第21話「壊れた居場所」

 藤堂探偵事務所。かつてそう呼ばれた幸の居場所は無残な瓦礫と化していた。

 煉瓦れんがや木材の破片と一緒に無数の本が散らばっており、ぱちぱちと火の粉が爆ぜて燃えている。

 探偵事務所だけではない。芝居小屋も浅草オペラも電気館も、浅草六区という空間を構成していた全てが残骸に姿を変えている。

 人々の雑踏の巻き起こす風に揺れていたのぼりの群れは見る影もないぼろ布と化し、逃げ惑う人々に踏みつけにされていた。

 変わり果てた大切な居場所に心が揺れる。零れそうな涙をまばたきでまぶたの裏に押し込んで幸は叫んだ。


「アリスさん! 聞こえていたら返事をしてください!」


 群集の悲鳴で幸の声はかき消される。今度は藤堂が声を張り上げた。


「アリス! 返事をしてくれ!」

「アリスさん! そこにいるんですか!?」


 人生でこんなに大きな声を張り上げた経験はない。自身の声の振動で喉が裂けそうになる。それでも構わない。喉なんか潰れてもいいからアリスを奪わないで欲しい。ただひたすらに願いながら声を上げ続けた。


「アリスさん! アリスさん!」


 もう二度と声が出なくなったっていい。自身が出し得る最大限を!

 幸が肺一杯に空気をため込むと――。


「幸……藤堂……」


 瓦礫の中から小さな声が確かに聞こえた。


「アリスさん!」

「アリス!」


 幸と藤堂は、獲物にむしゃぶりつく野良犬のように瓦礫へ飛び付き、煉瓦や木片をかき分けていく。常人の力であればびくともしない瓦礫も幸と藤堂の膂力ならば容易く撤去できる。超人的な身体能力に今日ほど感謝した日もない。

 鬼気迫る二人の救助の様を逃げる群衆のいくらは目の端に捉えているようだったが、手助けを申し出る者はいなかった。

 彼等を責める感情は、幸の中に微塵もない。己とその家族の命を一番に考え、災禍から逃れるのはあらゆる生き物が持つ本能だ。

 幸も彼等と全く同じだ。他者に意識を割く余裕はない。全神経を両腕に集中させてアリスの無事を願った。

 二人は瞬く間に煉瓦や木材、本の積みあがった瓦礫を撤去し、ついにアリスの姿を見つけた。


「アリスさん!」


 鏡を抱きしめてうずくまるアリスを抱き起こした幸は、顔と衣服についた土埃をそっと払った。

 汚れてはいるが目立った外傷はない。呼吸もしている。けれど目を閉じたままで微動だにしない。


「アリスさん! 聞こえますか!? 痛いところありますか!?」

「アリス! 聞こえているね? 俺たちの声が聞こえているね?」

「聞こえてる……痛いの大丈夫」


 ぐったりとしているが、瞳孔はしっかりしているし、声も明瞭だ。医者ではないが、ひとまず安心と判断してよいように思えた。


「さすがアリスだ。よく生き延びたね」


 藤堂は、満面の笑顔でアリスの頭を撫でた。心地よいのか、アリスは子猫のように目を細めている。


「アリスさん……良かったです……本当に」


 アリスは、愛くるしい笑顔を幸に向けた。


「私だって御伽狩り……これぐらいなんてことない」

「はい! アリスさんはすごいです!」


 アリスが無事でいてくれて本当によかった。それだけでも天にも昇る幸福だ。

 このまま安堵に浸り、再会を祝したいところだが、迫りつつある火の手がそれを許してくれない。


「幸さん、アリスは俺が」

「は、はい!」


 藤堂がアリスを抱きかかえるのを待ってから、幸は歩き出した。

 御伽狩りが常人よりも頑丈とは言え、長時間炎の中にいて大量の煙を吸ってしまったらさすがに無事では済まないだろう。

 もちろん幸一人だけなら話は別だ。燐寸マッチ売りの少女は炎を操れるし、幸自身これまで二度、火事の現場から生還している。試したことはないが、自分の周囲に火が近づかないようにすることも可能なはずだ。

