零-四、豊穣の神

 宮木は汚れと日焼けで砂のような色に変色したファイルをそっと書庫に戻した。


 山積みの資料が置かれた机を見遣ると、穐津が苦々しく奥歯を噛む。

「豊穣の神……」

「穐津さん、歯が折れちゃいますよ」


 宮木は苦笑して彼女の隣に座った。

 樫木の梁を渡した天井が仄暗い影を落とす。ふたりがいるのは、牡丹峠に程近い村の郷土資料館だった。


 国生みの神に侵食された世界から脱却し、全てが改変された後も、この国に領怪神犯はあり続ける。

 まだ知らない神もいれば、古来蔓延る神もいた。


 領怪神犯特別調査課が散逸した今、宮木と穐津は細々と調査を続けていた。

 公務員の権限で入室を許された書庫には、一般には公開できない記録が蓄積されている。ふたりの他は無人で、紙を捲る音すら響くほどの静寂だった。



「世界が改変されて領怪神犯に関する資料も散逸したと思っていましたが、こんなところに紛れているものなんですね」

「私が調べ始めてからいくつかこういったものが見つかったんだ。改変を免れたのか、その余波で本来なかったはずの場所に記録が現れたのかわからないけれど。まさか、ここで奴の話が出てくるなんて……」

 宮木は俯く、

「この世界にもあの神がいるってことですよね」

 牡丹峠で遭った惨劇は遠いようでまだ記憶に新しい。洞窟じみた無数の歯が並ぶ口と、土砂崩れの轟音が脳裏に蘇った。



「この手記が正しければ、私たちが豊穣の神の調査に赴く羽目になったのも、阿彦という調査員の仕組んだことなんですね」

「信じたくはないけれどね」

「しかも、烏有さんの親戚だなんて」

 今ここに彼がいなくてよかったと、ふたりは言葉には出さず確かめ合った。


「手記に度々登場した少年が幼少期の烏有さんだろうね。彼も神に好かれがちだけど、阿彦さんは根本がねじ曲がってる」

「このことは烏有さんには秘密にしておきましょう」

「そうだね。同胞や未来の後輩を生贄に捧げ続けることで、殺人や失踪という確実な記録を残す。阿彦さんは調査員の在り方としては最適だけど、人間としてまともじゃない。自分のいた組織で親戚そんなことをしていたなんて知りたくないと思うから」


 穐津は眉間に皺を寄せ、色素の薄い目を細めた。

「あの野郎、豊穣の神はひとを家畜化して平らげることに特化した神。人間を誑かし、運命を歪めることに関しては手段を選ばない。普通は太刀打ちできないけど……」

「阿彦さんの元から歪んでいる人間は想定外だったということですか」



 宮木はしばし黙り込み、黄ばんだ紙束を見下ろす。

「本当にそうでしょうか」

「宮木さん、どういうこと?」

「あの神が人間にいいようにやられるとは思えません」


 彼女は郷土資料の背表紙をなぞりながら呟いた。

「当時の牡丹峠の事故や事件を全て確認しましたが、阿彦佑星という名前はありませんでした」

「そうだね。その上、私が知る中で同名の調査員が対策本部にいた記録もなかったよ」

「……豊穣の神は阿彦さんを生かして返したんじゃないでしょうか」

「奴にそんな慈悲はないよ」

「慈悲ではなく、よりよく贄を集めるためですよ」

 穐津は小さく目を見開いた。


 宮木は両手の指を合わせて続ける。

「阿彦さんは自身が食べられることを想定して、失踪したことに気づかれやすいよう、意図的に村人と接触を増やしていたように思えます。彼が戻らなければ、村人が不審がるでしょう」

「でも、痕跡もなく食べ尽くされていたら?」

「村の記録に残らなくても対策本部が動いたはずです。それに、遺体が見つからなくても、ひとつ事件として記録が残らなければおかしいものがあります」

「彼が自ら切断した指を詰めた鉛の箱だね」

 穐津は自分の手を見下ろし、小さく指先を震わせた。


「その通りです。そんなに猟奇的なものが見つかれば必ず騒動になる。阿彦さんはそれを条件に豊穣の神と交渉したようです。でも、実際に彼が見越した事態にはなっていない」

 宮木は言葉を区切った。


「予想ですが、豊穣の神は彼を殺さず、獣に噛まれたと思われる程度に部分的に捕食した。主に腕の部分を。そして、失血性のショックで失神されてから捨てたのではないでしょうか」

