最終章『居場所』

第20話「関東大震災」

 帝都でも指折りの栄華をほしいままにしていた浅草六区は、一瞬で崩壊した。

 今ここにあるのは、人々の営みによって生み出される賑やかさではない。死という概念が嵐のように吹き荒んでいた。

 あらゆる家屋が倒壊し、地平線の先まで広がる破壊の爪痕のあちらこちらから悲鳴と絶望の協奏が強風に乗って空へと舞い上がっている。


「子供が下敷きになったんだ!」


 そこからも。


「こっちも助けてくれ!」


 あそこからも。


「お母ちゃん! お母ちゃんが!」


 ここからも。


「誰でもいいから手を貸してくれ!」


 突如帝都を襲った天変地異に木造建築や煉瓦の壁は為す術なく、それは浅草の象徴であった凌雲閣も例外ではなかった。


凌雲閣りょううんかくが!」

「なんてこった……」


 天高くそびえていた凌雲閣は、八階から上の部分が崩れ、炎と黒煙にくるまれている。

 変わり果てた凌雲閣を人々は呆然と見上げるしかなかった。

 そして被害は、家屋の倒壊に留まらない。


「おい! こっちも燃えてるぞ!?」

「あそこからも火が!?」

「どんどん燃え広がっているぞ!」


 地震の発生はちょうど昼時。昼食の用意をするにあたって各家庭の台所で火を扱っていた。その火が火種となって瓦礫の木材を焦がしていたのだ。

 さらには七輪やかまどから零れた火の粉を強い風が巻きあげて瓦礫と化した家屋に降り注いでいる。

 瞬く間に火種は火となり、火の手は燃え広がり、やがて炎へと昇華。浅草に紅蓮の影が忍び寄りつつあった。


 眼前に広がる瓦礫の山を見つめたまま、幸は立ち尽くしている。

 実母と継母を殺した文魔の少女。

 彼女が幸の背後から現れて以降の記憶が抜け落ちている。


 何があったのか?

 何が起きたのか?


 瓦礫の下敷きとなった人々。

 強風に巻き上げられる火の手と煙から逃げ惑う人々。


 この地震は、破滅の合図なのか?

 世界が突如、終末を迎えたのか?


 だとすればこの状況にも納得がいく。

 倒壊した瓦礫を上塗りするように、火が連なって炎となる。炎が連なって死が産み落とされる。

 やっぱり火は破壊しかもたらさない。

 炎は全てを焼き溶かし、最後に残るのは灰と塵。


 もしかしたら幸が今見ている光景は現実ではないのかもしれない。そう思いたかった。夢か幻ならよかったのに。

 だって、まるでここは絵に描いたような地獄ではないか。

 これが現実であるのだと認めることを幸の理性は拒絶していた。


 あるいは、これが神楽幸に与えられた罰なのだとしたら?

 ここが死後の世界で、所謂地獄なのだとしたら?

