零-ニ、豊穣の神
再調査の許可は案外簡単に降りた。
三原は俺が気づかれていないと思っていた無断調査の数々を挙げ、「相変わらず熱心だね。今回は許可を取ってくれてよかった」と微笑んだ。眼鏡の奥の瞳は笑っていなかった。
調査には
律儀に駅までは送ると言って車を運転する切間の横顔を眺めつつ、俺は助手席で資料を捲る。
切間は浅黒い顔に僅かな疲労の色を浮かべて言った。
「阿彦、本当にひとりで大丈夫か」
「フィールドワークには慣れてますよ。切間さんこそ御家族が心配でしょうに。見送りありがとうございます」
切間はハンドルを切るついでに首を振る。
「俺も豊穣の神について調査したが、治水工事や開墾の知恵を与えたり、邪教の連中を退けた伝承があるくらいで領怪神犯らしい特異性は見当たらなかった」
「恵みを与える豊穣神というよりは山の守り神の守り神ですね」
「牡丹峠の場所も約百年毎の単位で移動している。世界大戦の最中は記録が減るが、これは単に記録者が徴兵されたせいだろう」
「土地に信仰が由来するのではなく、山神という概念そのものに近いんでしょうか」
「その場合、信仰による力も強大だ。気を引き締めろ」
俺は頷き、資料を膝に置く。
ここのところ睡眠薬を控えているせいで眠りが浅く、車の振動で気が遠くなりそうだった。
俺は靄がかかった頭を振る。
「話は変わりますが、切間さんは元殺人課ですよね。遺体が腐敗しにくい条件というのは何がありますか」
切間はぎょっとして怪訝な顔をする。俺は手を振った。
「いえ、別の領怪神犯の調査で被害者の遺体が腐敗しないという案件がありまして。神の影響か偶発的なものか知りたかったんです」
「刑事に死体遺棄の心得を聞くつもりかと思った」
切間は溜息を吐いた。
「そうだな……屍蝋化現象が最たるものだが、高温多湿の日本では条件が揃いにくい。その遺体は埋葬されたものか?」
「ええ、確か。詳しい記録はありませんでしたが」
「なら、棺に鉛の内張がされていたのかもしれない」
「鉛、ですか」
「鉛は柔らかく表面は腐敗しやすいが、案外土中の微生物の影響を受けにくく、鉄よりも朽ちるのに時間がかかる。中の遺体も損傷しにくいだろう。土が鉛汚染を受ける場合もある。それが領怪神犯の仕業と間違われたのかもな」
「なるほど、ご教授ありがとうございます」
切間は黒手袋の下の結婚指輪を確かめるように、自分の左手に触れた。
「仕事熱心なのはいいことだが、上に目をつけられないようにしろ」
「ご心配には及びませんよ」
もうとっくに目をつけられているとは言わなかった。
車が止まると、駅舎の前から明るい髪色をしたスーツ姿の青年がこちらに寄ってきた。
切間が苦い顔をする。
梅村はまだ若く、研修の身だが、父親の縁もあって上層部に食い込んでいる。俺と切間の監視を言い渡されたのだろう。
梅村が運転席の窓をノックし、切間がガラスを下ろす。
「切間さん、休みじゃなかったんですか」
「送迎だけだ」
「そういうことは逐一報告してくれないと」
梅村は一瞬注意深く車内を見回してから息を吐く。
「阿彦さんも連絡は密にしてくださいよ。それから、これ」
そう言うと、梅村は腕を伸ばし、身を逸らした切間を避けて俺に紙袋を渡した。切間が訝しげに梅村と紙袋を見比べる。
「それは何だ」
「鎮痛剤。阿彦さんに頼まれてたんですよ」
袋を受け取ると、薄い茶色の紙越しにガラス瓶の感触と、錠剤が転がる音がわかった。俺は頭を下げる。
「ありがとう、助かるよ。無理言って悪かった」
「本当ですよ。医者の息子だからって簡単に融通できる訳じゃないんですから」
梅村は俺を睨つけたかと思えば、気まずそうに目を伏せた。ガラス窓に映る俺はひどく病人じみていた。
「そんなに具合が悪いなら休んだ方がいいですよ。今回の調査を終えたら病院に行ったらどうですか」
「かかりつけだと規定量しか処方してもらえないのさ。それに、記録が残らない方がそっちにも得だろ」
「自分の立場わかってるなら身の振り方考えてくださいよ」
梅村は吐き捨てて踵を返した。
若々しさに苦笑が漏れる。俺や三原と違って、まだ引き返せる段階だろうに、こんな仕事で神々と関わっているのが可哀想だと思った。そんな自分に老いを感じる。
あの七夕の夜から、もう十年が経った。
男の言の通り、村では牡丹が有名なようだった。
駅の売店で花弁を模した防水加工の和紙ステッカーまで売られていた。
三枚購入するついでに駅員に話を聞くと、初春には祭りがあり、村の外から大勢の人々が押し寄せるらしい。
俺は準備を終え、牡丹峠へと続く山麓の村に降り立った。
想像より栄えていて、ささやかだが風情ある茶屋と土産物屋が並び、小暑の晴れ空を暖簾が埋めている。とはいえ、人通りは少なかった。今日は平日で、観光に来る学生たちの夏休みもまだ始まっていない。
土産物通りを進むと、古風な店々の中にひとつだけ洋風の白い喫茶店があった。風雨で滲んだ手書きのポスターに「名物・牡丹クリームソーダ」の文字があった。
