零-三、豊穣の神

 村の宿にある宿は殆ど民泊で、祭りの時期以外は殆ど休業らしいが、一軒だけ開いていた宿を取ることができた。


 梅村にもらった鎮痛剤との相性が悪いのか、時折込み上げる吐き気を堪えて食事を済ませ、深夜近くに風呂に入った。

 他の客はいないようだが、浴場で他人と鉢合わせて余計な詮索を受けるのは避けたかった。

 風呂は西洋のモザイク画のようなタイル張りで、小さな湯船に浸かると、牡丹を模した絵が顔の前に来る。中央に空間が開いたタイルの花弁は、真紅の口を広がっているようだった。



 部屋に戻り、布団の中で資料を捲っていると、酩酊感に襲われた。ここ最近で睡眠薬を使わず眠れたことがなかったせいで油断していた。



 微睡の中、箒で部屋を掃くような音がする。ずっ、ずっ、と断続的な音。女将が外を掃除しているのだろうかと思った。


 音が室内で響いていると気づいた瞬間、眠りが覚醒した。薄暗がりに灰色がかった影がある。俺は咄嗟に布団を被った。

「何だ、やっぱり……じゃねえか」


 覚えのある声が聞こえたのと、障子の戸が開け放たれたのは同時だった。

 薄明の光を背に、青ざめた女将が立っていた。

「すみません、魘されていたようですから……」

 女将は俺を見て更に顔を青くする。俺は敷布団に両手をついていることに気づいた。

「お怪我を……?」

「ご心配なく。もう古い傷ですから」

 俺は作り笑いを浮かべる。女将は襖を閉めるまで俺の手を凝視していた。



 日が昇ると同時に宿を出て、昨日の喫茶店でモーニングを食べた。食欲はなかったが、薬を飲むためにトーストをコーヒーで無理に流し込む。

 瓶の中の鎮痛剤を全て飲み、俺は牡丹峠に向かった。薬が切れる前に片をつけたかった。



 道のりは峠というには厳しかった。

 黒い木々と剣の峰のような切り立った岩場が連なる林を抜け、吊り橋を渡る。

 手すりの黒い縄は死人の髪を寄せ集めたようだ。真下の川の水面は見えず、壮絶な音を立てる闇だけがある。見下ろすと吸い込まれそうだった。



 橋を渡り切り、林を無理に切り拓いたような獣道を進んだ先に、洞窟があった。

 岩の亀裂から細い吐息じみた冷風が漏れている。

 恵みの神というより、自然の険しさを体現する原始の荒神が在わす場のような底知れない雰囲気だった。

 入り口には工事中のテープが貼られている。



 俺は意を決してテープを潜り、洞窟に踏み入った。螺旋を描くように石で囲われた細道は、獣の口腔に似ている。

 何処か既視感を覚えた途端、土埃がぱらりと降り、轟音を立てて道が閉塞した。



 濛々たる煙の中で視界が闇に閉ざされる。


 入り口が落盤して閉じ込められたのだと気づいたとき、掠れた声が響いた。

「よくここまで来た」


 岩盤の亀裂から射す光に、男の影が浮かび上がった。

「だが、社会人ならちゃんと名乗らなきゃなあ。領怪神犯対策本部の阿彦くん?」

「それは、お互い様ということでひとつ……豊穣の神」

 俺の喉から漏れた息の音を風が掻き消した。


 目の前に白い霞が奔ったかと思うと、後頭部に硬い衝撃を感じた。俺は突風に突き倒され、岩に身体を打ちつけた。鈍い痛みが全身に広がる。


 豊穣の神は覆い被さるように俺を見下ろした。白髪が帳のように降りる。

「随分と度胸があるじゃねえか。前の調査員は今頃泣き叫んでたってのに」


 神は幼児を撫でるように俺の頭に触れた。闇中で爛々と輝く双眸だけが眩しい。

「で? 敵討ちのためにここまで来たってか」

「何の話ですか……」

「とぼけんなよ。あの子だろ」


 やはりあの子は彼に食い殺されたのか。わかってはいたが、胸の奥が痛んだ。肺が圧迫され、俺は息を絞り出す。

「違いますよ……」

