第19話、結婚と愛
仁の携帯に、千花から電話があった。
藍の家で由宇と夏美が会うことを知って、自分の気持ちを伝えたかったと、
「私はパパたちを応援してる」
はっきりと告げた。
「ありがとう」
かすかに声がふるえた。娘から、こんな言葉をもらえるとは思わなかったのだ。
なんだか胸が詰まり、これで由宇を心置きなく夏美に会わせられると思った。
二月中旬、暖かな日曜の午後。
由宇は仁が運転する車で藍の家に向かった。
「終わったら電話くれ」
「うん」
緊張しないといえばウソになる。どれほど非難されても反論はできない、自分は既婚者に手を出した不倫相手なのだ。
呼び鈴を押すと、
「いらっしゃいませえ」
ソアが開き、真っ先に顔を出したのは佳代子だった。夫と別居し離婚話も進行中とスッキリした状態で、夏美の件は傍観者でいられる。
「私、夏美の友人で佳代子といいます。あ、ここの家主はこっちの藍です」
「藍です、よろしく」
リビングで由宇は、仏頂面の夏美と対面した。佳代子と藍はキッチンに引っ込む。
「わーつ、おいしそう」
由宇が持ってきたケーキの詰め合わせに歓声を上げる佳代子。
「夏美はどれにする?」
ケーキの箱を見せに行ったが、夏美は、
「私はいらない、お茶だけでいい」
と不機嫌だ。
「なんだか普通の人ねえ」
「そうだね」
紅茶をいれながら、佳代子と藍が小声で話す。
どんな男を想像していたのか。佳代子の口調には、なんとなく落胆の色が。そっち系のタレント、というより、由宇は何の変哲もない、そこらへんに転がっていそうな男だった。
由宇は紺色のカシミアのセーターを着ていた。
夏美には見覚えがある。
「そのセーター、私が夫にプレゼントしたものね」
目の前の男は、ばつの悪そうな顔をした。
「三年前の誕生日にあげたの」
ほとんど着用しなかったようだ、あまり気に入らなかったのか、どうせバーゲン品だからいいけど。
「ごゆっくりどうぞ」
紅茶を運んできた藍がキッチンに消えると、しばらく沈黙が流れた。仕方なく夏美から、
「謝りたいって、何を?」
棘のある口調になる。
「何をどう、謝るんですか」
由宇は一瞬、ひるんだが、静かに、
「仁さんに家庭があることを知りながら、関係を持ちました、そのことは謝ります」
と、頭を下げた。
「お付き合いしているうちに、仁さんと一緒に暮らしたいと思うようになりました、それもいけないことですよね」
「当たり前じゃない」
男同士で肉体関係をもち、同棲したいと思った、なんて聞くだけでそっとする。宙が出来て別れることになったのに何故、また会ったのか、二十年も過ぎてから。
問題は現在の状況だ。
大昔のことは、仁が黙っていればなかったも同然、夏美は一生、幸せな主婦として生きられただろう。
「会えるわけないと思ってました。会っても、仁さんの気持ちが変わっていたり、昔のイメージが崩れてしまって、お互いに幻滅するかも」
それならそれでいい、と由宇は思ったのだ。そうであったら諦めもつく、と。
仁にとって自分との月日が思い出に変わり、あの頃は楽しかったな、みたいなことを言われたとしても。
だが再会した時、
「どちらの思いも同じだったので」
由宇ははじめて夏美を正視し、言葉を続けた。
「僕は、仁さんを愛しています。仁さんも、そばにいろと言ってくれます。もう離れて生きることはできません」
夏美は言葉に詰まった。
なんて厚かましい、と罵倒したかったのに。
私は仁の妻だ、正当な配偶者で、その権利を脅かす目の前の男を排除する権利がある。
そのような返答しかできないのだ、私には言えない、愛してるなんて。
「仁さんを愛しています。そのことについては謝罪はできません、仁さんも病気をされたし、僕も今は元気だけど、いつ何があるか分からない、だから今が大事んんです、一緒にいたいんです」
本気なのね、と言おうとしたが出来なかった。
そんなことは会う前から分かっていた。
私の負けだ、そんなことも、ずっと前から分かっていた。
だからといって、離婚はできない。
私はあくまで妻の権利を主張する、こんな男の思い通りにさせるもんか。
由宇は仁と同居し、夏美は離婚に応じず、別居生活を続ける。それを確認するための顔合わせに過ぎなかった。
由宇が帰ると、
「どうだった?」
外野の二人は夏美の顔を見たが、返答はなかった。
「今日は帰る」
と、夏美も早々に出ていった。
「夏美、相当にショックを受けたみたいね」
佳代子は残り、ケーキをほおばっていた。
「おいしーい。夏美、一個も食べないで帰ったね」
「そうだね」
藍の心境も複雑だ。
夏美が一方的に由宇を責めるのかと予想していたが、取り乱した声は聞こえなかった。
二人のやりとりを、藍は少しだけ耳にした。
「仁さんを愛しています」
由宇がそう言ったと告げると佳代子は、腕組みして唸った。
「ストレートだねえ。五十近くなってさ。愛なんて口にしないもんね、普通。ラブソングだけの世界だよ」
「そうねえ」
いまどき結婚会見でも、愛がどうこうなんて聞いたことがない。まあ、愛しているから結婚するのだ、ということなっているから。
「結婚するとき。佳代子は、ご主人を愛してた?」
「どうかなあ。そろそろ落ち着くか、と思った、つうのが本音かな。この話を蹴ったら、次が来るか不安だったしね」
「そっか」
「大失敗だったよ」
佳代子は渋い顔をした。
「藍は公務員だからいいよね。私も今度生まれてきたら安定した仕事をして、結婚はしない」
佳代子が頬杖をついて、あらぬ方向に目をやり、
「愛と結婚って、無関係なのかもね」
と、つぶやいた。
早くひとりになりたかった。空は青いが心は真っ暗闇、泣きたい気持ちで車を走らせる。
夏美は車内から、コートを手にした紺セーターの男が、右前方を歩くのを見た。由宇だ。
スピードを落として様子を窺うと、由宇はコンビニの駐車場に入っていった。
車の前に、仁がいた。
由宇に気づき、笑みを浮かべる。
やさしい微笑みだった。仁と付き合い始めた、自分たちの関係が一番良かった頃でさえ、あんな笑顔は見たことがない。
由宇の表情は分からないが、背中にほっとした空気が漂っていた。
夏美はふたたび敗北感に襲われた。
正式な妻なのに、私が離婚に応じない限り、仁は不貞の夫で、由宇は不倫の相手でしかないのに。世間の良識派すべてが、こちらの味方なのに、自分は負け続けているのだ。
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