第2話「お菓子の匂いの少年」
屋敷の中で若い女が死んでいたらしい。
誰かが発した声を呼び水にして野次馬の群れから次々に声が上がった。
「月曜日ぐらいに新聞に載ったろう。少女が失踪。そいつらしいぞ」
「一昨日か。じゃあそのままここで?」
「噂じゃ怪しい男と一緒にいたとか」
「そいつにやられちまったのかい。ひでー話だな」
人が亡くなったというのに、野次馬たちが発するのは好奇の声だ。
亡くなった者への弔いの言葉は、一向に紡がれない。
「あそこの屋敷、なんでも厨房が刀傷だらけだったそうだ。しかも少女ってやつは身体中の皮を剥がれてたんだとさ」
「俺が聞いた話じゃ、似たようなことが他にも起きてるらしいぜ。どうもこれが初めてじゃないらしい」
「そういや前にも新聞で見たぜ。若い女が屋敷の中でずたずたに引き裂かれたってな。野犬でも出たのかと思ったがどうもそうじゃないらしい。野犬にはあそこまでできねぇってな」
幸は、噂話が嫌いだ。
皆で寄ってたかってあることないことを次々と口にしていく間に、真実とは正反対の事実ができ上がってしまう。
さも人を憐れむようなふりをして、その裏では不幸を酒の肴にして嗜む。人間とは往々にしてそのような生き物である。十七年間の人生で幸が学んだ教訓だ。
急いで走り抜けてしまおう。決心を固めた幸だったが、反比例するように足は前へ出てくれない。
これ以上一歩でも先に進んではいけない。
本能が前進を拒んでいた。
早く新しい本を借りたい。読んで現実から逃げ出したい。そんな幸の欲求ですら屈服させられるほどだった。
何故か分からないが、このまま進むのは……とても嫌だ。
本能に従い、回り道をしようと踵を返すと、こちらへ歩いてくる一人の青年と目が合った。
年の頃は、幸よりも少し上か。面立ちの造りそのものは相当に整っている。身長も平均的な男性と上背の変わらない幸に比べて、さらに頭一つ高い。かなりの美青年だ。
しかし使い古した束子みたいに乱れた髪。無地の黒い着物と首元のボタンを開けて袖をまくったシャツに濃灰色の袴。腰からぶら下げた大ぶりの瓢箪。履き慣らしたブーツ。悲惨な髪型と服装は、生まれ持った美点を完膚無きまでに殺し、青年の風体を不審者に変えていた。
青年は、ふいに足を止めた。じっと幸を見つめている。
物珍しがっているという風ではない。昆虫学者が新種の虫を見つけて溢れ出る好奇心を抑えきれないという雰囲気だ。
幸は、青年の意図がわからず、彼と目が合わないように視線を泳がせた。
悪い人とは思えないが、じっと見られるのは気分がよくない。幸が嫌がっているのは青年にも伝わっているはずだ。しかし青年の熱視線は、尚も幸を焦がし続ける。
今の状況を脱するには、この場を離れるのが賢明だ。
道幅は広いが、一本道で抜け道のようなものは見当たらない。来た道を戻るにしても青年とすれ違う必要がある。
もう一度方向転換して図書館へ向かうべきか?
いや、やっぱりあそこには行きたくない。
洋館の前を通りたくない本能が怪しい青年に対する警戒心を上回った。
内心恐る恐る、しかし因縁を付けられないよう面には出さず、幸は青年の待ち構える道を引き返した。
顔を伏せる幸だったが、青年の視線を肌で感じる。やはり幸に注目している。
今度はこちらの価値を見定めているような感覚。骨董品の壺にでもなった気分だ。
青年とすれ違い、お互いに背を向ける格好になった瞬間、後頭部がちりちりと疼いた。
まだこちらを見つめているらしい。何故そこまで幸に興味を持つのか、思い当たる節がない。
振り返って確かめるのは怖く思えて、幸はそのまま歩き続けた。
彼とは以前どこかで会ったことがあるのか?
いや、少なくとも幸の方にその記憶はない。
では、幸の過去を知っていて興味本位か?
