第14話「遭遇」

 深更の重ったるい藍色に染まった空の下、着流しの男が人気のない路地を走っていた。

 顔中から脂汗を吹き出し、呼吸は暴走した蒸気機関車のように荒い。帯が解けて前がはだけているが、着衣の乱れを気にしている様子はなかった。いや、その余裕がないのだ。

 ひたすらに、ただひたすらに走り続ける。立ち止まってしまえば命の篝火が今すぐにでも刈り取られてしまうのが分かっているかのように――。


「ちくしょう! どうなってんだ!?」


 誰に聞かせるでもなく男はあらん限りの声で叫んだ。時折後ろを振り返り、追手を確認する。誰も追ってきていない。

 路地を抜けた男の目に土塀で覆われた屋敷が飛び込んできた。棟門の分厚い門扉が開け放たれている。

 恐怖に染められていた男の顔に希望が灯った。

 男は、すぐさま門をくぐり、門扉を閉めてかんぬきを差し込んだ。


 胸を手で押さえながら呼吸を整え、周囲を見回す。

 辿り着いたのは、一軒の古びた屋敷の庭であった。母家は伝統的な日本家屋でかなり広々とした敷地だ。しかし無人であるのか、漆喰の壁は所々剥がれ落ち、溜め池には腐乱した錦鯉の死体がぷかぷかと漂っている。

