第16話 行く年
大晦日。桜屋敷家の居間には、まだクリスマスツリーが飾られていた。
25日にしまうのはもったいないという、生まれて初めて家庭でクリスマスを祝った由宇の希望だった。さすがに明日は新年だから、と夜にはツリーは箱に入った。
「また来年だな」
「はい」
来年もあるんだぞ、と仁が言ってくれて嬉しい。年明けには、こんな年末を迎えられるとは夢にも思わなかった。
イブも幸せだったな、と由宇はうっとりと思い出す。
小さなケーキ、フライドチキン、ノンアルコールのシャンパンもどき。子供時代は母が多忙でクリスマスを祝う余裕はなかった。プレゼントもなく、暗い部屋で母を待つだけ、ふだんの毎日と同じだ。
他の子はみんな両親、兄弟たちとご馳走を食べて楽しく過ごすのに。どうして僕だけ?
クリスマスは由宇にとっては、顔も知らない、自分の顔も見ずに失踪した父親を恨む日になってしまった。
これからは違う。毎年、最愛の仁と過ごせる、贅沢はできなくても毎日、同じ屋根の下で暮らせる、それだけで十分だし、幸せすぎて怖くなる。
夜はこたつでミカンを食べながら紅白歌合戦。これも由宇には生まれて初めての経験だ。
「楽しかったよ」
賑やかな大晦日を過ごした正もご機嫌だった。日本酒を気持ちよく飲んで、十時前には自室に引き上げた。
「夢みたい」
二人きりになると、由宇は仁をみつめ、しみじみと言った。
「本当に、ここにいていいのかな」
「いいに決まってる」
仁ははっきり答えたが、由宇は不安だ。
既婚者を愛してしまったゲイには、手の届かない幸せのはずだ。今も仁の離婚は成立していない。
その不安を口にすると、仁は、
「来年、改めて考えよう」
「あと五分で来年ですけど」
由宇は小さく笑う。
やがて除夜の鐘が聞こえてきた。
「来年も、いや、今年もよろしくな」
おだやかに仁が微笑む。
「はい、こちらこそ」
由宇は思いをこめて仁をみつめた。
「女だけって気楽だね」
佳代子がワイングラス片手に楽し気に言う。
大晦日。
嫁の立場としては当然、新年を迎える準備に忙しいじ、去年まではそうだった。姑はおせち料理も自宅で作れと言い、うんざりしながら毎年、作り続けてきた、
「もう二度と作んないよ、おせちなんて」
あんな面倒くさいもの、と佳代子は吐き捨てた。
「いまどき、買うのが常識だよね」
夏美が同情の眼を向けると、藍も、
「そうだよ。私なんか、いっぺんも作ったことないよ」
シングルの藍は、生前は母に頼りっぱなし、元々おせちに興味はない。正月は食べたいものを食べるだけだ。
佳代子はクリスマス前に家を出ていた。とりあえず実家に戻り、母と弟一家に、離婚すると告げていた。
夏美も藍も、その決断の速さに驚かされた。
「あのババアの顔を見ないで済むなんて、クリスマスも大晦日も、今年はサイコー!」
「飲みすぎじゃない、佳代子」
と言いつつ、今夜はうちに泊って羽目はずしてよ、と夏美は思っている。口うるさい姑との同居に耐えてきたのだから、この位はね。
「そんなに飲んでないよ。ムードに酔ってるだけ」
来年は正式に離婚だ、とぶちあげる佳代子。
夏美は圧倒された。
仁と別居してひと月あまり。向こうはもう、昔の恋人と同棲している、しかも実家で、父親も同居する中で。
まさか本当のことを言ってやしないよね。
義父はごく常識的な男性だ。息子が連れ込んだ男が恋人です、なんて許すはずはないし、仁が事実を打ち明けるとも思えない。
あの世代は、と夏美は思う。ウチの両親と同じように子供が普通に結婚し、孫を連れて来てくれるのを心待ちにする。
佳代子は娘たちも成人し離婚にも理解を示しているそうだ、見事に新生活への道を踏み出している。妻より母親を優先し、母の介護は当然、佳代子がするものと決めつける夫に絶縁状を叩きつけた。夫には青天の霹靂だったようで、あわてふためくのを尻目に出てきたのだ。
ソファの隅にぽつんと座っている千花に気づいて、藍がとなりに腰かける。
「ごめんね、千花ちゃんにはつまんない話だよね」
「いいえ、そんなこと」
両親のトラブルがなければ、今年も平和な大晦日を迎えていたはずだ。
「千花ちゃんも来年は短大生だね」
「はい」
早いもんだね、と藍はつぶやく。
ついこの間まで小学生だと思っていたのに。もう成人なのだ、と改めて月日の流れに気づく。
「英語専攻だったっけ。卒業後はどうするの?」
「東京に行きたいです」
夏美に聞かれたくないのか、千花は小声で言った。
「そう」
「おばあちゃんに反対されそうだけど」
藍の家で先日、いろいろ聞いてもらって、リラックスして話せる、と千花は感じていた。
「ママも寂しがるから、言われたとおり、地元の短大に行くんだから、その先は好きにさせてほしい」
「そうだよね」
藍は大きく頷いた。
「宙くんはいつ帰ってくるの?」
「明日です。大晦日は女だけで盛り上がるって聞いて、逃げたんですよ」
そう、逃げたのだ、と千花は見抜いている。用事があるとか言ってたけど、ウソに決まっている。
昨年までは、家族四人で静かな大晦日を過ごしたが、今年は事情が全く違っている。
父は由宇と暮らすと出ていってしまった。離婚に応じない母は機嫌が悪く、寂しがり屋だから友人を呼ぶに違いない。そんな大晦日に在宅する気にならないのが本音だろう。
「お兄ちゃんはずるい」
千花はつい、本音をもらした。
どちらかというと宙は父の味方、それに気づいている母は、いい気持ちはしないだろう。母子三人の大晦日だったら、どんなに気ますかったことか。
「夏美も、この際、離婚すればいいのに」
酔った勢いで、佳代子はずばりと言った。
「うちなんか、財産分与ったって大したことないだろうし、家ももらえないよ、あのババアの名義だもん」
そうかもしれない。
恵まれているのは自覚している。
仁に執着はない。夫であり、子供たちの父親、それだけのこと。
しかし、妻として母として一家を支えてきたのは自分だ。この安定を何故、手放さなければならないのか。とにかく世間体が悪い、親にも離婚するなんて言えやしない。
二十年の月日を経て、昔の恋人と再会し、一緒に暮らすと言い出した夫。
相手は、どんな男なのだろう。
こっそり物陰から見てやろうかと思ったこともある。
ずうずうしい男だ、離婚も決まらないうちに、こんな田舎町にやってきて、しゃあしゃあと同棲するなんて。
夫と今もセックスするんだろうか。
男同士で?
ああ、ぞっとする。
去年の大晦日は平和だったのに。
春先に仁が心筋梗塞で倒れ、肝を冷やしたけど、大事には至らなず、ほっとした。
いっそ、あの時死んでくれていたら。
そんなことを考えてはいけない。考えてはいけないのだけれど。
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