序、施餓喜の神
美味いもんを腹一杯食ってから死ねたら、それ以上の幸せなんてないと思うね。
祖父さん祖母さんが戦争でひもじい思いをした話を散々聞かされてたから、尚更そう思うよ。
今のひとにはわかんねえかな。
自分が体験した訳じゃないが、あの頃は本当に悲惨だった。
戦時中、うちみたいな貧しい村は木の葉を煮た灰汁の浮いてる雑炊すらご馳走だったらしいからな。
祖母さんは、あるとき母親が山からほじくり返した芋をたっぷり煮て食わせてくれたことがあって、それが忘れられないんだと。いい話かと思うだろ。
だが、祖母さんが後から母親に聞いたら、ありゃあ子どもがひもじい思いをするのに耐えかねて無理心中するつもりで、毒のある木の根を茹でたんだとさ。偶然一緒に似た草が上手く働いて毒が消えたそうだ。
お隣の家族は同じことをしたが全員死んじまったらしい。運がいいんだか悪いんだか。
いや、その二週間後に終戦になったっていうから、祖母さんの一家は運が良かったんだろうな。
そうだ、祖母さんからこんな話を聞いたことがあった。
祖母さんの兄貴は目が悪くて兵隊さんに取られなかったんだが、敗戦の色が濃くなって、とうとう赤紙が届いてな。生きて帰って来られないだろうってことはみんなわかってた。
兄貴もいつまでも穀潰しが家にいるより、お国のために死んだ方がいいって腹括って行くはずだった。
祖母さんの兄貴は出兵前日の夕方、ふらっと独りで散歩に出たらしい。最後に故郷を見て回りたかったんだろう。誰も止めなかった。
そうしたら、しばらくして兄貴がすっ飛んで帰ってきて、祖母さんに言った。
「山の奥に飯屋ができてるぞ」って。
そんなはずはない。
自分の家で食うのに精一杯の頃だ。山奥に飯屋を作って何になる?
だが、兄貴は興奮して「本当に見た」と言った。
小さな茅葺屋根の店で、暖簾はないが、霧みたいな湯気が濛々と立ってた。
中から何かを茹でたり揚げたりする音が聞こえた。
半開きの引き戸を覗いたら、並の男よりも背のデカい、赤い割烹着の女将さんが米を研いでたんだと。あの頃、米なんかあるわけないのにな。
更に兄貴が言うには、ちゃぶ台に青い鉢が並んでたらしい。母親が質に入れちまった、昔、家にあった鉢と同じだった。
しかも、それに盛られてたのは、お袋が祝いの度に作ってくれた兄貴の好物、干しイカと馬鈴薯の煮物だったそうだ。
祖母さんはとうとう兄貴がいかれちまったと思って取り合わなかったが、兄貴は見ればわかると祖母さんを引っ張って山に行ったらしい。
一足早く夜が来たような真っ暗な山道で、夏だってのに風が氷みたいに冷たかったって言ってたな。
霧が立ち込めて、祖母さんは「ああ、兄貴はこのせいで幻を見たんだ」と思った。
そうしたら、兄貴がぱっと手を離して霧の方へ駆け出して行っちまった。
祖母さんは右往左往して探したが、ちっとも見当たらなかったそうだ。
べそをかきながら元来た道を下っていると、ふっと霧の中に赤い影が浮かんだ。
自分の父親よりもデカくて長い影だった。とんでもない大男がいると思って顔を上げると、赤い割烹着が見えた。
それからはよく覚えていないが、編んだ黒い髪の間から見えた女の顔は、片目が潰れていたことだけははっきり覚えているらしい。
一目散に逃げ帰った祖母さんが母親に泣きついて、みんなで兄貴を探した。
真夜中、見つかったそうだ。
山の麓で死んでた。
徴兵が嫌で毒を飲んだんだろうと村の人間に散々詰られたが、そうは見えなかったらしい。
祖母さんが言うには死んだ兄貴の口元は笑ってて、醤油みたいなシミがついてたんだと。
山の女神様が兄貴を哀れんで最後の晩餐を恵んでくれたんだ。そう言ってたっけ。
確かにそうも思える。
祖母さんが死ぬ間際、「あのとき、あたしも飯屋が見えてたら」と呟いてたのは今でも忘れない。
領怪神犯 木古おうみ @kipplemaker
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