第26話「覚醒」

 吹雪の中にいる少女は、雑巾にも使わないようなぼろ布の服を纏っている。

 彼女は、震える小さな手で燐寸マッチった。けれど小さな炎が灯っても吹雪によって消えてしまう。

 再び少女は、燐寸を擦る。また消えてしまう。

 擦っては消えて。消えては擦って。何度火が消えても燐寸マッチを擦り続けて火を灯した。

 少女の足元には無数の燐寸マッチの燃えかすが落ちている。何度消されても諦めない。涙の零れる少女の瞳には強い決意の炎が灯っている。

 ようやく幸は理解した。少女の正体を。この場所がどこなのかを。


「そうなんですね。私の魂は、こんなに冷え切っていたんですね」


 御伽の異能テイルセンスは、宿主の魂に宿る。

 少女の正体は燐寸マッチ売りの少女。ここは幸の魂だ。


「どうしてあなたは、こんなにも冷たい場所に居るのですか?」


 幸の問いかけに燐寸マッチ売りの少女は答えない。背を向けたまま燐寸マッチを擦り続けている。


「こんな場所にいる必要はありませんよ。あなたたちは主を自分の意思で選ぶのでしょう?」


 幸には、御伽の異能テイルセンスを振るう資格はない。

 己の心のままに異能を振るい、人を殺めた愚劣な者が持っていい力じゃない。欲望に屈しない気高い心を持つ者が持つべき異能だ。

 少なくともそれは幸ではない。


「ここはあなたのいていい場所じゃありません。もっと他にふさわしい人がいます。その人の元へ行ってください」


 もしも燐寸マッチ売りの少女を藤堂が持っていたら?

 幸などとは違い、平和な世界と人々の安寧のために大いに役立てただろう。

 アリスが持っていても同じであったはずだ。

 あるいは和馬でも構わない。

 誰が持っていても、きっと幸が持つよりも上手く扱えただろう。

 母を失った悲哀に感情を支配されたりしないはずだ。

 怨敵の命を奪うため、それ以外の全てを犠牲にする愚鈍な真似は決してしない。


燐寸マッチ売りの少女さん?」


 何度声をかけても燐寸マッチ売りの少女は動かない。吹雪の中で一心不乱に燐寸マッチを擦り、小さな火を起こし続けている。

 何度火が消されても、構わずに燐寸マッチを擦る。

 少女の足元に燐寸の燃え滓がさらに積み上げられていく。


「ここは寒いでしょう? だからもっと温かい人の魂へ――」


 燐寸マッチ売りの少女は、首を横に振った。かじかんで震える手を懸命に動かして燐寸マッチを擦る。

 寒いのなら他の場所へ行けばいいのに、どうして?

 なぜこんな場所で燐寸を擦り続けるのか?

 物語の展開がそうだから?


 違う。彼女からはそれ以外の強い意志を感じる。

 何らかの決意を迸らせている。

 

 なぜ?


 問い掛けようとした時、燐寸売りの少女が振り返り、幸を見つめてくる。

 蒼い瞳に宿るのは侮蔑か、軽蔑か――否、慈愛である。

 愛する者を見つめる視線。雪や光子が幸に向けていた視線と同じものだった。


「そんな……じゃああなたは?」


 ようやく理解する。少女が燐寸マッチを擦り続けているのは、自分が温まるためではない。凍え切った幸の魂を温めようとしているのだ。


「どうして……あなたは私のために? あんなにひどいことをたくさん思ったのに……」


 燐寸マッチ売りの少女は、幸を十七年間守り続けてくれていた。

 どれほど罵倒されようとも、どれほど疎んじられようとも、極寒の魂の中で燐寸マッチを擦り続けてくれた。

 復讐心に囚われた悍ましい人間のために。

 無価値で愚かな主のために。

 どうしてそこまで尽くせるのか?


「教えてください……あなたはどうして私を?」


 幸の問いかけに、燐寸マッチ売りの少女は花のような微笑みを咲かせた。


「主さまが大好きだから」


 燐寸売りの少女は鈴のような声が幸の鼓膜と魂を震わせた。


「……それだけ?」

「うん。それだけなの。でも私には大切な思い出。主さまが物語の中の私を救おうとしてくれた」


 雪に絵本を読んでもらった時、確かに思った。

 この不幸な運命にある少女に手を差し伸べて助けたいと。

 しかし実際に幸がしたのは、復讐だ。彼女に手を差し伸べるどころか彼女の手を汚してしまった。


 ――違います……私はあなたが思うような人間じゃありません。


「あの時、私は救われたから」


 ――だって、あなたになにもしてあげられていないですよ?


「今度は私が主さまを救いたいの」


 ――私に、そんな価値はありません!


