第19話「破滅の襲来」

 神楽幸は、藤堂逸気と共に渦巻くように吹き荒ぶ風の隙間をい潜り、凌雲閣に辿り着いた。そこは、悲鳴と鮮血に支配されていた。

 騒ぎの中心にいるのは右目の潰れた黒猫だ。それは熊よりも巨大な体躯を有し、さらには全身の皮の至る部分を食い破って麻縄が飛び出している。

 黒猫の周辺には、三名の男性の亡骸が横たわっていた。三名とも首が折られているばかりか、刀傷のように深く鋭利な爪痕が全身に刻まれている。

 昨日とは比較にならない醜悪な姿に、幸は息を呑んでいた。


「こ、これが復活した文魔……」


 黒猫の胸の毛にある白い斑点のような模様が戦慄わななくと、麻縄は意思を持っているかのようにうねりながら逃げ惑う人々の首を絞め上げんと凄まじい速度で駆け抜けた。

 常人であれば知覚不可能な速攻。だが幸と藤堂の視覚は、麻縄の動きを正確に認識していた。


御伽の異能テイルセンス! 村雨!」


 藤堂が瓢箪ひょうたんから振るい抜いた村雨を掲げると、大気中の水分が麻縄にまとわりついた。


第二頁ネクストページ!」


 透き通る刀身から発せられた冷気は強風に乗って一帯を支配し、麻縄に絡む水は急速に凍結。四方八方へ伸びた細い流水がイバラ状の氷を形成し、うごめく麻縄を絡め取り、動きを封じた。

 しかしそれも数瞬のこと。すぐさま麻縄の膂力の前に氷は破砕され、自由を取り戻した死の群れが再び躍動する。


「なんて馬力だ!」


 足止めに特化した藤堂の第二頁ネクストページでも押し留められない。封印せずに復活した文魔はこれほど力を増してしまうのか。

 驚嘆きょうたんが先に立ち、戦意が抜け落ちてしまった幸に、藤堂の声が突き刺さった。


「幸さん! やつの強制顕現を!」

「は、はい!」


 ほうけている暇はない。一刻も早く封印しなくては無用な被害が広まってしまう。

 あの時、決断を躊躇して封印し損ねてしまったせいで、黒猫の文魔は力を増した。

 同じ失態を二度もするわけにはいかない。

 憎悪に身を任せ、罪なき数多の命を奪わんとしている文魔をあるべき姿ものがたりに戻すのが御伽狩りの使命なのだ。


「顕現せよ!」


 幸の声が届くより速く、麻縄が一人の男の首に絡みついた。復活前ですら男性の首の骨をたやすく砕き、御伽狩りの幸ですら絞め落とされかけた怪力だ。

 あの時よりもはるかに強力になった麻縄であれば首にかかった瞬間、相手を絶命せしめるだろう。


「エドガー・アラン・ポーの――」


 幸の声が黒猫に届き、かの者を強制的に顕現させ、さらにとどめの一撃を幸か藤堂のいずれかが加えて封印する。

 だが届かない。幸の声はまだ黒猫に届いていない。

 音は想像を絶する速度のはずだ。しかし黒猫の操る麻縄は、その遥か上を抜く速さである。


 ――このままじゃ間に合いません!


 また守れないのか?

 また役に立てないのか?

 また目の前で人が死んでしまうのか?


 幸の絶望を貫くように、金色の閃光が駆け抜け、黒猫の残った左目を穿った。

 灼熱の鉄板の上で踊る魚のようにもだえ苦しむ黒猫に突き刺さっているのは、人の身の丈ほどもある金色の投げ槍だ。


「あれは……御伽の異能テイルセンス髪長姫ラプンツェル!?」


 驚愕する幸の目の前で黒猫は、突如糸が切れたように動きを止めた。


「昨日僕が言ったとおりになったな。封印するなら人的被害を出さないようにしろ」


 逃げ惑う人々をかき分けて的場和馬が姿を現した。その瞳に宿るのは藤堂へ向けられた強い軽蔑の念だ。


「そうでないなら逸気さん、あんたのやり方は単なる傲慢だ」


 藤堂は、口をつぐんでいた。

 対して和馬の語気は、強くなっていく。


「あんたが偉そうに言ったところで現実はこれだ! 見ろ! 三人が犠牲になった! それが四人になる所だった! あんたのやり方は人の命を救えない!」


 和馬の言い分にも一理ある。

 現実が伴わない理想は、性質の悪い毒だ。理性を腐らせて正常な判断力を奪い去る。

 和馬が駆け付けなければ、多くの犠牲者が出ていたかもしれない。それは否定できない事実だった。

 だとしても、幸は和馬の論理を承服しかねていた。


「和馬さん……」


 こうなった原因は藤堂にある?