 植樹された木々は、全く手入れがされておらず、枝が伸び放題だ。


「にゃー」


 頭上から聞こえた猫の鳴き声を受け止めた男の素肌から濁流のように汗が流れ落ちる。

 恐る恐る見上げると、男の首に麻縄が絡みついた。


「やめろ! やめろぉ!」


 首に絡まる麻縄を外そうともがく青年だが、暴れれば暴れるだけ、縄は蛇のように蠢き、首筋に食い込んでいく。


「ちくしょう! 拾ってやった恩を仇で返すのかよ!」


 男の罵倒に応えるように、木の上から一匹の猫が地上に降り立った。


「にゃー」


 黒い猫である。

 らんらんとした緑色の輝きをたたえた瞳を見開き、男を見上げている。


「にゃー」


 もう一つ鳴く。

 しゅるしゅる――。

 しゅるしゅる――。

 麻縄の擦れる音が月夜に木霊し、男の身体を持ち上げる。


「やめろぉ! やめてくれぇ!」

「にゃー」


 男の懇願に返事をする黒い猫だったが、要求に応じる気配はない。


「ぐぅ! うぅ! 息がで、できな……い」


 男の足が完全に地面から離れた時――。


 しゃくん。


 色香すら感じさせる清らかな水音を伴って麻縄が断ち切られた。

 支えを失い、地面に落下する男を、村雨を右手に持つ藤堂が左手一本で受け止める。

 一足遅れて幸とアリスが村雨で粉微塵に切り裂かれた門をくぐって藤堂に駆け寄った。

 藤堂は、青年をそっと地面に寝かせる。男は微動だにしないが、幸の耳は男の呼吸音を拾っていた。か細いが安定している。気絶しただけだ。


「藤堂さん」

「うん。ひとまずは無事で何よりだ。さて――」


 藤堂は、村雨の切っ先を黒い猫に突き付けた。


「夕飯も食べずに今まで走り回って、さすがに疲れたよ。とりあえずおとなしくしてもらおうか」

「にゃー」


 鳴き声が幸の耳に届くよりも速く、黒い猫の姿は夜気に溶けていた。


「い、いなくなりました!?」


 驚愕する幸とは対照的に、藤堂は冷静さを失っていない。


「幸さん、やつは消えたんじゃない。逃げただけだ」


 さすが手練れの御伽の狩人。いかなる状況にあっても混乱しない。場慣れしている証拠だ。


「だけど恐ろしく速いやつだ。二人とも追いかけるよ!」


 先んじて走り出した藤堂の背中を慌てて幸とアリスも追った。


「は、はい!」

「藤堂待って!」


 アリスの制止も聞かず、藤堂は屋敷の土塀をひょいと飛び越える。門をくぐって通りへ出た幸とアリスだが、黒い猫の姿は、もはやどこにもない。

 通りの左右には屋敷が並んでおり、路地の物陰や塀や屋根の上にも猫の姿はなかった。


「アリス、やつの気配は?」


 アリスは鏡を見つめながら不機嫌な子猫のように顔をしかめた。


「北西のほうから感じる。けど、うまく気配を探れない……」

「いや、方向がわかれば十分だ。行こう」


 北西の方向へ三人は走り出した。

 藤堂の速力は、豹も青ざめるほどの俊足で幸とアリスは置いていかれないようにするので精いっぱいだ。それでも可能な限り、辺りに気を配り、黒い猫の姿を探す。

 しかし走れど走れど、黒い猫を見つけられない。完全に見失ってしまったようだ。

 藤堂が立ち止まるのを合図に、幸とアリスも足を止めた。


「見失ったか。なんて素早い動きだ」


 当初の目的である文魔の姿を確認に関しては達成された。けれど予想外だったのは至って普通に猫であったこと。

 猫の登場する物語なんてそれこそ枚挙に暇がない。正体を突き止めるきっかけにはなりそうもない――そのはずだった。


「黒い猫……どこかで覚えがあるような」

「幸さん、本当かい?」

「ええ……でも、どこで読んだのか思い出せないんです」


 何度も読んだお気に入りの話ならすぐに思い出せる。恐らく一度か二度しか目を通したことのない作品だ。

 喉元まで答えが出かかっているのに、絞り出せない苛立ちが火の粉を噴き上げる。


「幸さん」


 大火へ変わりつつあった不甲斐ない自身への怒りが藤堂の一声で鎮火された。


「動きながらやつの正体を思い出せそうかい?」

「え?」


 藤堂の視線に期待感が滲んでいる。

 できそうにない。自信がない。そんな逃げは許してくれそうになかった。

 やれるかではなく、やるしかない。今回は文魔の犯行を未然に防げたが寸でのところに間に合っただけだ。次も上手くいく保証はない。ここで逃がせば確実に犠牲者を出してしまうだろう。


「……やります。必ず突き止めます」


 幸が覚悟の炬火きょかを瞳に宿すと、藤堂は水明すいみょうの如く破顔した。


「俺は、少し高いところからやつを探してみる。幸さんとアリスは気配を探りながら追跡を」

「高いところって?」


 藤堂が大地を蹴り、飛魚のように跳躍した。瞬く間にその姿が虚空に溶けてしまう。


「すごい……」


 凌雲閣を飛び越えそうな高さまで飛んだように見える。人知を超越した脚力のなせる技だ。


「アリスさん。あれも村雨の力なんですか?」

「ううん。御伽狩りの身体能力は、常人を遥かに逸脱している。数十倍か、あるいはそれ以上。幸もあれぐらいのことはできるはず」

「私がですか!? 私はいつもの感じと変わらない気も……」


 アリスは、得意げに微笑した。


「だけど走り続けているのに息が全然上がってない、でしょ?」

「え? あっ!?」


 指摘されるまで全く気が付かなかった。全力疾走したのに呼吸が少しも乱れていない。

 人間離れした藤堂に、息切れせずについていける。知らず知らずの内に幸も超人の領域に入門していたようだ。


「私が……藤堂さんと同じことを」

「そう。私は身体動かすの苦手だし、戦闘向きの異能じゃない。でも幸は藤堂と同じように動けるはず。それが幸のすごいところ。私にできなくて幸にしかできないこと」

「私の凄いところ……私にしかできないこと……」


 アリスは、鏡を見つめながら北東を指差した。


「幸、多分こっちの方角。北東。気配のする方向が変わった」

「藤堂さんが追っている方向とずれていますよ!」

「うん。藤堂を呼びに行ってたら間に合わなくなる。だから二人でやる」


 そう語るアリスは、気高い狼のような自信に満ちていた。

 確かに藤堂を呼びに行く暇はない。一刻も早く文魔を追跡し、封印しなくては。

 だが幸とアリスの二人でできるのか?

 正体も分かっていない相手との戦い。

 戦闘向きではないアリスと、殺傷力が高すぎて手加減の難しい幸の異能。不安要素が多すぎる。


「でも……まだ正体も」

「幸なら大丈夫。私は幸を信じてる」


 彼女が心根からそう思っているのが伝わってくる。


「行こう。幸ならきっとあいつの正体を突き止めて封印できる」


 家族ではない他人から全幅の信頼を置かれたのは、幸の人生において初めての経験であった。

 初体験の信頼の味は、ほんの少しの恥ずかしさの酸味とまったりとした温かい甘みを伴っている。

 ここまで言ってもらっているのに自信がない、できませんとは言えない。

 敵を追いかけながら正体を突き止め封印する。そう藤堂にも約束したのだ。


「は、はい。行きましょうアリスさん」


 やるしかない。

 進路は北東。アリスの励ましに背中を押されて幸は駆け出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る