 文魔の少女が背後から現れて以降の記憶が曖昧だ。

 もしかしたら、あの文魔に殺されてしまったのかもしれない。

 文魔を食べるような文魔だ。抗う間もなく殺されることもあり得るだろう。


「そうですか……私はきっと文魔に殺されて地獄へ落ちたのですね」


 そうであってほしいと願った。そうであってほしかった。

 眼前の光景が現実だと受け入れるより、死んでしまったと考える方が楽に思えた。

 しかし世界は個人の思い通りになるほど優しくはない――。


「違うよ、幸さん」


 背後から聞こえた藤堂の声が幸の願いを否定した。

 藤堂が命を落としたとして幸と同じ場所に来るはずがない。地獄に来るはずがない。

 幸と藤堂が同じ場所にいる事実が、この世界が現実であるのだと知らしめる。


「藤堂さん……」


 幸が振り返ると、和馬が倒壊した家屋の棟木を枕にして横たわっていた。

 文魔に与えられた傷は、致命傷だ。鳩尾には、蜜柑大の空洞が穿たれており、そこから止めどなく鮮血が流れ続けている。

 加えてこの状況では病院に連れていくこともできない。


「逸気……さん」


 虚ろな瞳に廃墟を映して和馬が呟いた。


「これ……僕のせいか?」


 ひゅー。

 ひゅー。

 声を発する度、小さな風鳴のような呼気が和馬の口から洩れた。


「僕が文魔を……殺したせいなのか? そうか……僕は、家族のところへはいけないな……」


 藤堂は和馬の左肩に手を置き、強く握りしめた。


「違うよ。君のせいじゃない」


 まるで我が子をあやす父親のように、微笑みかける。


「ちゃんと行けるよ。家族のところへ」

「そう……か……」


 和馬の呼吸が弱々しくなっていく。

 幸は理解していた。

 十七年間の人生で、死を身近に置き続けてきた。だからこそ分かる。

 堪えがたいであろう苦痛の色がみるみる内に解けていき、心地良さげな蕩けそうな目をしている。

 生き物は、死の淵が近づくほど、安らかな表情を浮かべる。苦痛を生み出すあらゆる感覚から解き放たれ、最後にあるのは安楽だ。

 傷を癒せる異能を持っていれば和馬の命を救えるかもしれない。だけど手の内にあるのは万物を焼き滅ぼす忌むべき異能。

 藤堂の友人を黙して見送る以外、幸にできることはない。


「家族のところへ……行けたら、だったらいいなぁ……」


 すぅーと呼気を吐き出しきった和馬の顔に残されたのは、まだ少年らしさの残る穏やかな面差しだった。


「おやすみ和馬」


 藤堂は、和馬の瞼をそっと閉じてから合掌し、弔った。

 立ち上がった藤堂は、幸と向き合った。


「幸さん、行こう」


 真っ白な無表情で藤堂は言った。

 友を失った悲しみは浮かんでいない。でも藤堂はまぶしいぐらいに優しい人だ。頭をすぐに切り替えられたわけがない。

 きっと自分が今すべきことを見据えているのだ。悲哀の情を懸命に押し殺して。


 しかし、幸には立ち尽くすしかできない。

 行動しようにも考えてしまう。一体何が起きて、どうしてこうなってしまったのか、そんなことばかり考えてしまう。


「藤堂さん、何が……起きたんですか?」

「俺にも分からない」


 表には出していないが、藤堂も内心強く動揺しているのが感じ取れた。


「地震が起きたのは確かだけど、それが自然に起こるべくして起きたのか。文魔が起こしたことなのか。いずれにせよ、この状況は現実なんだ」

「これが現実なんですか? 本当にこんなことが……」


 浅草を薙ぎ倒した大地震。一体どこまでこの破滅が広がっているのか?

 何名の命が今この瞬間に失われ、これから失われていくのだろうか?

 あの地響きがまだ残っているかのように足が震えてしまい、立っているのがやっとだ。


「私は……信じたくないです。この風景が、これが現実だなんて……絶対に」


 もしもこれが現実だとしたら、浅草六区は壊滅的な被害を被ったことになる。


「夢じゃないなら……現実なら……」


 凌雲閣りょううんかくを含めて無事な建物を見つける方が難しい。文字通り、建物が根こそぎ倒壊している。

 そうなれば当然の如く――。


「……藤堂さんの事務所は?」


 自問の答えはすぐに出た。無事で済んでいるはずがない。しかも事務所にはアリスがいる。

 いくら御伽狩りとは言え、戦闘を得意としておらず、体格の小さいアリスが瓦礫の下敷きになればどうなるか――。


「藤堂さん! アリスさんが!」

「うん。急ごう!」


 事務所へ向かうべく踵を返そうとした瞬間、思い出したように幸は和馬の亡骸を見やった。


「で、でも和馬さんは?」


 藤堂は、和馬の亡骸に背を向けていた。


「……置いていく」

「で、ですけどここに置いていったら!」

「彼は、もう息を引き取った。冷たい言い方だけど、彼の亡骸は……荷物にしかならない。だから置いていく!」


 ――藤堂さん!


 吐き出しかけた言葉を飲み込んだ幸は、唇を結んで藤堂の手元を見た。固く握りしめた拳から血が滲んでいる。

 藤堂は、誰よりも和馬の死を悼んでいる。彼の亡骸を連れていけないことを一番悔やんでいるのは藤堂だ。

 御伽狩りの超人的な身体能力でも、大柄の和馬を抱えていては足も鈍る。

 素早く動けなくてはアリスの救出に間に合わなくなる最悪の事態も想定し得る。

 死んだ者より生きている可能性のある者を優先する。当然の理屈だ。

 ここで幸が心を揺らしても、藤堂を困らせるだけだ。


「はい……行きましょう」


 幸と藤堂は、全速力で走り出した。最大速力は地上のあらゆる生物の追随を許さず、汽車ですら容易く追い抜いてしまう。

 人智を超越した俊足は、本来人の目を集めて仕方ないはずだが、周囲の人々は我がことに精一杯で超人的な所業に目を奪われている暇はなかった。

 幸と藤堂が駆け抜ける浅草の街並みは一変してしまったが、残骸と化した凌雲閣が未だに方角を教えてくれる。

 大丈夫。どこの方向に行けば事務所があるのか分かる。


 アリスはまだ事務所にいるだろうか?

 それとも地震が起きてすぐに逃げただろうか?


「アリスさん! お願いだから無事でいてください!」


 亡き二人の母に祈る。神にも仏にも祈る。

 叶えてくれるなら他には何も望まない。

 アリスとは、長い付き合いではないかもしれない。だけど過ごした時間の密度は、実の姉妹にだって負けない自負がある。

 一緒に本を読んでカルピスを飲み、お菓子を食べて膝枕だってした。

 血は繋がっていなくても幸にとってアリスは本当の妹のように大切な存在だ。

 だから――。


「お願いです! 私からアリスさんを奪わないでください!」


 幸の懇願が廃墟に木霊した。

 そして目的の場所に――幸の大切な人がいる、大切な居場所に辿り着いた。


「アリス……さん?」


 かつて藤堂探偵事務所があったはずの場所は瓦礫の山と化していた。

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