「冷静だな。もっと焚きつけてやろうか? あの子はなあ、随分と故郷や親戚を嫌ってた。俺と来るかって聞いたら二つ返事で真っ暗な中、誰にも言わずに来たぜ」

 豊穣の神は喉を鳴らして笑った。


「だがなあ、足から齧って腿に届く頃には家族全員の名前に助けを求めてたよ。お前のことも呼んでたぜ。なあ、佑星?」

 鋭い爪が額に食い込み、汗よりも粘質な液体が俺の頰を伝った。頭を揺さぶられ、貧血と相まって気が遠くなる。


 俺は薄く目を閉じた。

「貴方を慕っていたんですから、苦しませないであげればよかったのに」

 豊穣の神はふと息を漏らすと、俺から手を離して身を退いた。


「冷めてんなあ。報復じゃないならここに来た理由は何だ?」

「神に会いに来る理由は、捧げ物と頼み事だけでしょう」

「信心深くて涙が出るな。だが、生憎間に合ってんだ。わざわざもらわなくても摘まみ食いしてるからな」

 豊穣の神は手の平についた俺の血を舐める。俺は鈍痛が響く頭を押さえた。

「俺が捧げるのは贄じゃない。情報です」


 豊穣の神は胡座をかいて俺の前に座った。

「お前、組織を売りに来たのか?」

「そうでもありませんよ。どちらにも利益があると思います」


 俺は貧血と目眩で霧散しそうになる意識を繋ぎ止め、慎重に言葉を紡ぐ。

「対策本部の上層部は神を収容し、運用することを目的としています。そのために邪魔な人間すら神を使って消し去っています」

「不遜なこった。一番怖いのは人間だな。俺も収容する気か」

「可能性としてはゼロではないと思います。完全に人間に擬態し、発話や行動にも違和感のない神は前例がない。組織に招きたいと考えるかもしれません。できなかった場合、消し去ろうと考えるでしょう」


 豊穣の神は組んだ足の先を打ち鳴らした。

「……お前、俺がどんな神かわかってんのか?」

「大まかに、山岳信仰や生贄を求める神、人身御供の概念などを包括した存在だと感じています」

「まあ、及第点の理解だな。その通り。俺の信仰は日本古来のもんと結びついてる。そう簡単には消せねえよ」

「では、日本がなくなったら?」

 俺は身を乗り出したつもりだったが、自分の身体の重さで思わず平伏すような姿になった。


「対策本部は第三次世界大戦に備えて動いています。もし、我々が失敗し、日本が焦土と化せば貴方の信仰も無事では済まない。先の戦時下では貴方の記録が大幅に減少していました」

「国そのものとは大それた人質だな。神を消せると本気で思ってんのか?」

「実際に対策本部の手によって、殆ど消滅したと言えるほど弱体化した神を知っています。件の神。今やそれを知る者は上層部か、信者の血筋しかいません」

「あの仔牛がねえ。人間に入れ込むから馬鹿を見たんだな」


 豊穣の神は鋭い犬歯を覗かせてにじり寄った。

「名探偵さん。その話には矛盾がある」

「何でしょうか」

「お前は組織の上層部じゃねえだろ。だったら、何でその神を知ってんだ?」

「俺の祖母が件の神を祀る烏有うゆう家だからです」


 独りでに自嘲の笑みが漏れた。

「上層部には既に気づかれています。遅かれ早かれ俺も消されるでしょう」

「成程ねえ。消されるよか俺に食われる方を選んだ訳だ。旅先で失踪したら行政に記録が残るからな」

「はい。対策本部は俺の失踪と牡丹峠を関連づけるでしょう。そうすれば、いつかまた調査員が派遣され、貴方は次の餌を見つけられる上に、記録を残せる」

「自分やお仲間を生贄にしてまで組織に記録をもたらそうってか」

「長期的に見ればお互いに利益があると思います」


 豊穣の神は頬杖をつき、獰猛な笑みを見せた。

「賢い坊や、こうは考えなかったか。俺がお前を食い殺し、お前がここに来たことを知ってる村の連中も殺す。行政は動かず、お前を厄介だと思ってる組織はお前が調査に来たこと自体を隠す。お前は食われ損だ」