 しかしあくまでそれは幸一人だけの場合である。負傷しているアリスが長時間こんな場所にいたらまいってしまう。


 逃げ惑う群衆をかき分けて進もうにも人の密度が凄まじい。幸と藤堂が全力を出せば押しのけるのは容易だが、それでは無用の混乱が生じ、ひいては怪我人を出してしまう。

 今すぐにでもアリスを安全な場所に連れて行き、治療を施したい気持ちをぐっと堪えて、幸と藤堂は互いに離れないようにしつつ、人波の流れに身を任せた。

 一方のアリスは、藤堂の胸の中で鏡を見つめていた。ひび割れた鏡面に、上野公園と思しき地図が浮かび上がる。


「ここへ逃げれば大丈夫……この火災はもっとひどいことになる。そんな予感を私の異能が教えてくれる」


 アリスの鏡が映し出すものは、必ずしも正確であるとは言えない。けれどアリスの予感に、幸は確信めいたものを感じずにはいられなかった。


「もっとひどくなるって……どうなるんですか?」

「帝都は……帝都は……」


 問い掛ける幸に対して、アリスは言い淀んでしまった。


「アリス……さん?」


 やはり応答はない。

 口を噤んでしまっている。


「教えてください。何が起きるんですか? 帝都はどうなるんですか?」


 しばらく沈黙した後、アリスは幸から目を背け、声を絞り出すようにして言った。


「……帝都は、ほとんど焼かれてしまう」

「そ……そんな……」


 だからアリスは言いにくそうにしていたのだ。やはり炎が成すのは、破壊だけだから。幸が気にするのを分かっていたから。

 倒壊を免れた僅かな建物すらも、いずれは広がる火の手の内に落ちて灰となるだろう。

 以前藤堂が話したように、火が何かを生み出すこともあるかもしれない。けれど幸のそれは違う。帝都を焼く炎と同じ、何も生み出せない破壊の象徴だ。


 藤堂探偵事務所で過ごした時間は、幸にとって掛け替えない思い出であり、大切な居場所だった。

 ほんの数時間前までそこにあったはずの宝物は地震によって崩れ去った。いずれは残骸までもが火災に飲み込まれ、後に残るのは一掴みの灰だけだ。

 瓦礫に埋もれた数多の本だって、本当なら全て安全な場所に運んであげたいけれど、とてもそんな余裕はない。

 アンデルセン童話の空飛ぶかばんみたいに、本を詰め込んで空を飛べたらいいのに。


 ――そういえばあの物語も。


 ある商人の息子は、父親の遺産で豪遊三昧。遺産を全て使い尽くして途方に暮れていた時、友人から空飛ぶかばんを贈られる。

 商人の息子は、かばんに乗ってある国のとても高い塔に暮らすお姫様の元へ向かい、婚約をした。

 嬉しくなった商人の息子はお祝いのために花火を上げたが、花火がかばんに燃え移り、空を飛べなくなってしまう。

 商人の息子は、高い塔にいるお姫様の元へ行くことはできなくなり、お姫様は死ぬまで商人の息子を待ち続けたという――。


 あの物語も火が商人の息子とお姫様を引き裂いて不幸にしてしまった。

 ヘンゼルとグレーテルに登場する魔女は、竈の火で焼き殺されたし、白雪姫を亡き者にしようとした王妃も焼けた鉄の靴を履かされて、死ぬまで踊り狂うこととなった。

 悪を焦がし、罪を燃やし、灰とする。いつだって炎は、罰の象徴であり、人々の恐れの顕現でもあった。

 

 これは神楽幸に対する罰なのか?

 人の命を奪っておきながら幸せになってしまった罰なのか?