「そう思ったの。だけどごめんなさい」


 燐寸マッチ売りの少女は、幸を見上げる。蒼い瞳には涙の粒が滲んでいた。


「主さまの暗い望みに応えちゃったの。主さまの黒い望みを叶えちゃったの。主さまの心のまま、異能を振るっちゃったの」


 違う。

 異能を振るったのは幸の意思だ。

 幸の抱いた復讐心が異能の暴発を招いてしまった。


「主さまを守るためにも文魔を野放しにはできないから、だから焔を振るったの。でもね……焔は主さまの大切な人まで焼いちゃって……」


 御伽の異能テイルセンスに意思があれど、命じたのは神楽幸の魂である。

 幸が文魔への復讐を選択し、実行させた。ならば罪を背負うべきは主だ。主一人きりであるべきだ。


「違います! 燐寸マッチ売りの少女さんは悪くありません! 全部私のせいで! 大切なモノを燃やしてしまったのは全部私が! 私が殺したんです!」

「主さま、あのまま何もしなくても結果は変わらなかったの。あの文魔は、主さまを殺したら、きっと主さまのお父さまやお屋敷の人たちを――」


 文魔の根幹は人間の暗い感情によって歪められた物語。母を失った幸の絶望を喰らった文魔が幸や雪を殺すだけで満足したか?

 幸の父である神楽清兵衛や屋敷の使用人を手にかけない保証はない。和馬に殺されて復活し、力を増した『黒猫』の文魔がそうであったように、暴走してあらゆるモノを殺し、壊そうとした可能性は否定できない。

 燐寸マッチ売りの少女が言わんとする理屈も分かる。でも、やはり自分を許せない。

 自分を主と呼び尊敬してくれる者に罪をなすり付け、我が身可愛さに現実から目を反らし続けた人間に御伽狩りである資格はない。


「主さまなんて……呼ばないでください。私にはあなたと一緒に居る資格なんてありません……」

「主さま――」


 燐寸マッチ売りの少女は、力強い眼差しで幸を貫いた。


「主さまは、私が主と認めた人なの。あなたは誰より優しく賢く勇気がある人なの。だからこそ主さまはやらなくちゃいけないことがあるんだよ?」

「……やらなくちゃいけないこと?」

「大事な人を守ること」

「藤堂さん……アリスさん……」

「昔の主さまと私には、あの文魔に対抗する力はなかったの。だけど今は違うの。今の主さまと私なら、きっと守れるの」


 燐寸マッチ売りの少女は幸に歩み寄ると、燐寸マッチの火を灯した。


「ああ――温かい」

 

 なんて温かい火なのだろう。

 火がこんなにも安らぎを与えてくれるなんて知らなかった。

 揺らめく火の中に見えるのは、二人の母親たちと過ごした幸せな日々。

 藤堂やアリスと出会ってからの幸せな日々。


 そうだ。


 もう二度と自分のように、文魔によって悲しい思いをする人を生み出してはいけない。


 そうだ。


 大切な人に約束した。絶対に無事で帰ると。だから幸には藤堂と共に生きてアリスの元に帰る義務がある。


 そうだ。


 文魔が人の黒い感情によって変じたモノなのだとしたらあるべき形がある。藤堂も文魔を封印する時、言っていた。あるべき姿(ものがたり)にかえれと。

 文魔たちもまた被害者なのだ。あるべき形を忘れてしまったモノ。人の心が歪めてしまったモノ。ならば思い出せてやればいい。

 だけど今更許されるのだろうか?

 御伽の異能かのじょと共に戦いたいと願うことは。


燐寸マッチ売りの少女さん、ごめんなさい……こんなに寒い場所に一人きりにしてしまって……全部あなたのせいにしてしまって」


 幸の犯した罪を御伽の異能テイルセンスに背負わせることだけはしてはいけない。

 彼女が選んでくれからこそ、御伽狩りとしてこの一線だけは譲れない。


「ごめんなさい……遅くなってしまってごめんなさい!」


 こんな寒い場所に一人きりで十二年も苦しめてしまった。

 孤独を味わわせてしまった。

 御伽の異能テイルセンスの主として失格だ。


「それにわがままでごめんなさい!」


 今更力を借りようなんておこがましいにもほどがある。

 だけど一人では無理だ。

 大切な人を守るためには、彼女の異能ちからがどうしても必要なのだ。


「私は藤堂さんを助けたい! 私を助けてくれた人を助けたい! 今更こんなこと言うなんて身勝手だけど……」


 許されなくてもかまわない。それでもこの一瞬だけ、今だけは力を貸してほしい。身勝手でわがままな主だけどそれでも大切な人を守るための力が欲しい。


「あなたの力を貸してください!」


 幸が手を伸ばすと、燐寸マッチ売りの少女の手の中でゆらゆらと揺れていた燐寸マッチの火が消えてしまう。


「……やっぱり駄目ですよね? 許されないですよね」


 燐寸マッチ売りの少女は、燃え尽きた燐寸マッチを落として幸に手を伸ばした。


「私はどこまでも主さまと一緒なの。主さまの罪は私の罪。ずっと一緒に背負って、ずっと一緒に戦う。それが私の……御伽の異能テイルセンスの幸せ。これからもずっと一緒なの」


 燐寸マッチ売りの少女は、太陽のように眩しい笑顔を浮かべて頷いた。

 二人が手を握り合った瞬間、燐寸マッチ売りの少女は巨大な炎と化した。

 炎は、幸の心に積もった雪を溶かし、どこまでも広がっていた闇を打ち払った。

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