「それは難しいと思いますよ」


 俺は左手の手袋を外す。中に詰めていた綿が溢れ落ちた。

 俺は包帯に包まれた手を突き出す。親指と人差し指しかない左手を。


 豊穣の神は微かに目を見開く。血の匂いは冷泉から聞いた煙草の煙で誤魔化せていたようだ。

「……そいつはどうした?」

「自分でやりました」


 笑い声が洞窟に反響し、山を揺らした。

「いかれてんなあ。信じられねえ」

「恐れ入ります」

 豊穣の神は笑いながら頭を掻く。

「褒めてねえよ。俺は恵みの神だぜ。頭がおかしい奴は苦手だ。おっかなくて村に入ってきてほしくねえよ」


 豊穣の神はいきなり俺の左手を掴んだ。恋人のように指を絡められ、真新しい傷に爪が食い込む。肉をやすりで削られるような痛みが走った。

「その指はどこで落としてきた」

「……わかりません」

「坊や、いい大人だろ。失くし物くらい自分で何とかしなくちゃいけねえよ」


 指の断面を撫でられ、包帯に血が滲む。ざらついた舌で骨に残った肉を舐られているようだ。鎮痛剤がなければ絶叫していたかもしれない。


「本当にわからないんです。どこに辿り着いたかも」

「何だって?」

「切り落とした指はそれぞれ腐りにくいよう鉛の箱に入れて、貴方に会う前に川に流してきました。箱には駅で買った防水性のステッカーが貼ってあります」


 俺は荒い息を吐いて気を鎮める。

「拾った人間は牡丹の絵を見て、ここの土地と関連づけるでしょう。奇特な事態に対策本部が恐れを成せば、貴方の信仰にも関わるかもしれない」


 吐き気と痛みを堪えて、豊穣の神を見上げた。こうなっても尚、不思議と恐怖は湧いてこなかった。



 豊穣の神は指をそっと離して微笑した。

「そこまでお膳立てされたら食うしかねえか」

「ありがとうございます」

「殊勝だな。礼なんていい。神なら捧げ物は拒まねえよ」

 赤みがかった瞳が細くなった。俺はつられて笑う。



 七夕の夜の法事で、親戚の少年が俺を見て怖いと泣いた。彼の兄が眉を顰めて嗜めた。

定人さだひと、そんなこと言っちゃ駄目だ。お前が見えてるものは他のひとには見えないんだから」

「でも、あのひと血の匂いがするんだよ。身体ん中から」

 神から手の甲につけられた印のことだと思っていた。だが、違った。


「実のところ、あの娘よりお前が気になってたんだ。別の神の匂いがしてたからな。だから、目印をつけておいた」

 手の甲の傷はやはりそういうことかと思う。豊穣の神が囁いた。

「それに名前も気に入った。佑星の佑の字は、神がひとを助けるって意味なんだぜ」


 冷泉の言葉が脳裏を過ぎる。

「貴方が執着しているのはあの子ではなく、神の方でしょうから」

 難儀な血筋だと思った。烏有家は神に仕える者だ。しかし、祀るべき件の神は失われている。

 あの七夕の夜、俺の欠落した穴に、悍ましく強大な神が滑り込んで来た。

 神は今、俺を見下ろしている。



 洞窟の闇の中で、神聖に滴る水音が湧水なのか自分の血かわからない。俺は冷たく濡れた石の上に手をついた。

「貴方に言われた牡丹の花を見られなかったのは心残りですね」

「本当はな、この峠の牡丹は花のことじゃねえんだよ。季節外れだが褒美だ。見せてやるよ」


 豊穣の神は笑い、裂けんばかりに口を広げる。洞窟のような黒い口腔の中には無数の歯が花弁のように生えていた。



 俺の血を塗った歯は、満開の牡丹のように見えた。

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