第3話「お菓子の家」
目覚めた時、幸は円形のテーブルに着いていた。その上には、銀の大皿に山盛りの菓子とティーカップ、それからたっぷりの紅茶が入ったティーポットが置かれている。
菓子はどれも洋菓子だ。ピラミッドケーキ・マドレーヌ・カスタプリン・シュークリーム。名前は知っているが、あまり口にしたことのない珍しい菓子ばかりだ。チョコレートやキャラメルなどのよく見るお菓子もいくらかある。
お菓子を挟んで向かい合う形で西洋人の少年が両手に顎を乗せてこちらを窺っている。
「ここ……は?」
呂律が上手く回らない。何か考えようとしても、思考が頭をすり抜けてふわふわと宙に浮いてしまう。
どうやってここに来たのかすら覚えていない。
そもそもここはどこなのだろう?
部屋の造りは日本の伝統的な物ではなく、西洋建築のそれだ。調度品や壁紙の色はかなり年季が入っており、お菓子と紅茶の匂いに埃とカビの臭気がかすかに紛れ込んでいる。
「あの……あなたは?」
幸が問い掛けると、少年は形の良い薄紅色の唇に微笑を咲かせた。
「僕のことはいいよ。さぁ、お菓子を食べて。君のために用意したんだよ」
「私のため?」
「全部君のだ。さぁ食べてごらん」
少年の声が糸のように幸の手に絡みついてピラミッドケーキへ導いた。樹木の年輪のような形をした円形の生地の外側が真っ白の糖衣でくるまれている。切り株が雪化粧を施されているようだった。
「このお菓子は、僕の故郷の伝統的なものだよ。この国に持ち込んだユーハイムはピラミッドケーキと名付けたけど、本来はバウムクーヘンと言うんだ」
「バウム……クーヘン。木のお菓子……」
一口かじると、上品な甘さとバターの風味が口の中に広がる。奇をてらわない質実剛健な菓子らしい菓子の味だ。
「とても美味しいだろう?」
「はい……美味しいです」
「さぁもっとお食べ。そして話してごらん」
「話す?」
「話したいこと、たくさんあるよね?」
いつ以来だろうか。誰かと向かい合って話をするのは。お菓子をふるまってくれる優しい人に出会えたのは――。
「どうしたんだい?」
温かい雫が頬を伝う。これは何だ?
手で拭い、ようやく幸は理解する。
涙だ。
とうに流し尽くしたと思っていたのに、まだ流せることに驚かされる。
「人に優しくされたの……久しぶりで」
少年の掌が幸の頬に触れた。春の太陽のように温かくて心が安らいでいく。
「大丈夫だよ。僕は傍にいる。どんなことでも受け止める」
それは本当に?
いや、ありえない。
だってみんな離れていってしまったから。
「私にその資格はありません……」
「どうして?」
「だって私は……私は……罪人ですから」
「どんな罪を犯したの?」
封印してきた過去。決して話さないようにしてきた罪。それも焼きたてのお菓子のような彼ならば受け入れてくれるかもしれない。
一縷の望みを見出した幸は、口の中に広がるバウムクーヘンの残り香が消えるのを待ってから語り出した。
◇ ◇ ◇
幸は、神楽
幸福を絵に描いたような裕福な暮らしをしていた。何不自由なく、望んだ物は何でも手に入る。
母親の雪も欧州との人脈が広く、西洋の文化や文学にも大変優れていた見識を持っていた。
これからの時代、女性に必要なのは学問と教養だと考え、様々な文学作品を幸に読み聞かせていた。
「――そうして女の子は、天国のおばあさんの元へ旅立ったのです」
「お母さん……とても悲しいお話です」
雪は、悲しい物語を読み聞かせた後、必ず幸をぎゅっと抱きしめて背中を撫でてくれる。
「ええ。とても悲しいお話ね。でも大丈夫。あなたの名前は幸。幸せという意味よ。あなたは何があっても幸せになれるわ」
「本当?」
「ええ。本当よ」
両親から注がれる一杯の愛情を一身に受ける幸福な日々。
そんな幸せは、幸が満五歳の頃、唐突に終わりを告げた。
「お母さん?」