「何故……」

「村人が発見したとき、左手の指の欠損や右手の甲の傷を不審に思われないためです」

 穐津は感嘆するように息を漏らした。


「病院に搬送された阿彦さんの元に上層部の人々が駆けつけ、同じ頃に指を詰めた鉛の箱が見つかったとします」

「対策本部は事態を隠蔽して収めるために動いただろうね」

「一番手っ取り早いのは、全て阿彦さんが精神に異常をきたしたが故に行った、とすることです。彼には不眠症などの病歴もありますし、鎮痛剤を大量に摂取していた。それが妥当でしょう」

「対外的な対応だね。内部で行う処理は……」

「元の予定通り、阿彦さんを人的措置、知られずの神に消させたのだと思います」

「だから、記録がないのか……」

 宮木は顎を引いて頷く。



 穐津は樫木の椅子の背にもたれた。

「でも、それじゃ対策本部に豊穣の神の脅威は残らないと思うよ」

「対策本部は様々な神が起こした超常現象を目の当たりにしていました。阿彦さんが陥った事態を見て、豊穣の神は人間の正気を失わせる権能を持つのではと推測した者もいたはずです」

「あくまで推測に過ぎなくても、見過ごせないだろうね。利用価値は未知数で、危険度は高い。調査の優先順位は低いけど、捨て置けるものではないはずだ」

「豊穣の神は自分の安全を守りつつ、阿彦さんを利用して餌を誘き寄せることに成功したということですね」

 穐津は怒りを押し殺すように長く息を吐いた。

「つくづく最悪の神だ……」

「神は人間の手には負えない、ですね」



 苦笑する宮木に、穐津は呻きに似た声を漏らす。。

「宮木さん、神義省の頃に戻ったみたいだ」

 宮木は目を瞬かせる。

「そうですか?」

「うん。昔の貴女は神への恐れを知りながら、その真意に切り込む鋭さがあった。それに、人間より神の方に近い考え方をするところも。阿彦さんに近いのかもしれない」

「怖いこと言わないでくださいよ」



 宮木は肩を竦め、深い葡萄茶色の天井を見上げた。

「阿彦さんが消されたのなら、父たちと同じように今この世界に戻ってきてるかもしれないんですよね」

「それこそ怖いことだよ。豊穣の神がこの世界にいるとわかった今、奴への盲信と深い造詣を持っている人間が蘇るなんて……」



 カタンと、冷たい音が静寂を破った。

 職員が書庫の入り口から顔を覗かせる。

「恐れ入りますが、そろそろ閉館時間です」

 黒いスーツを纏った、細身の男だった。血の気の失せた白い顔に、目の下だけは殴られた痕のように青黒いクマがある。


 ふたりは慌てて資料を掻き寄せた。

「長居してすみません。今準備しますね」

「急がなくても構いませんよ。持ち出しは禁止ですが、必要なものがあればコピーしましょうか」


 男は書庫に本を戻す宮木に手を貸す。頰には三角形を描くような黒子があった。


 宮木は一歩後退る。男のネームプレートは裏返って見えない。視線に気づいた男が首を傾げる。

 彼の手元に目を凝らしたが、真っ白な右手の甲に半月型の傷はなかった。


「どうかしましたか?」

「いえ、何でもないです」


 男は手際良く資料を片付けながら微笑する。病的な見た目に反した柔和な笑みだった。

「熱心ですね。研究職の方ですか?」

「そんなものです。お邪魔しちゃってすみません」

「とんでもない。自分も好きが高じてこの仕事に就いた身ですから、興味を持ってもらえるのはですよ」


 宮木の指先に男の右手が触れた。無機質な冷たさとシリコンの感触。義手だと気づいた。

「神というものは興味を持ってくれる方がいて初めて存続するものですから」


 唖然とする宮木を余所に、男は黒手袋に包まれた左手で、最後の一冊を書庫に押し込む。本の中から栞がひらりと零れ落ちた。



「失礼」

 男は手袋を外して栞を拾った。

 男の左手は、中指から小指にかけて黒い義指が装着され、生身の指は二本しかなかった。

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