第4話「躍る炎と水の刃」

 昔を思い出すと涙が止まらなくなる。幸せを与えてもらえたのに、何もかも壊われてしまった。それはきっと幸と無関係ではない。

 叔父夫婦の一件以来、幸は親戚の家を転々とした。今では父が世話になっていた弁護士が遺産の管理を担い、一人で生きている。

 心底ほっとした。一人で生きることに。

 一人でいれば誰も傷つけずに済む。誰も悲しませずに済む。

 両親だって、継母だって、義姉だって、叔父だって、幸と関係を持った全員が被害者だ。


「あの火事は……全部私のせいなんです」


 あの時に見えた影と炎。尋常のものではありえない。

 きっと幸は、何かに取り憑かれている。その何かの狙いは疑いようもなく幸であろう。


「だって私だけ生きてるなんて……きっと私は影と炎に呪われているんです……」


 俯く幸の顔を少年の両手がそっと包んだ。

 温かい。甘い匂いがする。テーブルの上のお菓子と同じ香りだ。


「辛かったんだね。でも、もう大丈夫だよ」


 なんでこんなに心が安らぐのだろう。どうしてこんなにも心がほっとするのだろう。

 安堵してしまっている自分が不気味に思えた。初対面の少年に、自己の存在全てを委ねようとしている。


「さぁこっちへおいで」


 少年が立ち上がり、幸の手を引く。逆らえない。言われるままについていってしまう。

 深淵のような闇が支配する廊下をゆっくりと進んでいく。靴下越しに伝わる床板の感触は、真冬の時みたいに冷たい。

 ふと前を見つめると、廊下の突き当りにある奥の扉から煌々と赤い光が漏れていた。

 少年が扉を開けると、そこは古びた厨房だった。

 長いこと使われていないのか、調理器具の大半が錆びついているが、欧州製と思しきかまどだけは真新しく見え、腹の内に紅蓮の炎を抱えている。

 少年は、幸と手を繋いだまま竈の前で立ち止まった。


「甘いものは食べ飽きたよ。そうだろうグレーテル……」


 少年は、幸を見つめたままそう言った。


「……グレーテル?」

「お前がグレーテルだ」


 グレーテル。どこかで聞いた覚えのある名前だ。


「お前は僕をあいつに食べさせる手伝いをした」


 一体何のことだろう?

 幸には、まるで覚えがない。


「僕を太らせて……太らせて」


 幸の手を握る少年の手が膨らんでいた。皮が張り詰めて肉の塊がひり出そうになっている。

 見る見る内にか細い体躯が天井に届きそうな巨体へ変じていった。

 唇を破って鋭い牙が突き出し、桃色の四肢は巨木のような肉付きをしている。

 シャツは肉の膨張に耐えかねて破れてしまい、ボロボロになった生地が桜の花びらのようにハラハラと床に落ちていく。


 もはや眼前にいるのは、人ではない。人間と豚を組み合わせたような異形がそびえていた。

 それでも幸は逃げ出さなかった。手をしっかりと握られて離れられないのもある。だが心がこの場所を去ることを拒絶していた。

 鼻腔を抜ける芳香が一層強くなっている。

 焼き菓子の匂いが縄のように紡がれて幸の身体に巻き付いてくる。

 甘い誘惑が心を捕らえて離さない。蜜に誘われる蝶もこんな気分でいるのかもしれない。


『ダカラ僕モ、オ前ヲ食ベルンダ!』


 先程まで美しい少年だった醜悪な怪物は、鰐のように大口を開けた。甘い芳香が喉の奥から一層強く香ってくる。

 ああ、このまま食われて死んでしまうんだ。

 不思議と恐怖はない。ただ呆然と己の運命を受け入れていた。

 

 ガチ! ガチ!


 突如、金属のぶつかり合う音が竈から響いた。分厚い蓋がガタガタと揺れている。その刹那、猛り狂う炎の渦が怪物を飲み干した。


『ブオオオオオオオ!?』


 死に損ないの獣のような雄叫びを上げた怪物は、幸の手を開放してバナナの房のような両手で巨体にまとわりつく炎を払った。

 怪物の手が離れたことで甘い匂いが薄れていき、霞に包まれたようにぼやけていた意識が鮮明さを取り戻していく。

 今度は眼前で悶え苦しむ怪物の威容が恐怖となって幸を蝕み、肉体を凍りつかせる。

 何故こんなものを目の前にして平然としていられたのか。数瞬前の自分の心持が信じられない。

 手も足も言うことを聞いてくれない。早く動いて逃げ出さなければ食い殺されてしまうのに!