ことが起きたのは、幸のお気に入りの暖炉の前だった。雪がいつも本を読んでくれた場所。火が爆ぜて薪の割れる音と煤の香りが心地よかった場所。
雪が暖炉の前にうつ伏せに倒れている。けれど顔だけが天井を向いていた。首の皮がねじれており、慈愛に満ちた眼は恐怖の色に染まっている。
雪の亡骸に黒い影が跨っていた。人のようにも見えるが輪郭はなく、はっきりとしない。顔立ちも黒炭のような闇で塗りつぶされており、表情を窺い知ることはできなかった。
黒い影は目も鼻もない顔をすうーっと向けて幸を見やる。
すえたような灰の匂いが幸の鼻腔をくすぐり、漆黒の淀みが揺らいで、にまりと笑った気がした。
幼いながらも幸は理解する。黒い影が母の命を奪い、幸をも害そうとしていることを。
ぞわり、と背筋を悪寒が撫でた。
「お母さん!」
幸が泣き叫んだ瞬間、なんの前触れもなく暖炉の火が膨張し、黒い影に飛び掛かる。火は、まるで幸の激情を糧にするかのように勢いを増し、やがて幸の視界は狂い踊る炎の奔流に包まれた。
住まいの洋館は瞬く間に猛火に飲み込まれ、一晩の内に跡形もなく燃え尽きた。
最後に残されたのは、灰に成り果てた雪と清兵衛、焼け爛れた使用人たちの遺体の山。そして火傷一つ負わず、一人生き延びた幸だった。
「化け物が! 化け物がお母さんを殺したんです! 黒い影がお母さんを! 信じてください!」
目撃した全てを正直に話したが、幸の言葉を信じる大人はいなかった。
両親を失った悲しみで訳も分からないことを言っているのだと、誰もが決めつけた。
結局幸の証言は、精神を傷つけた子供の空想で片付けられた。
それとは裏腹に天涯孤独の幸を引き取ろうと多くの親類縁者が声を上げた。狙いはただ一つ。幸が受け継いだ清兵衛の莫大な遺産だ。
清兵衛には幸一人しか子がおらず、遺言でも幸が相続人として指定されていたため、清兵衛の財産は幼い幸が全て相続した。
清兵衛の遺産を得るには幸を引き取って養子縁組をするしかないとあって、顔を合わせたことのない遠縁すら幸を引き取ろうと次々に群がったが、最終的に幸を引き取ったのは父方の叔父夫婦だった。
叔父夫婦は清兵衛には遠く及ばないが、それなりの資産家である。二人の娘がおり、幸よりも歳上であった。
「化け物なんていないわ!」
「そうよ! あなた本ばかり読んでいるからそんな風に考えるのよ!」
突然できた義理の妹に対して二人は、辛く当たることもあった。それは叔父の態度が大いに関係していた。
「本が欲しいだと!? 金持ちの娘はこれだから困る! 兄さんの遺産は無限じゃないんだ! 化け物がいるなどと言う、お前のようなガキを養ってやっているだけありがたいと感謝しろ!」
叔父は、幸を金蔓としか見ていない。そればかりか幸の死を望んでいる節すらあった。彼に比べれば泥の玉を投げつけたり、髪を引っ張る程度の義姉二人は幾分もマシである。
辛い日々を過ごす幸を支えたのは、継母である光子の存在であった。彼女は幸を実の娘のように愛し、義姉二人が意地悪をした時はきつく叱った。
「幸さんは、あなたたちの妹ですよ! 次に同じことをしたら許しません!」
こればかりではない。光子は、夫である叔父にも幾度となく意見をしてくれた。
「あなたの幸さんの扱いは酷すぎます。お金だって全て彼女の物ですよ」
「お前は黙っていろ! 男のやることに口を挟むな!」
「いいえ。あのお金は、あの子の物です。ビタ一文だって手を付けることは許しません」
元々裕福な家同士の打算的な婚姻。二人には互いに愛などなかった。しかも叔父は幸の父親である清兵衛と比較して商才に乏しく、実質的に家を切り盛りしているのは光子であった。それ故、叔父は最終的に矛を収めざるを得ないのである。
「幸さん。私が本を読んであげましょう。どの本がよいですか?」
光子は、微笑みを絶やさず幸に寄り添い、毎日寝る前に本を読んでくれた。幸の実母の雪と同じく教養のある人で、英語や独語を難なく読めたのだ。
