第3話 再会
一階には、仁のささやかな書斎がある。ガレージ横の小さなスペースだが、夏美が仁の希望を取り入れてくれた、安らげる場所だった。コンパクトな三階建て、思い通りの注文住宅で、新築当時は自然と帰宅が早くなった。
その家とも、これでお別れだ。離婚話を進めるために、また訪れることはあるだろうが。
荷物は、もうまとめて段ボールに入れてある。あとは夫婦の寝室から当座の衣類を持ち出すだけ。
「それじゃ、行くよ」
出がけにリビングの夏美に声をかけたが、返事はなかった。
タクシーで実家に向かう道中、仁の脳裏にはさまざまな思いが流れていた。
この春の、二十一年ぶりの由宇との再会。会えないだろうと思ったが、由宇は来てくれた。
二十年後、あの公園で。
子供も大人になる、その時にもう一度会いたい。
ムリだよ、と由宇は言った。気休めだと思われただろうか。
それでも、結局は来てくれたのだ。
仁さんがハゲてメタボ腹になってるのを見てやろうと思ってさ。
そんな憎まれ口さえ、仁には嬉しかった。
詐欺だよ、ぜんぜん変わってないじゃん。
由宇の声はふるえていた。
そう言う由宇こそ、確かに年を重ねてはいるが、老けたとかオヤジとかいう感じではない。あの頃のままなのだ。
「会えない方がいいと思った、オヤジになった俺に幻滅されるくらいなら」
泣きそうな声に、思わず抱きしめそうになる。一歩踏み出すと由宇は後ずさって、
「さわらないで」
と言った。
「あの時も、そう言われたな」
さわらないで。あなたはもう、僕のものじゃない。
夏美に離婚を告げ、きちんと別れ、由宇と暮らすつもりだった。その矢先に妊娠が判り、話を切り出せなくなった。
「おしまいにしましょう」
動揺も見せずに口にした由宇。
「待てよ。確かに今は言えない、ショックでお腹の子に何かあったら困る。でも、無事に生まれたら、その時は必ず」
「生まれたら、かわいくて、却って言えなくなるんじゃないの」
返す言葉がなかった。
「それでいいんですよ」
由宇は寂しそうな笑顔になり、自分の父親のようにはなるな、と言った。
由宇が生まれた病院に、彼は現れなかった。母が小さな由宇とアパートに戻ると、部屋はもぬけの殻。それっきり消息不明だという。父親はいないと聞いていたが、そんな事情があったとは。
「面倒になったんだろ。赤ん坊はギャーギャー泣くし、六畳一間でやってられるかって」
吐き捨てるように由宇は言い、
「いいお父さんになってください」
別れの決意は変わらないのだった。
最後に、もう一度抱きしめたい。仁が手をのばすと、
「さわらないで」
もう何も、誰も由宇の決意を動かせないのだ。
夜の十時過ぎに実家に着いた。灯りは消えている。父はもう眠っているのだろう。
玄関に入ったところで、仁は、由宇に電話した。
「はい」
その声だけで、ほっとする。
「離婚のこと、話したよ」
「本当?」
「ほんとだよ。待たせてごめん」
「ううん。嬉しいです」
「OKはもらえなかったけど」
由宇は一瞬黙ったが、すぐに明るい声で、
「来週、そっちに行きます」
「うん。待ってる」
頭が割れそうに痛い。
ワインを飲みすぎた自覚はある。
一夜明けても、まだ実感がない。あれはただの悪夢だと夏美は思いたかった。
仁と、四十五歳だという男との出会い。
「公園で声をかけられた」
「なにそれ。ナンパ?」
「向こうは前から私を知っていた。いきつけのカフェで働いていたんだ」
由宇はカフェの客として来ていた仁に好意を抱いたが、急に仁が来なくなった。仁が別の営業所に移ったためだ。
ある夜、偶然、電車の中で仁を見かけた由宇は仁を尾行し、公園で立ち止まったところで声をかけた。
「ついていったの」
呆れ声で夏美が問う。
「うん」
それで男と寝たのだ。悪寒がした。
この人は男と関係した。浮気なんかできない男、と見くびっていた夫は、同性と。
不潔、とか、おぞましい、とかいう言葉が浮かんだが、声には出せなかった。
差別的だと思われたくない。こんなことになってもカッコつけるなんて。
LGBTという言葉が広まり、夏美も理解があるつもりでいた、多様性は認めるべきだと。ただ、そういった世界は自分たちとは無縁だと思い込んでいた。だけど、もう他人事ではない、自分事となった今、はいそうですかお幸せに、などと言えるはずがない。
「倒れてみて、はっきりわかった。明日も生きていられる保証なんてない。会いたい人に会うべきだって」
「それで、会ったの」
「今年の春に。二十一年ぶりだった」
「連絡をとりあってたのね」
怒りがこみあげてくる。
「いや」
「でも、居場所はわかってたんでしょ」
仁の横顔をにらんだが、仁は前を見たまま淡々と続けた。
「二十年後に会う約束、いや、私がそう言っただけだ」
ばかばかしい。大昔のメロドラマじゃあるまいし。二十年後に会いましょう?
それで会えるものなの?
しかし実際に、二人は再会してしまった。そして夫は彼を選んだ。離婚して、彼と暮らしたい、とはっきり言った。
彼を実家、つまり、この町に呼ぶと聞いて、夏美はさらに激高した。
「なに考えてるのよ。こんな田舎町で、ヘンなうわさが広まったら私たちはどうなるの?」
実家の両親、兄一家も、この町にいられなくなる、と夏美はわめいた。
「そうならないように気を付けるよ。父にはもう話してある、昔の職場の後輩が、行くところがなくて困ってるから置いてやってくれって」
仁の父はかつて中学の校長を務めていた。人望もあるし、遠縁がウチを頼って来た、とでも言えば疑われはしないだろう。
そんな説明を聞いて、夏美は皮肉をこめて言った。
「用意周到ねえ。それならまあ、ごかませるかもね」
「悪いんだけど」
と仁は、申し訳なさそうに、
「別居の理由は、うちの親父の介護の件でもめた、ということにしてくれないか。他に考えつかなくて」
義父の介護を嫌がる、わがままな嫁を演じろ、と仁は言っているのだ。
夏美の怒りが爆発した。
「もう顔も見たくない! 出てって!」
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