第13話 いい子からの卒業
仁の父と会うなんて、由宇には大変なプレッシャーだ。仁のかつての職場の後輩として訪問し、一晩泊めてもらうだけなのだが。
本当の関係を明かすことはできない、あくまで後輩だと偽って紹介すると仁は言う。
ウソをついて会ってしまっていいのか。その後、実際に同居するとしたら罪悪感が半端ないだろう。
仁は玄関の引き戸を開けながら、
「ただいま」
朗らかに言い、由宇に上がるよう促した。
「いらっしゃい」
仁の父、正が玄関に現れた。
「お邪魔します」
由宇は慌てて頭を下げた。
来年八十歳になるという。白髪頭は、まだふさふさしている。三十年後、仁はこんな感じだろう。そう思える、よく似た父親であることに、由宇は感慨深い。
由宇のことを仁は、打ち合わせ通りに紹介した。
「息子がお世話になりました。ゆっくりしていってください」
いつもは一人きりなので、父は来客を喜んだ。
お茶を出しながら、
「またいつでも遊びに来てください」
の言葉も嬉しかった。
とはいえ、何を話していいか分からない。
「由宇は早くに両親を亡くしていて。身寄りがないんだ」
仁の言葉に、正は、
「それは大変だったねえ」
「はあ」
なんと答えていいか分からない。
「間取りでも見る?」
仁が由宇を促して立ち上がった。
両親の結婚を機に建てられた家だと聞いた。当時は仁の祖父母も健在で、部屋数は多かった。仁が高校時代まで暮らしたとはいえ、それでも三人だけだ、祖父母が没した後は持て余したことだろう。
「子供部屋、三人は大丈夫なように作ったんだってさ」
仁が苦笑する。結局、仁は一人っ子となった。
夜は、一階の客間に布団を二組しいて、そこで寝た。
自分たちは不倫関係であって、離婚が成立するまでは、せめて、やましいことはしない。
互いに口にはしなかったが、仁の実家でも、その思いを貫き通した。
静かな夜だった。
同じ夜を共に過ごし、一緒に朝を迎えたのは、過去に数回しかない。隣に仁がいると思うだけで由宇の心はふるえた。
何もしない、手もにぎらない。それでもいい、ここに仁さんがいる。
仁は、いつの間にか寝てしまったが、由宇はそうはいかなかった。
あれこれ考えていると眠ることができず、夜明けが近くなって、やっと睡魔に襲われた。
日が高くな昇り、ようやく目覚めて、由宇は焦りまくった。
「おはようございます。すみません、寝坊して」
食卓には、由宇の分の朝食が載っている。
「お客さんなんだから。ゆっくり寝ていてくださいよ」
「寝坊して遅刻する子には慣れてるよ、父は中学で教えていたから」
心配するな、と言いたげに仁がフォローした。
心筋梗塞で仁が倒れた夜。
病室に正が現れ、きっぱりとした声で、
「逆縁は許さんぞ」
それだけ言い渡した。
病弱だった母は、すでに他界している。ここで息子の自分に先立たれたら、父の嘆きはどれほどだろうか。
自分ひとりの命じゃなんだ、と仁は改めて思った。
そして、由宇のこと。
やはり会いたい気持ちを抑えきれない。倒れる直前まで忘れたつもりでいたが、そうではなかった。いま思うのは由宇のことばかりだ、と言ってもいい。
来年は必ずあの公園に行こう。由宇は来ないかもしれないが、そうであっても行かねばならない。
いい子でいたかった。
両親に何の心配もかけない、いい子であり続けたかった。一流大学を経て、きちんとした勤めについて、結婚して子供をつくる。
それが一人っ子である自分の義務だし、当然のことだと思っていた。ちゃんと大学を出て、しっかり働き結婚し、両親に孫の顔を見せる。
結果的にはその通りになった、少なくとも母は、自分の息子に満足していただろう。ただ、その前に、高校で仁は昭と出会い、結婚してからは由宇と。同性に恋心を抱いてしまった。
それは罪だと思っていた。だが、いまの父の言葉に接して、考えが変わった。
親より先に死んでしまう、いわゆる逆縁というものが、どれほど残された親にとってのダメージか、想像もできない。もちろん宙や千花が先立つなんて考えたくもない。
ただ親より長生きすることが、親孝行なのか。母に続いて自分まで、となると、父は一人ぼっちになってしまう。逆縁は許さない、の言葉が、とてつもなく重く思えてきた。
「俺は死なないよ」
小さい声で、父に伝えた。
「絶対に死なないから」
貴方より先には死にません。
それだけしか親孝行はできない。この先、由宇に会えたら絶対に離れないし、会えなくても、由宇だけを思って生きていく。それは夏美や子供たち、父に対しても裏切りだろうが、死の淵を覗き込み生還した今、そうとしか考えることができない。
昭に何もかも許すと決めたのに、そうはできなかった。ゲイだと認めるのが怖いんだと晶は指摘したし、確かにそうかもしれない。
だが正確には、そんなことをしたら両親や周囲が求める「いい子」でいられなくなるから、ではなかったか。
かつて、夏美と離婚して由宇と暮らすと決めたときも。結局は子供ができて別れることになった。辛い出来事だったが、これでいい子のままでいられると、ほっとしたのではなかったか。
いい息子、いい夫、いい父親。
ずっとこのまま生きていくつもりが、心臓が止まりかけて、やっと本心に気づいたのだ。
もう後戻りはしない。
「いい子は卒業だな」
深夜の病床で仁はつぶやいた。
「来週、行きます」
そうは言ったが、自分でも半信半疑の由宇だった。
仕事は非正規、アルバイトみたいなもので、すぐ退職できた。アパートも本当は一か月前に解約を申し出ないといけないが、どうにかクリア、大した荷物もないとはいえ、冷蔵庫等はきちんと処分に出さないといけない。
結局、一週間では片が付かず、次の週末に、という話になった。
「やっぱり無理でした」
苦笑して伝えると、電話の向こうで仁は笑って、
「だろうな。長年住んだ東京を離れるんだから。今更焦らないよ、ちゃんと決まったら連絡してくれ」
明日は仁のもとに行くとなった日。
がらんとした部屋を、由宇はしみじみと見回した。
築数十年の六畳一間のアパート、日当たりも良くない。
元は日の差し込む部屋にいたが、通りに面した建物で、建て替えや駐車場への転用で転居を余儀なくされる。そのたびに日当たりの望めない、路地裏の部屋しか借りられなくなった。
四十を過ぎるとバイト的な仕事さえ激減する。正直、生活するのがやっとで将来の展望など望めない。
そのうち仕事もなくなり、家賃を払えなくなってホームレスになったりして。
そんなふうに自虐的になることもあったから仁の申し出は、信じられなかった。
本当に再会できるとは、ましてや一緒に暮らせるとは夢のまた夢。調子のよすぎる妄想でしかなかった。
どんな結果になろうと、もう仁の元に行くしかない。それが由宇の結論だった。
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