「この本がいいのですね。ではこれを読みましょう――」
叔父夫婦の家で暮らし始めて二年が経った頃。叔父は変わらなかったが、継母の影響か義姉二人の態度は、実の妹に向けるそれに変わりつつあった。乱暴や暴言はなくなり、一緒に遊んでくれたり、光子の読み聞かせに参加するようにもなっていた。
幸福が幸を満たし始めた頃、光子の提案で幸の満七歳の誕生日パーティーが開かれる運びとなった。
光子は幸の実母が幸を満年齢で扱っていたのを知っていたため、叔父の反対を押し切り、わざわざ誕生日を祝ってくれようとしたのである。
そんな中、事件は食堂で起きた。
豪勢な洋食の数々が火の灯された燭台で飾られたテーブルの上に並べられている。それらと共に光子と義姉二人の亡骸がテーブルに乗せられていた。
光子の首は、幸の実母と同じように折られ、ねじ切られる寸前だった。恐怖と絶望に染まった目が天井に飛び散った鮮血を凝視している。
血は義姉二人の物だった。彼女らの遺体はより光子よりも凄惨である。亡骸の至る場所に獣の物と見紛う鋭い爪痕が残されており、目が潰され、手首は断たれ、両足や踵の肉が削ぎ落されていた。
三人の亡骸が横たわるテーブルの傍らに黒い影が一ついる。以前よりも鮮明な姿をしていた。
人の形をしている。女だ。
煤けてしまったみすぼらしい洋服に身を包んでいる。その指先からは鋭い爪が伸び、鮮血で真っ赤に染まっていた。
彼女から仄かに香ってくるのは、すえたような灰の匂い。この匂いは覚えている。忘れるはずもない。雪の亡骸の側にいたあの影から漂ってきたものと同じ匂いだ。
「なんで……」
黒い影は、深紅に彩られた鋭い爪を幸へと伸ばしてくる。やはりこれは、あの時の黒い影と同じモノだ。
どうして幸せを奪いに来るのですか?
どうしてそっとしておいてくれないのですか!?
腹の底で、なにかがふつふつと煮詰まっていく感覚を覚える。
「どうしてここに!?」
幸の鼻先まで爪先が近づいた時、燭台に灯る火が茨のように伸びて幸と影の間に割って入った。炎に抱かれた影は金属を擦り合わせるような悲鳴を上げる。
不快な爆音が幸の聴覚を埋め尽くし、目に映る全てが炎の海に飲み込まれていく。
意識を手放した幸が目覚めた時、そこにあったのは、朝日に照らされる洋館の焼け落ちた残骸と、炭と化した二人の娘の亡骸を抱き、煮詰まった泥のような憎悪を幸へと向ける叔父の姿だった。
「お前のせいだ! 何もかもお前が来たからこうなった! お前が火を点けたんだ!」
これで二度目の火事。あの影を見たのも二度目。偶然とは思えない。あの影がこれまでの不幸全ての原因に違いないのだ。
「違います! 化け物が……化け物がいて!」
「ふざけるな! 貴様が化け物だ! もう金など要らん!」
幸は自らに疑念を抱いた。
何か悪いものを呼び込んでいるのかもしれない。あの影が幸の前に現れたのが偶然でないのなら、あの影の狙いは間違いなく幸だ。
そして独りでに踊る炎。あれは影の起こしたものではない。影の起こした炎なら影自身を焼くはずがない。
あの炎には何か意思のようなものを感じる。まるで影が幸に触れることを許さないかのように。
分からない。
分からない。
幾重にも連なる奇怪な状況は、七歳の幸が受け止めきるにはあまりに巨大すぎた。
「叔父さま……私は」
もうどうしていいか分からない。
叔父に救いの手を伸ばした幸だが、叔父の大きな手は渾身の力で幸の頬を弾いた。
「叔父などと呼ぶな! この化け物め!」
憤怒に歪む叔父の形相よりも恐ろしかったのは、叔父の瞳に映る自身の姿だった。
大火を無傷で生還した幸の瞳は、柘榴石の如き、深紅の光に染まっていた。
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