 そう、今すぐこの場を離れないといけない。怪物が炎に巻かれている今の内に――。


「な、なんでまた?」


 逃げなければならないのにどうしても考えてしまった。

 また幸のいる場所で炎が躍っている。

 窮地に陥るといつも炎が馳せ参じて、手前勝手に暴れまわる。挙句に周囲一帯を焼き尽くして大切なものは全部灰になってしまう。

 やはり神楽幸は、炎に取り憑かれている。

 どこへ行こうと、何をしようと、逃れることを許してくれない。

 大切な存在全てを焼き殺した絶望の赫灼が再び円舞曲を奏でている。


『オ前! 御伽狩リ!?』


 炎を振り払いながら怪物は叫んだ。怪物の青い瞳に映る幸の瞳は、十年前のあの時と同じ柘榴石が如き深紅の輝きを宿していた。


「おとぎ、がり?」


 訳も分からず立ち尽くす幸の鼓膜を流水のような清らかな声が揺らした。


「俺のことかな?」


 突如、幸の左手にあるタイル張りの壁面に網の目状の亀裂が走った。水音を伴って崩れる壁の破片をすり抜けて一人の青年が厨房に飛び込んでくる。

 使い古した束子のような頭。腰から下げた瓢箪。図書館で向かう途中で見かけたあの青年だ。

 青年は、両手で刀を握っている。けれど幸は訝しんだ。刀には色がなかったのだ。白くもなければ黒くもない。刃も巾木も鍔も柄でさえ、全てが無色透明でできている。

 どのような材質を鍛えるとこのような刀が生まれるのか、幸には想像もつかなかった。


『ガアアアアア!』


 地響きのような咆哮を放った怪物が両腕を振り上げた。その轟音に掻き消されて聞こえなかったが、


「顕現せよ――」


 青年の唇が動き、何かの言葉を発していたのを幸は確かに目撃する。

 青年は床を蹴り、怪物の懐に飛び込むと透明な刀を袈裟斬りに振り下ろした。


「すまない」


 切なげな青年の声を合図に、刃で断たれた怪物の腹を起点にして、瞬く間に巨体の芯まで凍てついた。


「弱い……正体を言い当てても重版体の集束反応が見られないし、倒しても〝揺蕩たゆたう力〟の光球に変化しない。初版の文魔じゃないな」


 真っ白な吐息を吐きながら青年が右のブーツを踏み鳴らすと、凍てついた怪物は微細な氷の粒子となって崩れ落ちた。

 粉雪のように結晶が舞い散る中、青年は幸を一瞥すると、飄々と破顔して刀を左手に持ち直し、右手を懐に入れた。


「お嬢さん落とし物だよ」


 懐から取り出したのは、一冊の本。幸が道に落としてしまった図書館の本だった。


「グリム童話の日本語に翻訳されてない原文を読めるなんて、君はすごいね」


 青年が本を差し出す。

 幸はおずおずと両手を伸ばして本を受け取ると、胸に抱きかかえた。

 風体は怪しいし、得物は奇怪。悪人ではなさそうだが、得体が知れないのは間違いない。

 青年の頭からつま先まで舐めるように視線を落とすと、床に何かが転がっているのが見えた。

 青年が切り裂いた壁の残骸ではない。白い棒状の物体である。それが人の骨であると理解するのに要したのは数瞬だった。


「きゃっ!」


 一つや二つではない。おびただしい量の骨が散乱している。


「い、今まで気づきませんでした。どうしてこんなに人の骨がたくさん……」


 幸が散らばった骨を見つめていると、青年は目を丸くしていた。


「驚いたな。こんな光景を見たら普通はもっと怯えるのに、然程動じていないね。もしかしてこういう物を見慣れているのかい?」

「そ、それは……」


 見慣れていると言えば見慣れている。死と隣り合わせの生活だった。自身の感覚が尋常を外れているのだと否応なく思い知らされる。

 年頃の若い娘は、凄惨な現場に出くわすと悲鳴を上げて卒倒する。物語ではそれが定番の役どころだ。

 だが青年は、幸を不気味がるどころか、むしろ強い関心を抱いているようだった。


「すまない。余計なことを言ってしまったみたいだね。取り消すよ」


 青年は、腰から下げた瓢箪の栓を片手で抜くと、もう一方の手に持つ刀の切っ先を入れ口にあてがった。すると刀は硬度を失ってぐにゃりと溶け出し、水音を立てて瓢箪に吸い込まれていく。

 突然怪物と化した少年に、水を刀のように操って戦う青年。御伽話の存在が現実に顕現したかのような一連の光景に、幸の困惑は強くなる一方だ。


「あの……あの男の人は? 人間ではないのですか?」


 幸の問いかけに、青年は右手で顎を撫でた。


「あれは文魔ぶんまだよ。この強さだと重版体の中でも若い個体だね。多分十六版か十七版ぐらいかな」

「……文魔? 重版……十六?」


 それは、なんなのでしょうか? そう問い掛けようとした幸だったが、青年は既に支配の中にいなかった。


「こっちだよ」


 いつの間にか青年は厨房を出て庭に立っており、にこやかに幸を手招きしていた。

 壁に空いた穴から出たようだが、彼がいつ動いたのか、まったく知覚できなかった。


「お嬢さん。文魔について知りたいなら着いてきなさい」

「……あなたに?」

「安心しなさい。こいつみたいに取って食ったりはしないよ」


 怪物となった少年以上の魔力でも持っているのだろうか。それとも人柄か。いずれにしても彼が悪人だとは思えなかった。

 幸は、怪しい風体の青年に招かれるまま、壁の穴をくぐり、一歩外へと踏み出した。

 その選択を祝福するかのように、空に輝く三日月が微笑んでいるように見えた。

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