第14話 それぞれの決意

 土曜の午後、今日も夏美は佳代子と藍を自宅に呼び、ぐだぐだ愚痴をこぼしていた。仁との離婚をどうにかして避ける方策はないかと、話題はその一点のみだ。

「相手が女なら、まだましだった」

 夏美がため息をつくと、

「そうかなあ」

 佳代子は口の端だけで笑い、

「順子っていたじゃない」

「うん」

 夏美は一気に高校時代に引き戻された。

 あまり好感がもてない相手だ。学校推薦で有名私大に進んだ要領のいい女。

 こっちは受験で苦しんだのに。三年生が殺気立つ一月にも、同じく世渡り上手な推薦合格した子と廊下の隅で談笑していた。

 夏美の方が順子より成績は良いくらいだった。ただ、推薦を勝ち取るには一、二年時の成績も重要だ。三年になってからがり勉せずとも、そういう道があることを調べておいた順子の作戦勝ち、夏美が嫉妬するいわれはないのだが。

「順子って、東京で金持ちと結婚したんだよね」

 藍もおそらく、順子を好きではないはずだ。

 受験の苦労もせずに有名大学に入り、美人でもてもて、金持ちと結婚。順風満帆な人生だ。

 しかし佳代子はニヤニヤしながら、

「離婚したってよ、ダンナが浮気して」

「えっ」

 夏美は目を丸くして驚いた。

「相手の女は三十そこそこ。隠し子がいたんだって」

「ええっ」

 夏美も藍もそれ以上、言葉が出なかった。

 順子夫婦には二十歳過ぎの娘が二人いた。夫がその女に産ませたのは男の子。娘たちと二十も年の離れた異母弟ができていたのだ。

「男に子供はつくれないからさあ」

 女の方がマシだとは言えないだろう、と佳代子は言いたげだ。

 だからといって、夫の恋人が男でよかった、わけではない。

 夏美は黙り込んだ。


「私、離婚することに決めた」

 佳代子の宣言に、夏美も藍も声が出なかった。

「ダンナの定年まで待とうと思ったけど、もうやめた。時間がもったいないよ」

 佳代子の夫は五十五歳。あと五年待って、退職金をいただいて離婚するつもりだった、と佳代子はつづけた。

「もう待たない、四十台のうちに別れるわ」

「佳代子」

 冗談を言っているようには見えない、真剣な顔つきだ。

「今日だって、帰ったらきっと、あのババアが嫌味言うに決まってる。でも、もう顔色をうかがったりしない、友達の家で愉しくおしゃべりしてきたって言ってやるわ」

 積年の恨みつらみが噴出する。

「いつも母親に味方して、私は家政婦扱い。年取ったら母や自分の介護をして当然だと思ってる」

 結婚したとき、親とは別居するって約束したのよ、それも守らなかった、と佳代子の恨み節は止まらない。


「いちばん許せなかったのはさ。会社で嫌なことがあったらしくて、帰ってきて私に当たるんだよ。訳も分からず怒鳴られた、あの口惜しさ、二十年たっても忘れない。弱い者に当たって憂さ晴らしなんてサイテーだ、そういう男なんだよね」

 夏美はそういうの、ないでしょと佳代子に問われ、

「ない」

 と答えるしかなかった。

「本当にいいご主人だよ、仁さんは。今まで黙って夏美女王様に仕えてきたんだから、もうこのへんで解放してあげたら。私なら、そうする。十分、いい夫でいい父親だったでしょ」

 佳代子はずけずけ言った。

「他人ごとだと思って」

 思わず気色ばむ夏美。

 私は夏美の味方、と言ったのはウソだったのか。離婚しろというの?

「まあまあ。そのへんにしといたら」

 藍が、やんわりと口を挟む。

「夏美には感謝してる、夏美の話を聞いて、やっと決心できたもん」

 せいせいした顔で佳代子が言う。

 夏美は、何と答えてよいか分からない。



 樹は眠れなかった。何度も寝返りをうつだけで、時間が過ぎていく。となりでは風太が、規則正しい寝息をたてている。

 これからどうなるんだろう。

 宙からの電話が気になっていた。

 高校時代から惹かれあい、約五年、同じ時間を過ごしてきた風太。

 あれは二年生の秋だった。吹奏楽の県大会で、樹は風太の存在を知った。

 風太の学校の演奏が始まると、樹はレベルの高さに驚嘆した。特に目立つのがクラリネット、ソロが始まると、強烈な音が矢のように樹の胸を射抜いた。それが風太だった。

 同じクラリネット担当だが、自分とは雲泥の差だ。歯切れのいい力強い音に圧倒される。そして、生き生きと演奏する彼から目が離せなかった。


 風太の高校は関東大会に進出、樹たちは予選落ち。そんなもんだよな、と帰り支度をしていると、風太が樹のところにやってきた。

「お前、俺のこと見てただろ」

 返事ができなかった、その通りだったから。

 目の前に立つ風太のオーラにも圧倒された。

 赤くなったり青くなったりしていると、いきなりキスされた。

「他高のヤツは、やめとけ」

 風太の仲間らしいのが、からかうように言った。

「じゃな」

 いたずらっぽく笑って、風太が去っていく。

 初めてのキスなのに。

 遊ばれたんだ、ひどい。いつもあんな風に?

 そんなヤツだと思いたくないけど。目力の強い瞳、けっこうイケメンで、もてそう。

 ひどいやつだ、と恨みながらも、忘れられなかった。

 でも忘れなくては、男を好きになるなんていけないことだ。

 同性にしか惹かれない自覚はあったが気持ちを抑えて生きてきた、今度もそうしなければ。


 数日後、練習が終わると、暗い校門前で、風太が樹を待っていた。

「こないだは、ごめん」

 無視して通り過ぎようとするのを腕を掴まれ、

「好きだ」

 ストレートに言われて、恋人関係になった。

 樹を抱きしめた風太の体は冷たかった。秋の終わり、暗くなるまで外で待っていて冷え切ったのだ。そのことに気づいて、樹は全身が熱くなった。


 宙のお父さんみたいに、離婚なんてハードルはない。僕たちは愛し合っている、一緒に暮らしたい、それだけなんだ。親たちに打ち明け、許してもらえなくてもいい、意思表示だけできればいい。

 怖くなんかない、風太がいるから。

 どんな障害があろうとも、風太と生きていく、と、樹は改めて決意する。

 風太の背中にぴったりと体を付けて、樹はいつしか眠りに落ちていた。

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