ここ最近、浅草近辺の揺蕩たゆたう力が乱れてる。文魔を封印しない御伽狩りも少なくないからその影響かも」


 ヘンゼルをそうした時のように、文魔の封印には手順を踏む必要がある。

 まず初版体を構成する物語。これを正確に認知認識して文魔の実体を捕らえること。そうすると文魔を強制的に〝顕現けんげん〟させられる。

 自身の元となった物語を言い当てられることで、文魔はその本性を露わにせざるを得なくなるのだ。事実ヘンゼルも美少年という仮初の姿を暴かれ、人間と豚が混ざったに醜い本性を露わにしていた。


 御伽狩りによって正体を暴かれた文魔は、強制的に顕現させられた上、分身である重版体も発生元となった初版体に集束して一つの存在に戻る。

 急激にそんな状態にさせられたら文魔の存在そのものも安定しなくなる。つまり文魔の力が弱くなるのだ。

 その状態の文魔を倒すことで一時的に揺蕩たゆたう力に戻し、それを白紙の本に封じることで封印が完了となる。


 この手順を踏んで文魔を封印しないと彼らを倒せないはずだ。

 アリスの言う封印しない御伽狩りとはどういう意味なのか?

 尋ねようと思って幸が藤堂を見やると、彼は窓際の机の角に腰掛けて腕を組み、長雨のように暗く切なげな面持ちを見せた。


「そういうやつもいるってことさ……俺は御伽狩りの師匠から文魔は封じるものだと教わった。師匠もその師匠からね。文魔は封じねばならない。封じずに殺すばかりでは、いずれ大きな禍に転ずるとね。事実、封印しないと文魔は力を増して復活してしまうからね」


 封印しないと力を増して復活。そう聞かされた途端、幸の中にある懸念が浮上した。


「藤堂さん! 私の母を殺した黒い影……あの文魔が私の炎で死んでいたら!」


 文魔や御伽の異能について知らなかった当時の幸は、当然ながら黒い影がどのような物語から発生したのかを理解していない。

 正体を知らずに殺してしまうことで文魔の力が増して復活してしまうなら大変だ。

 幸は二回も、あの黒い影の文魔を焼き殺しているかもしれない。

 だとしたら、あの文魔がどれほど強大になっているのか分からないではないか。

 幸の中でふつふつと膨らむ懸念を鎮めるように、藤堂の涼やかで心地のよい声が耳を撫でた。


「もう十年、君の前に姿を現していないんだろう? それなら他の御伽狩りに封印された可能性が高い」

「で、でも力を増したせいで他の人を襲っていたら――」

「いや、二度も君の前に現れた文魔が今も存在するなら君を害さずに他へ行くとは考えづらい。まだ封印されていないなら必ず君の前に姿を現しているはずだよ」

「それは分かっているのですが……」

「まぁお茶でも飲んで、少し心を落ち着けなさい」


 言われるまま幸は、湯呑に口を付ける。熱すぎず温すぎず、ちょうどよい温度だ。

 爽やかで温かい風味が臓腑に広がり、ささくれていた感情を宥めてくれる。


「幸さん、落ち着いた?」

「……はい」

「まぁ君の心配ももっともだから気持ちは分かるよ。確かに文魔の正体を知らずに殺しても意味はないからね。初版体の実体を捕らえずに殺したとしても、すぐに文魔の形を取り戻してしまう。人間に対する強い憎悪を抱えてね」


 文魔は、人間の負の感情によって生まれる。それ故、文魔自身が人間への負の感情をため込むことでより大きな力となるのだ。

 封印の大切さを一層強く認識させられる。


「ただし――」


 付け加えるように藤堂は続けた。


「封印には手間がかかるのも事実だ。文魔の正体が分かっていないのに、目の前で人が殺されそうになっていたら……そういう状況もある。それこそ幸さんと黒い影の時のようにね」

「その場合は、どうするんですか?」


 藤堂は、曇天のように曖昧な微笑を浮かべた。


「文魔を殺さずに人を救えるか、救えないか。その時々かな。答えが出ない難しい問題だよ。俺も偉そうに言っておきながら人命優先で正体が分からないまま文魔と戦ったこともある」

「じゃあ……復活を承知で殺した?」


 首を横に振ってから、藤堂は苦笑した。


「いや、文魔を氷の中に閉じ込めて逃げたよ。そして氷が溶ける前に正体を調べて封印した」

「そっか。藤堂さんの村雨なら私と違って――」

「でもこれも最善じゃない」

「え? でも文魔の動きを封じたんじゃ?」

「氷を砕かれる可能性だってあったんだ。目の前の一人を救えても、逃げ出した文魔によって十人が殺されてしまっていたかもしれない……どうするのが最善だったのかは今でも分からないよ」


 目の前の一人を犠牲にするか。

 より多くの人のために切り捨てるか。

 もしもそんな場面に遭遇したら自分はどうするのだろうか?

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