バイバイ普通、いい夫婦
チェシャ猫亭
第1話 ハッピーファミリー
立冬を迎えたとはいえ、まだまだ日中は温かい。
北関東の小さな町。
金曜日の午後、
「このモンブラン、めちゃおいしい。もう一つ食べようかな」
ケーキの箱を覗き込む夏美に、佳代子は、太るよ、と釘を刺した。高校時代はほっそり、今はぽっちゃりの佳代子の言葉には実感がこもっている。
それもそうだ、と二つ目をあきらめる。夏美は四十八歳、じわじわ増える体重に悩まされていた。肩の上で切りそろえた黒髪が良く似合い若々しいが、アラフィフの今、いいかげん自重しなくては。
「
佳代子が、夫の話題を出した。
「おかげさまでピンピンしてる」
夏美は、笑顔で答えた。
仁は昨年春、心筋梗塞で倒れた。一時はどうなるかと思われたが、順調に回復、職場復帰も早かった。
病院に向かうタクシーの中で、夏美の心は揺れに揺れた。
揚げ物を控えろ、とあんなに言ったのに。
家では監視できても、外での食事までは無理だ。
脂っこいものばかり食べて体重が増えて、健康診断で再検査にひっかっかるようになっていた仁。
やせなさいよ、と口を酸っぱくして言ったが、仁は聞く耳を持たなかった。心筋梗塞は当然の結果なのかも。
最悪のケースを考えておかねば。
喪服は、クリーニングから戻ってきている。葬儀をどうするかは、兄や両親に相談しよう。
経済的な問題。長男の
住宅ローンは付随した生命保険でチャラになるはず。遺族年金も出るだろうし、実家の両親も健康、そこそこ財産もあるはず、いざとなったら頼ればいい。
目まぐるしく今後のことを考えているうちに病院に到着し、担当の医師から話を聞いた。さほど深刻な病状ではない、一週間もすれば退院できるでしょう、と聞いて、全身から力が抜けた。
「ウチのなんか、五十台半ばだけど、風邪もひきやしない」
佳代子は憎々し気に言った。夫の公男とは、あまりうまくいっていないし、同居している公男の母親とは険悪な仲。今日は姑が温泉旅行に行っている間に、夏美宅にストレス発散に来ていた。
姑の介護が必要になったら、お前がやって当然、と夫が言うのが佳代子は気に食わない。
「夏美はいいよねえ。お義母さん、もう亡くなったんでしょ」
「うん」
義母とはそこそこうまくやっていたが。数年前、病気で他界した。
夏美の両親も、子供たちに迷惑はかけない。将来は医療付き高齢者向きのマンションに入ると言っている。
仁の父親はそろそろ八十歳。今のところは元気だし、仁は、夏美に父の介護をさせるつもりはない、と明言している。古いが持ち家があるし、いざとなったら処分して、介護施設に入るつもりのようだ。世間のアラフィフ主婦が直面する問題を、夏美は楽々クリアできそうだった。
「ご主人はやさしいし、宙くんも千花ちゃんも素直で優秀だし、夏美は何の心配もなくていいよねえ」
「まあ、そうだよね」
嫌味に聞こえるかもしれないが、これが当たり前の状態だし、これからもそうだと、その時の夏美は疑いもしなかった。
「マジうらやましいよ」
佳代子がため息をつく。
「でも佳代子だって娘さんたち、社会人でしょ。いろいろ相談にも乗ってくれるんじゃない?」
「娘たちは自分が楽しむのに夢中で親のことなんか」
自分たちも若い頃はそうだったから仕方ないか、と佳代子は苦笑する。
「仁さんに感謝しなくちゃだよ、夏美。こんな恵まれた理想的な家庭、めったにないんだから」
確かに仁は物静かで控えめで、夏美の言うことは、はいはいと聞いてくれる申し分のない夫だ。何よりも夏美にとって、仁は都合のいい結婚相手だった。
東京での学生時代、夏美はバイト先で二歳上の仁と知り合い、同郷だと判って親しくなった。母からは卒業したら田舎に戻るように言われていたが、夏美は東京にいたい。同じ町出身の仁と結婚すれば、いずれは一緒に戻るのだから、と都会暮らし延長を許してくれはしないか。そんな思惑もあり、結婚には夏美の方が積極的だった。
結局、仁が二十六、夏美が二十四で結婚。しばらく子供はつくらない気でいたが、三年後、宙を授かり、二年後には千花が。
宙が幼稚園に入るのを機に郷里での暮らしが始まった。しばらく専業主婦を続け、子供たちの手がかからなくなってパートに出て現在に至る。
平凡ながらも幸せな生活、確かにそうだ。
夕方、佳代子が帰っていくと、夏美はキッチンに立って夕食の準備を始めた。
今日は冷凍庫の整理もかねて、ありあわせの材料で支度しよう。
仁は退院以来、こってりしたものを欲しがらなくなった。豚しゃぶでもしようか、野菜もたっぷり添えて。
「ただいまあ」
そうこうするうちに、千花が帰ってきた。つやつやした黒髪のポニーテール、まあ可愛い方だろう。今日は機嫌がいいようだ。
「何かいいことあったの。楽しそうじゃない」
「今日、新しいのが出たんだ」
夢中になっているBLコミックの新刊を買ってきたらしい。またか、と思ったが、夏美は口には出さなかった。
千花は既に地元の短大に推薦入学が決まっている。宙のときと違って受験の心配をしないで済む。クリスマスも正月も安心して迎えられるだろう。
仁はいつもより早く帰宅し、親子三人の夕食は七時前には終わった。例によって、千花はさっさと自室に引き上げてしまう。
その後、いつものように、仁と夏美はソファに並んで座り、テレビニュースを見ていた。
夏美は少しワインを飲んでいる。仁の前には熱い緑茶。もともと酒量が多いほうではなかったが、病気をして以来、飲むのをやめた。体重も落としてだいぶスリムになっている。
「ほんと最近、明るいニュースがないよね」
夏美がそう口にすると、仁がふいに、
「テレビ消していいかな。話があるんだ」
と、低い声で言った。
「いいけど。話って?」
静まり返ったリビングに、しばし沈黙が流れた。
仁は、なかなか口を開かない。
「どうしたの。そんなに深刻な話?」
思い詰めたような横顔に目をやると、仁は意を決したように言った。
「離婚してくれ」
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