こちらの可能性は十二分にある。
例えば彼は聞屋かもしれない。だとしたら、取材と称した付きまといを受けるのはこれが初めてではないし、聞かれる内容も想像がつく。三面記事の穴埋めか、三流雑誌の取材であろう。
他人の不幸を蜜のように欲する人間はごまんといる。彼等がいるから聞屋は金子を得て、飯を食える。それが世の理と分かっていても不快感は拭えない。
幸は、グリム童話集を抱きしめて足早に進む。突き当りの曲がり角を右に行くと、鼻先に鈍い衝撃が走った。咄嗟のことに目を瞑ってしまう。
その刹那、鼻腔をくすぐる甘い香り。砂糖が焦げ、バターの焼けたお菓子の匂い。
「すいません。大丈夫ですか?」
清楚な声が鼓膜を揺らした。瞼を開くと、そこには西洋人の少年がいた。
目の眩むような美しさだった。
自分のような薄汚れた人間が見つめると彼の存在を穢してしてしまう。幸は、そんな気がしてしまい、直視するのがはばかられた。
だけど幸の視線は、花に群がる蜂のように少年へと吸い寄せられてしまう。
背と年頃は幸と同じぐらい。西洋人にしては小柄である。純白の開襟シャツをふわりと纏った立ち姿は、どこか気品に満ちている。帝都へお忍び旅行に来たヨーロッパの王侯貴族だと言われたら、疑うことなく信じてしまうだろう。
突き抜けるように蒼い瞳が幸を見つめた。
人に見られるのは嫌いなのに、潮風に抱かれている時のような心地の良い安らぎを覚えた。
「大丈夫? 顔色が悪いよ?」
少年が首を傾げる。さらりと揺れる金色の髪から甘い匂いが、ふわりと漂った。輝く色合いとかぐわしい香りは、髪の毛が蜂蜜でできているのかと錯覚させるほどだ。
「ねぇ? 大丈夫?」
西洋人なのに、日本語の発音も完璧である。生粋の日本人でも、これほどよどみなく操れる者はそうそういまい。
だが、不自然と言えば不自然だ。
何故この西洋人は、これほど巧みに日本の言葉を操れるのか?
どうして初対面の幸をまるで家族でもあるかのように気遣い、構ってくるのか?
一度生じた違和感は、カルメ焼きのように膨らみ、やがて強い疑念へと焦げ付いていく。
「失礼をいたしました。私は平気です……お気遣い感謝いたします」
素早く一礼した幸は、足早に少年の元を離れた。
今日は嫌なことばかりだ。出かけるべきじゃなかった。約束した返却の期限にはまだ猶予があるから、一度出直した方がいい。
こつ――。
こつん――。
背後から足音が追いかけてくる。
ちらりと見やると、先ほどの怪しい風体の瓢箪の青年が少し離れてついてきていた。
先程とは異なり、幸を見つめる表情に好奇心は微塵もなく、両の眼に宿るのは獲物を前にした狼のような冷たい光だ。
恐ろしくなった幸は、走った。人生で一番早く、そして無心になって両足を回転させる。
三十五度の気温の中での全力疾走は、幸の毛穴という毛穴から汗を噴き出させた。着物の生地を突き抜けて汗が滲んでしまいそうだ。
脇目もふらずに走り続けて大通りへ出ると、路面電車と人の波が交互に行き交っていた。
すぐさま一番近い停留所を目指して幸は走った。そこには電車が一両止まっており、乗客の乗り降りが終わりつつあった。
まだ間に合う。
まだ間に合う。
心の内で念仏のように唱えながら幸が辿り着くまであと一歩――。
チンッ! チンッ!
発車の合図の鐘の音が鳴る。無情にも電車の扉が閉まり、走り出した。
「お願いです! 行かないでください!」
すがるように右手を伸ばすと、電車の扉が開き、手首を掴まれた。
「こっちへ」
それは、甘い匂いのする少年だった。
ぐいっと手を引っ張られると、咄嗟のことに体勢を崩し、片手で抱えていた本をごとりと地面に落としてしまう。
電車の中に連れ込まれた幸は、本を拾おうと手を伸ばしたが、少年の手がぴしゃりと扉を閉めてしまった。
電車が走り出し、幸と本はロミオとジュリエットのように引き離されていく。置いてきぼりにされた本を拾い上げたのは、あの瓢箪の青年だった。
彼は拾い上げた本をじっと見つめてから、ちらりとこちらを見やった。
その瞳が万物を凍てつかせる寒々しい水色に光ったのを幸は見逃さなかった。
あれは紛れもなく、疑いようもなく尋常のモノではない。
興味本位の聞屋かと思っていたが、人であるかも疑わしい。
しかし青年についての考察は、今の幸にとって些事になっていた。
「いい匂い……」
思わず声を漏らしてしまう。洋菓子の甘い匂いが電車内に充満していた。
甘いものを食べるとささくれた心が少しほぐれるけれど、この香りはそれだけでどんな高級菓子よりも五感に訴えかけてくる。
呼吸をするたび、眠気が増していく。足腰に力が入らず、首が座らない。
脱力感に白旗を上げて、幸は少年の胸に寄りかかった。乗客が大勢いる。こんな場所で女が男に寄りかかるなんて、ハレンチだ、はしたないと、何を言われるか分からない。
しかし誰も幸の行動を咎めなかった。まるでこの世界にいない者として扱っているようである。普段からこれほど無関心でいてくれたらどれほど生き易いか分からない。
「大丈夫。目的地に着いたら起こすから」
それはどこ?
尋ねることは叶わず、幸は微睡に屈して少年に身を委ねた。
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