 違う。こうなった原因は昨日正体を突き止められなかった幸と封印せずに殺してしまった一馬の二人にある。


「昨日の段階で黒猫の文魔を封印していれば、今日の事件は起こりませんでした」

「っ! 素人が口を挟むな!」

「間違っていることに、素人も玄人もありません!」


 黙っていられない。ここで黙っているわけにはいかない。

 心の中に沸き立つ感情を声にせずにはいられなかった。


「昨夜あなたが私とアリスさんを助けてくださったのは事実です。感謝しています。ですが文魔を殺すのではなく、みんなで協力して封印していたら今日の被害はなかったんです!」

「僕がいなければ、お前も含めて大勢が死んでいたんだぞ!」


 和馬が昨夜黒猫の文魔を殺さなければ幸とアリスが殺されていたかもしれない。

 今日和馬が殺さなければ、多くの人が死んでいたかもしれない。

 しかしそれは、眼前の死を回避する代わりに、際限なく膨張していく死を翌日へ先送りしているにすぎないのだ。


「今日、ここで亡くなった人たちを殺したのは私でもありますが、あなたでもあります!」

「なんだと!?」


 声を荒げる和馬に、幸は怯まない。ここで怯んでしまったら藤堂やアリスと共にある資格を失う。そんな気がした。


「あなたが文魔を殺さなければ少なくとも今日ここで亡くなった三名の人たちは命を落とさずに済みました。その事実はあなたも理解しているかと思います」

「ふざけるなよ! 僕は!」

「復讐心に囚われて自分を見失っているようにしか見えません!」

「お前に何がわかる!?」


 気持ちなら痛いほど分かる。

 何故なら――。


「私は……家族を自分の異能で殺してしまいました」

「な、何!?」


 狼狽する和馬に、幸は畳みかける。


「母を殺した文魔が私にも襲い掛かってきて……文魔を倒すために御伽の異能が暴発して父や使用人たちを……」


 己の犯した拭いようのない罪を。

 決して許されることのない咎を。


「私は、私の異能で多くの人を焼き殺してしまいました。だから家族がいない辛さなら理解できます」


 和馬の稲妻のように刺々しい苛立ちが薄らいでいく。幸の言葉が真実であることを本能的に察しているようだった。

 代わりに生じたのは、同類へ向ける同情と共感だ。


「なら分かるだろう? お前だってこいつらに復讐したい気持ちが――」


 痛いほどによく分かる。

 幸だって、二人の母の仇となる文魔を前にしたら冷静ではいられないだろう。激情に任せて復讐に走るかもしれない。

 でも感情に任せた行動がいい結果を生むとは限らない。


「だけど殺すだけじゃダメなんです! 封印しない結果がこれなんです! これじゃあ終わりませんよ!」

「元々終わらない話だ」


 和馬は、柔らかな口調で言い聞かせるように音を紡いでいく。


「人間が存在し続ける限り、物語は紡がれていく……どう足掻あがこうと人間は物語を、いや神話や神にすがらずに生きていくことはできない。そうやって人間が神話や物語を語り継ぐ限り、文魔は存在し続けるのだ」


 終わりの見えない絶望的な戦いだとしても、最善を尽くすことを放棄したくない。


「だけど私は! それでも私は諦めたくは!」


 幸の声を断ち切るように、黒猫の亡骸から黒い粘土状の力場が迸るように立ち上った。

 殺しきれていない! 和馬は仕損じたのか?

 すかさず黒い力場は、幸目掛けて飛び掛かった。


 突然のことに幸の肉体は臨戦態勢を整え切れていない。完全に虚を突かれてしまった。

 藤堂と和馬は、迎撃態勢を取りつつあるが、力場が幸に辿り着く方が一手速い。


 だめだ! 間に合わない!


