第9話 感謝をこめて
二十一年ぶりの再会の夜。上野のビジネスホテルで仁と由宇は、何時間も話し合った。
若き日、由宇と過ごした二度目の夜。桜屋敷という姓を告げると、由宇は、
「お屋敷に住んでるんだ」
無邪気な反応をした。
仁がこの姓を告げると大体、こうしたリアクションが返ってくる。桜の木がたくさんある豪邸住まいなのだと。
「桜の木は、まだあるの?」
[うん」
仁は微笑む。
生まれたとき、両親が庭に桜の苗を植えたという話に、由宇は目を輝かせたのだ。
「いいなあ、僕、庭のある家なんて住んだことないよ」
由宇は、うらやましそうに言った。親が生まれた子のために植樹する。そんなことへの憧れもあっただろう。
桜は大木に育ち、由宇に話した時からも月日が流れて、今は老木になろうとしている。
あの桜を由宇に見せたい。その思いは今も変わらない。
仁の左手に結婚指輪が光っていることを、再会してすぐ、由宇は確認していた。
会うことはできたが、仁は既婚者のままだ。だとすれば、由宇は何もしない。再会するだけでも、仁が妻子を裏切っていることに変わりはないから。もしかしたら、指輪が手から消えているかも、という期待もあったが、それは、いい父親になってほしいという、自分の願いが叶えられなかったことになる。
これでいいんだ。
体の関係は要らない。
こうして会えただけでいいんだ。
半分本当で、半分はウソ。
ベッドの上には浴衣が置かれていた。寝巻にしろということか。
「温泉みたいだな」
「そうですね。ベッドに浴衣って似合わないけど」
「いつか、温泉に行こう」
「はい」
そう答えながら由宇は、そんな日が来るのか実感がわかない。
別々に風呂に入り、上がってきて浴衣姿になる。
「やっぱりベッドに浴衣って変だな」
仁が言い、二人で小さく笑いあう。
右と左のベッドに別れて横になり灯りを消してからも二人は話し続けたが、やがて仁の寝息が聞こえてきた。
本当に、同じ部屋に仁がいる。それが由宇は信じられない、夢なら醒めないでほしかった。
トモちゃん、ありがとう。
仁と別れて泣き暮らす中、ただ一人の友人でありゲイの智己に、どれほど慰め励まされたことか。
二十年後、きっと会える、と力強く言ってくれた。
智己は、由宇より一回り年上だった。まだ仁と出会う前。
「お互いフリーだろ、付き合ってみたら」
ゲイ仲間の紹介で知り合ったが、恋愛の相手って感じじゃない、でも友達にはなれそう、と付き合いが始まった。
由宇が仁と関係するようになり、悩みを打ち明けると、
「俺、彼氏と暮らしてたんだよ。名前は孝之」
タバコをくゆらせながら、智己は話し始めた。
「エイズで死んじゃったんだ」
由宇は、ぎくっとした。一時期、不治の病と言われ、ゲイに患者が多かった。当時、由宇はまだ中学生だったが、発症したら助からないと聞いて怖かった。智己の話を聞いた頃は、薬の開発が進み、さほど恐怖は感じなくなっていたが。
HIV感染症は、血液、体液等を介して感染する。
感染後二週間から四週間で急激に増殖を始め、急性期と呼ぶ。
発熱・のどの痛み・だるさ・下痢など、風邪やインフルエンザに似た症状がある。
通常は数日から数週間で症状は自然に消えてしまう。HIVウィルスが体内に入ると免疫を徐々に破壊していき、数年から十数年のキャリア期間ののち、免疫減少により感染状態になる。この時期の感染を
知り合った頃、孝之は既にHIVのキャリアだった。キャリア期間は数年から十年ほどと様々だ。自覚症状はないが、やがて発症すると、健康な人なら感染しないような感染症や悪性腫瘍、神経障害などの様々な病気にかかるようになる。当時は発病イコール死を意味した。
「HIVキャリアだと知って、みんな離れていったのに。おまえは違うんだな」
孝之は意外そうに言った。
智己は離れなかった。彼がエイズだと知った時には既に、どうしようもないほど惚れていたから。
十歳年上の孝之は、三十台半ばだったが、運命を悟っているのか、老成した雰囲気があった。
ヘンな奴だな、と言いながら、智己をそばにおいてくれた。孝之のマンションで二人は暮らし始めた。
「ハグしか許してくれなかったよ。でも俺、ちゃんと調べたんだ。コンドームをつけてやれば移ったりはしない」
一度、キスをしてぶっ飛ばされた、と智己は笑った。
「唇を押し付けただけだぜ。唾でも移るっていうけど、それにはバケツ一杯の唾液が要るんだ」
次々とたばこを吸いながら、智己は続ける。
「一度でいい。タカさんと、ちゃんと愛し合いたかったなあ」
窓の外に煙を吐き、智己は遠い目になった。
孝之は、ついに発症した。急激に弱っていき、入院。すぐに面会謝絶となり、あっという間にこの世を去った。
「大好きな人が元気でいる。羨ましいよ」
仁と別れた辛さを訴えた時、智己はそう言った。
智己は時々、咳き込んだ。
タバコは万病の元と言われるし、智己はどんどん顔色が悪くなる。由宇は何度も禁煙を勧めたが、聞く耳持たなかった。
「俺はどうなってもいいんだ。でもお前は吸うなよ、美容に悪い」
笑う目じりの皴は深く刻まれていた。四十台にしては白髪も多い、これもタバコのせいだろうか。
五年前。智己に呼ばれて部屋に行くと、末期の肺ガンだと告げられた。余命三か月だという。
だから、あんなに言ったのに!
由宇がショックを受けていると、智己は穏やかな笑みを浮かべ、
「やっとタカさんの傍に行ける」
ほっとしたように言うのだ。
「俺、ビビりだからさ。自殺なんか、とてもできない。タバコは体に悪いっていうから、死ねるかなあと思って一生懸命、吸ったのさ」
「トモちゃん!」
死の宣告をされて、こんなに冷静でいられるものなのか。泣きたいのに由宇は泣けない。
「そんな顔するな。俺は幸せなんだよ。もうじき、タカさんに会えるんだから」
「いやだ、行かないで。俺、トモちゃんしか友達いないんだよ。一人にしないで!」
涙声で訴え抱き付くと、智己は由宇の背中を撫でて、
「ごめんな。俺、本当は弱虫なんだ。タカさんの思い出だけじゃ、もう生きていけない。早くタカさんに会いたい、そればっかり考えて生きてきたよ、この二十五年」
二十五年。由宇が顔を上げると、智己は笑顔で、
「仁さんだっけ。二十年たったら会うんだろ。その日を楽しみに待ってろよ」
きっと会える、と智己は言ったが、由宇は信じられなかった。
その日から二か月持たずに智己は逝った。
面会謝絶後。ただの友人である由宇は病室に入ることを許されず、最期にも立ち会えなかった。
トモちゃん、ありがとう。トモちゃんが言った通りだ。
俺、仁さんに会えたよ。いっぱいいっぱい励ましてくれて、本当にありがとう。
涙が伝い流れ、由宇の枕を濡らした。
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