黒いスーツの上着が日差しを吸収し、裏地が汗ばむ。俺は予めはめていた手袋を右手だけ外す。駅で買った緑茶で、半分に割った鎮痛剤を飲み下した。
煙草を取り出したとき、急に洞窟の奥底に踏み入ったような冷気が押し寄せた。時が止まった。いや、時が戻った。
木細工と簪を売る土産屋の前に人影がある。
灰色がかった白髪、枯れ木じみた痩せぎすの腕。人生でたった二回見ただけの、網膜に焼き付いた姿だ。
あの男が立っている。二十年前と少しも変わっていない。
男が振り向いた。前と同じように、夏だというのにマスクをつけていた。
「珍しいな。この時期に観光か?」
男は切長の目を細める。光の下で見ると僅かに虹彩が赤みがかっていた。
俺は男に歩み寄り、手を差し出した。
「お久しぶりです」
男は不思議そうに俺を見下ろしてから、手袋を外した右手に目を留め、合点がいったように息を漏らした。
「あの寺で会った坊やか。デカくなったなあ。見違えた」
「覚えていてくださったんですね」
「そりゃあ忘れねえよ」
男は気さくに笑う。
「折角ですし、お時間があればお話伺えませんか。少しお茶でも」
俺が喫茶店を指すと、男は快諾した。
店内には擦り切れたテープのクラシック音楽ととぬるい冷房の風が対流していた。
ヨーロッパ風の白い店内の至る所には先程の牡丹のステッカーが貼られ、どこか保育園じみて見える。村人とは相性が悪そうな、気取った髭を蓄えたマスターが、俺と男を奥の席に案内した。
俺はメニューの表紙に大々的に広告されている牡丹クリームソーダをふたつ注文した。男が小さく目を見開く。
「気を遣うなよ」
「お話を伺うんですからご馳走させてください。甘いものは苦手ですか」
「……いや、好きだよ」
男は含みのある笑みを浮かべ、銀の灰皿を引き寄せた。
「しかし、まさかここまで来るとは思ってなかったな」
「偶然ですよ。仕事で寄ったんです。とはいえ、あれからずっと探していましたが」
俺は学芸員時代の名刺を渡す。
「阿彦佑星、学芸員か。俺と同じだな」
「そうなんですか」
「峠の先に洞窟で案内係をやってるんだが、近々資料館に改造するらしくてな。工事中は中にいられねえから暇してたんだ」
男は
俺は豊山がマスクを下ろすのに合わせて、煙草に火をつける。冷泉から聞いた外国産の煙草の重く甘い香りが漂った。
「やたら甘い煙だな」
「よろしければ一本どうぞ」
豊山は手刀を切ってから一本抜き取り、煙草を咥える。しばらく吸ってから、
「こりゃあ駄目だ、鼻が効かなくなりそうだ」
と笑った。
「豊山さんはずっとこちらに?」
「いや、そこら中をフラフラしてた。お前に会ったときみたいにな」
「お若いですね。以前と全く変わらない」
「この髪で若いなんて言われんのは珍しいや」
豊山が蔦のようなうねりのある髪を摘んだとき、牡丹クリームソーダが運ばれてきた。
かき氷のいちごシロップか、真っ赤なソーダに銀の泡が浮き、血の河原のようだと思う。丸いバニラアイスには花弁を模した砂糖菓子の飾りが散らされていた。
俺は左手の親指と人差し指でストローを摘みながら、豊山の口元を注視する。
銀の匙で砂糖の花弁ごとアイスクリームを抉り、口に運んでから、豊山は苦笑した。
「そんなに見られたら食い辛い」
「すみません」
俺も笑みを作って喉が焼けるほど甘いソーダを啜る。
あの夜、豊山の口元に覚えた違和感の正体を知りたくて、できるだけ口を大きく開く必要がある飲み物を選んだが、正体はわからなかった。
豊山はクリームソーダを少しだけ飲んで、頬杖をついた。
「この髪もマスクも病気のせいでな。うつるもんじゃねえが故郷には居辛かったんだ」
「大変だったでしょう」
「何の。この村はいいぜ。俺みたいな奇異な余所者でも気楽に暮らせる」
「豊山さんの人徳でしょう」
「煽てても何も出ねえよ」
豊山は鋭い犬歯を覗かせて笑った。
俺は煙草とストローを持ち替えながら、取材のふりをしてこの村の話を聞いた。
豊山が語ったのは当たり障りのない村の歴史や祭りの情景ばかりだった。
俺は言葉を選びつつ、切り込む。
「牡丹峠には神がいるそうですね」
「ああ、そういう話だな。何でもこの村を開いたときから人間に知恵を与えて危機を退けたとか」
「見たことはありますか?」
「神を?」
豊山は薄い腹を引き攣らせて低く笑った。
「ねえよ。だが、そうだな。気になるなら牡丹峠の洞窟に行ってみな」
「今は改装中では?」
「明日は工事が休みなんだ。俺なら案内してやれるぜ」
「では、お言葉に甘えます」
「随分と熱心だな。神を見てえのか?」
「それは、勿論」
豊山の眼光が鈍く輝いた。
「気をつけなよ。面白半分で深淵を覗くと引き摺り込まれるぜ」
ソーダの中の氷が溶け、溢れた赤い炭酸水がテーブルクロスに血のような染みを作った。
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