 だとしたら幸一人が不幸になればよかった。

 大切な人を巻き込んでしまうぐらいなら一人で居続けてもよかった。


 罪を浄化する炎はあれど、今幸の背後から迫るそれはきっと違う。これは罪なき者を焼く炎である。

 倒壊した建物の下に逃げ遅れた人が大勢いるはず。なのに、彼等を救えるだけの力が幸にはない。炎を操る異能であれ、炎を消す力ではないのだ。

 炎を操作して瓦礫から遠ざけようにも火元が広範囲且つ複数ある現状では、幸一人の力で対応するのは難しい。


 藤堂の村雨でも、帝都全体を焼き尽くしかねない火災の前では焼け石に水だ。

 群れを成して襲い来る炎の軍勢から逃れるように、人々は津波のように連なりながら走っている。

 幸とアリスを抱く藤堂も、はぐれないようにするので精いっぱいだ。


「藤堂……文魔は倒せた?」


 アリスの問いに、藤堂は唇を噛んだ。


「いや、黒猫は封印し損ねたし、新手が出てきたんだ。そいつはまだ野放しだよ。まずいことになった」

「……うん。この状況はまずい」


 藤堂とアリスの懸念は、地震による倒壊や火災には向けられていない。壊滅的な天災以上に二人が恐れているのは文魔の存在だ。

 二人の言う通り、文魔が野放しになっている状況はまずい。一刻も早く封印しなければならないのも事実だ。

 けれど文魔による被害と今眼前にある光景では、比較にならないように思える。


「藤堂さん、アリスさん、どういう意味ですか? この地震よりも悪いことが起こると?」


 答えたのは藤堂だった。


「文魔は、揺蕩たゆたう力が人間の強い感情に影響を受けて生まれると説明したのは覚えているかい?」

「はい。覚えています」

「今回起きたこの地震と火災が天変地異なのか、黒猫を食べた少女の文魔の手によるものなのかは分からない。だけど今この周辺にいる人たちの感情が絶望に染まっているのは間違いない。これほど強大な絶望が無数に連なり合ったら、あの文魔にどのような影響を与えるか……」

「それじゃあ、あの文魔が今よりも力を増すと? 黒猫の文魔を圧倒したあの少女の文魔が?」

「その可能性は極めて高いよ。その力は恐らく並の御伽狩りの及ぶところではない」


 文魔を食べる文魔。現段階でも既存のそれとは大きく異なっているように思える。だが、幸にとってもっとも気がかりなのは、あの文魔が〝どこから来た〟かだ。

 あれは間違いなく幸が幼少の頃、出会った文魔だった。幸の家族を襲い、幸の異能の暴走を招いた文魔に違いなかった。

 その文魔が突如幸の背後から姿を現したのは、偶然ではない。

 初めて遭遇した十二年前から幸の側にずっと潜んでいたのかもしれない。


 ――言わなく……ちゃ。


 あの文魔を知っていること。

 あの文魔が幸の罪の始まりであること。


 ――話をしたら、お二人はなんて言うのでしょうか?


 罵倒されるかもしれない。

 糾弾されるかもしれない。

 許されないかもしれない。


 人の絶望が文魔を成長させると言うのなら、あの文魔を成長させたのも幸の絶望なのではないか?

 自分の生い立ちを呪い、自分の不幸を呪い、自分の異能を呪った。そんな絶望を喰らい続けて膨張した結果が、あの文魔だとしたら?


 文魔を喰らい尽くす文魔。想像を絶する異形の女王。

 それを生み出したのが他ならぬ幸の絶望なのだとしたら、浅草の崩壊も、狂おし気に燃え盛る炎も、失われようとしている数多の命も、幸の絶望が作り上げたモノだ。

 文魔には、二十世紀の最先端科学をも超越した超常的な異能がある。十二年の歳月を経て成長した個体ならば、天変地異さえも意のままにし得るのか?


「藤堂さん。アリスさん」


 話さなくては。

 たとえ許されなくても。

 たとえ全てを失っても。


「あの文魔を……私は知っています」


 幸の一言で藤堂の顔色が変わった。

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