第2話 別居するって本当ですか

「なんて言ったの?」

 リコン、と聞こえた。まさか「離婚」?

 青ざめる夏美に、仁は冷静な声で、

「私と、離婚してほしいんだ」

 はっきりと告げた。

「どういうこと?」

 突然すぎて訳がわからない。

「好きな人がいる」

 聞き間違えようのない言葉に、夏美は混乱する。

 仁が、従順な夫が、想像もしなかった言葉を口にした。子煩悩で仕事一筋で、一人ではめったに外出もしない。どこで女をつくったのか。

「どんな女? 若いの?」

 夏美は、ふるえる声で尋ねた。仁は片方の口角を上げ、答えた。

「若くもないし、女でもない」

 夏美はふたたび混乱する。それって、つまり。

「相手は、四十五歳の男だ」

 仁の返答に、しばらく口がきけなかった。

 混乱の後で、じわじわと怒りが涌いてきた。

「だましてたんだ」

 かすれた声で言った。

「男が好きなのに、私と結婚して子供までつくった。ゲイだってことを隠すためよね、私をだましてたんでしょ」

「だましたなんて。あいつと会ったのは結婚後だ」

 なお悪い、と夏美は思う。既婚者のくせに何よ!

「本当に済まないと思っている。だけどもう、自分に嘘はつけないんだ。去年、心筋梗塞で倒れて、やっとわかった。俺はあいつと生きたいんだって」

 薄れゆく意識の中で、仁の脳裏に浮かんだのは由宇ゆうの面影だった。

 俺は死ねない、もう一度、由宇に会うまでは絶対に死ねない。

 ぎりぎりと痛む胸を押さえながら心の中で叫んだ。

 が、そんなことを夏美に告げるのは酷だろう。


「この家は渡す。結婚二十年過ぎてるから、すぐにでも名義変更できるよ。慰謝料は払えないけど、給料は今まで通り、君が管理してくれ。年金も、半分そちらに行くように手続きするといい」

 準備してきたのだろう、仁はすらすらと財産分与の件を口にする。

「離婚はしません」

 夏美は、きっぱりと言った。

「私、絶対に離婚はしないと決めてるの。あなたは離婚なんか絶対にしない人だと信じて結婚したの」

 別れないわよ、と夏美はつづけた。


 冷蔵庫に飲み物を取りに、千花は階段を降りてきた。

 リビングドアの取っ手に手をかけたとき、悲鳴のような声が聞こえた。

「顔も見たくない。出てって!」

 母の声だ。千花は、その場に立ち尽くした。

「ああ、出ていくよ。とりあえず別居尾だ」

 父の声が近づいてくる。千花は慌てて階段に向かった。階段の途中で様子を窺うと、父が一階へと降りていくのが見えた。

 心臓が飛び出しそうに高鳴る。

 なに、なんなの、あの話。

 両親があんな口調で言い争うのは聞いたことがない。ショックで足がふらつくが、どうにか三階の部屋までたどり着いた。


 アパートに着いたとたん、妹からの電話。なんだ、といぶかる宙の耳に、切迫した声が飛び込む。

「お兄ちゃん、大変だよ。パパとママ、別居だって」

「は?」

 寝耳に水とはこのことだ。

 宙はある程度、父から事情を聴いている。同性の恋人と再会した、できれば彼と暮らしたい、と、その程度だが。

 そのことを父は、母に告げてしまったらしい。それ以外に別居などという言葉が飛び出す理由が考えつかない。

 宙も千花も子供の頃「夫婦喧嘩」という言葉の意味がわからなかった。他の家庭ではよくあるらしいが、両親が争う姿など見たことがなかったから。

 とうとうこの時が来てしまったのか。


「どうしよう。ねえ、お兄ちゃん。どうすればいいの?」

 泣きそうな声で訴える妹を、どうにかしなければ。

「だいじょうぶだ」

 何がどう大丈夫なのかは不明だが、とにかく宙はそう口走った。

「たぶん今日はじめて、そんな話になったんだろう。冷静になって話し合ってもらおう、な」

 到底、千花を納得させられたとは思えないが、宙は気休めを口にして、どうにか千花をなだめた。


 事の起こりは、宙が高校卒業を控えたある週末。

 春の午後のやわらかな光がリビングにあふれていた。

「とうさん。ちょっといい?」

 宙の声に仁は、読みかけの文庫本から顔を上げた。

いつきが、話を聞いてほしいんだって」

 宙の後ろに、宙の友人、樹が立っている。

「樹君、久しぶりだね。話って?」

 口ごもる樹に代わって、宙が口を開いた。

「樹は来月から、彼氏と東京で同棲するんだ。な、樹」

「そうなんです。家賃も浮くから、親も賛成しています。もちろん、僕らの関係は秘密です。単なるルームメイトだと親は思ってます。

 学生時代はいいんですが、社会人になったら、男と同居ってどうなんだろう。うちの親が僕らの仲を認めてくれるとは思えません。それで」

「ほら、とうさん、いつか俺に言っただろ。『もしお前が同性を好きでも、とうさんは気にしない。なんでも相談しろよ』って」


 話は、さらに二年前にさかのぼる。

「何これ、どっちも男じゃない」

 夏美が、千花が買ってきたコミックをぱらぱらめくって声をあげた。

「勝手に見ないで」

 抗議する千花。当時から腐女子だったのだ。

 二人はすぐに買い物に出てしまい、リビングには仁と宙が残された。その時、仁が宙に言ったのだ、同性が好きだとしても隠すことはない、と。

 宙は、「今のところ女子で手一杯だから」と答えたことを覚えている。


「わかったよ。いざというときには、私から親御さんに話せばいいんだね」

 仁が樹に笑みを向けると、

「はい。よろしくお願いします」

 ほっとした表情で樹が頭を下げた。

「でもとうさん。あの時、なんであんなこと言ったの?」

「実はな。高校時代、同級生と付き合ってたんだ」

 仁は照れ臭そうに言った。

「男の同級生?」

「そうだよ」

「えーっ、とうさんに、そんな過去が」

 宙も樹も、驚きに目を見張った。

「で、どこまでいったの」

 容赦なく追及したのを宙は忘れない。

「キスだけだよ」

 仁は、隠しても仕方がないと思ったのか、正直に答えた。

「本当は、最後まで、と求められたし、私もそのつもりだった。入試が終わって、二人とも志望校に受かったら、って。お互い、合格できたんだけど、いざとなると、怖くて」


 父は、その後、男とは付き合わなかった、と聞いた。

 母と結婚し、そのあとで本物の相手に出会ってしまったのだ。

 今回の別居話。息子としてはどう受け止めるべきか。

 宙の答えは、すぐには出そうにない。


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