 黒い力場が迫る速さは、麻縄の比ではない。けれど幸の視覚は、時間が圧縮されたかのように緩慢な動作に感じていた。


 ――私は、ここで死ぬの?


 死を前にした時、人間の感覚は研ぎ澄まされ、死を逃れる手段を探すという。それが走馬灯と呼ばれるものの正体だと本で読んだことがある。

 生憎と今回の走馬灯は空振りに終わりそうだ。いくら感覚が鋭敏になっても幸の動きが速くなるわけではない。

 常人を超越した身体能力をもってしても、黒い力場の追撃は躱しきれるものではない。甘んじて直撃を受ける以外の選択は残されていないと悟った。


 自らの死を覚悟した幸の背後から、


 ぬるり――。


 と、すすけた少女の手が二本伸びた。


 圧倒的な早業で少女の手は、黒い力場をがっしりと掴んで受け止めた。黒い力場は捕らえられたウナギのようにぬたぬたとうごめいている。


「な、何!?」


 幸が振り返ると、そこにいたのは灰に塗れた少女だった。

 灰と煤で汚れた洋服に身を包んでおり、生地の破れた部分から見える皮膚は焼けただれ、炭化し、火の粉が爆ぜている。

 異形の少女は、あんぐりと口を開けて捕まえた黒い力場に黄色い歯を突き立てた。

 ザラメ糖をかじるような音を響かせながら少女は黒い力場を食していく。


 何が起きているのだろう?

 これの少女は一体?

 分からない。分からないけど何故だが胸がざわつく。心が怯えている。魂が震えている。

 幸は後ずさりながら少女と距離を取り、藤堂の隣に立った。


「と、藤堂さん、あれは……あれは一体!?」

「幸さん、あいつは文魔だ!」


 文魔の少女の両のまぶたから溶けた肉の筋がぶら下がっている。

 漆黒の二つの虚が幸と藤堂を見つめた直後、地面を砕かんほどの踏み込みで和馬が飛び出した。


「和馬! よせ! そいつは!」


 藤堂の制止も聞かず、和馬は髪長姫の槍を繰り出した。雷光と見紛う速攻。先端速度は大気を打ち抜き、音速の領域に寄り添いうる。

 尋常の生物であれば不可避且つ致命の一撃。しかし槍の先端が文魔の少女に届くことはなかった。


「何!?」


 少女の人差し指と親指は、槍の先端をがっちりと掴んで離さない。和馬が押しても引いても槍は微動だにしない。


「この化け物めっ!」


 和馬が両腕に渾身の力を込めた瞬間、少女の文魔は指を離して槍の先端を開放した。

 突然のことに和馬はつんのめり、体勢を崩した。


「和馬!」


 藤堂の叫びが届くよりも速く、文魔の右腕が和馬の鳩尾を打ち抜いた。


「ぐあっ!?」


 夥しい血が噴水のように吹き出し、地面に血だまりを作っていく。

 文魔の少女が腕を引き抜くと、支えを失った和馬は、その場に倒れ伏した。


「か、和馬さん!?」


 幸と藤堂が和馬に駆け寄ろうと、足を踏み出した瞬間、文魔の少女は幸を一瞥いちべつした。

 妙な既視感が脳裏を走り、足が止まる。

 藤堂も幸の反応を訝しんだのか、村雨を構えつつ接近を断念した。


「幸さん?」


 あの文魔の姿にはどこか見覚えがある。一体どこで出会ったのか?


「この文魔は……」


 思い出すのはあの時、あの光景。


「あれは、お母さんが亡くなった時……継母さまが亡くなった時……傍にいたあの――」


 文魔の少女が両手を振るい上げて泣き叫ぶと、呼応するかのように大地がうなり声を上げた。


 凄まじい地揺れは、慈悲などかけらもなく家屋を次々に薙ぎ倒し、凌雲閣りょううんかくまでもが音を立てて崩れていく――。


 大正十二年九月一日。


 午前十一時五十八分。


 後の歴史で関東大震災と呼ばれる大災害の発生である。

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