第6話 忘れなくていいんだ
仁が出ていってから、そろそろ十日。
「今日は、いい夫婦の日です」
テレビキャスターの言葉にカチンときて、夏美はリモコンを切った。
何がいい夫婦の日よ!
1122、の語呂合わせ。おたくは本当ににいい夫婦じゃない、なんて言われたこともあるが。別居中の今では、頭にくるだけだ。
今日はパートが休みだ。働いていれば気もまぎれるが、千花は学校だし、ひとりの家でイライラが募るばかり。
仁が出ていった翌日、土曜の午後に、宙から電話があった。
千花から別居の話を聞いた、とのことで、ぎょっとしたが、自分から言うのも勇気がいるし、ある意味ほっとした。
「とうさんが出ていった理由は。あの件だよね」
同性の恋人の存在を、宙は知っていた。
そんなことを息子に話していたなんて。怒りがこみあげたが、自分から宙に告げのはためらわれたから、少し気楽になった。いつまでも隠しておけることでもないし。
「千花には、俺から話すよ」
「そうしてくれる?」
「うん」
正直、ほっとした。
土曜の昼。
夏美は、佳代子と藍を自宅に招き、ランチパスタを楽しんでいた。いや、心の底からは楽しめなかったが、気の置けない二人との他愛ないおしゃべりに救われた。
食後のコーヒーを飲みながら、佳代子が口火を切った。
「で、話って?
ついに、この時が来てしまった。夏美は深呼吸して、
「あの、あのね。仁が、出ていったの」
佳代子も藍も、怪訝な顔。あのご主人が、と顔に書いてある。
「別居、したいんだって」
声がふるえるのが、自分でもわかった。
「えっ」
「なんで?」
二人とも当然の反応。
「一緒に暮らしたい人がいるって」
「はあ?」
「それって。つまり、その」
浮気なの、と佳代子も藍も聞きたいのだが、口に出しずらい。
「既婚者に手を出すなんて、図々しい女!」
ややあって佳代子が、吐き捨てるように言う。
沈黙が流れた。
「それがねえ。女じゃないのよ」
「ん?」
男なのよ、と絞り出すように言い、夏美は泣き崩れた。
「泣かないで、夏美」
「あたしたちは、夏美の味方だよ」
やっぱり泣いてしまった。平静ではいられなかった。情けないと思いながらも、長い付き合いの二人に打ち明けてしまって、夏美は安堵していた。
そうだ、私には心強い味方がいるんだ。男たちには負けない!
涙を拭き拭き、夏美は詳細を話す。
相手が四十五歳の男だと聞いて、
「リアル『おっさんずラブ』?」
藍がつぶやいた。そんなタイトルの映画がヒットしたと聞いていた。カップルの片割れは間違いなく中年男。
「二十年も思い続けてたんだ、二人とも」
藍は驚きを隠せない。
「普通はすぐ切り替えるよね、男も女も。♪別れたら次の人~」
佳代子は、「別れても好きな人」の替え歌を口にしたが、不謹慎だと気づいたのか、すぐに黙る。
「一緒に住むって、どこで?」
「今の仕事は続けるんでしょ。だったらこの町にいるってことよね。お父さんを置いて、よそに行くはすないよね」
「その男とは、どこかで会うだけじゃないの?」
佳代子と藍があれこれ言うのを遮り、夏美は、
「そんなんだったら、離婚なんて言わないよ。今まで通り、ばれないように付き合っていけばいいんだから」
しかし、仁は離婚したい、あいつと暮らしたい、とはっきり言った。同居するつもりで、そう言ったのだ。
実家で、なんて言ったが、まさか、本当にこの町で?
ありえない、と夏美は思った。
死ぬほど辛い、仁との別れ。だが、既婚者というだけでも罪深いのに、子供ができてしまっては、身を引くしかない。
「忘れたいのに忘れられない。どうすればいいの?」
涙で訴える由宇に、唯一のゲイの友人、
「忘れなくていいんだよ」
と言った。
「忘れようとするから苦しくなる。終わってしまう関係なら、いつか自然に忘れていく、その時を待てばいい。無理に忘れようとしなくていいんだ」
その言葉は沙漠に注がれた水のように、由宇の心に染みこんでいき、かなり気持ちが楽になった。
「自分のものにならなくていい。一生、会えなくてもいいから、元気でいてくれたら、どんなに嬉しいか」
静かに智己は口にした。
「由宇の彼氏は元気なんだろ、幸せじゃないか」
智己のパートナーは、かなり前に亡くなったという。
「あの人に会えるなら、世界の果てまででも行く。でも、どこにもいないんだ。死ぬってそういうことだよ」
由宇がうらやましい、と智己は言った。
無理に忘れようとする必要はない。
終わるものなら終わる、気持ちが変わり、新しい誰かと出会って自然に忘れていく。そんな自分は想像できないが、絶対にそうならないと断言はできない。
黙って時の流れに身を任せるか。
二十年後に、と仁は言った。
その時、まだ仁さんを好きだったら、あの公園に行ってみよう。たとえ会えなくても、いや、おそらく会えないだろうが。それはそれで仕方がない。
様々なことがあった。
智己も他界し、由宇は生きる希望を失っていた。死のうかなあ、とぼんやり思い、あの公園に行くまでは、と死神の誘惑を払いのけた。
なぜ忘れないのだろう。
昔の恋なんか、きれいさっぱり忘れてしまう人間も多い。なのになぜ忘れられなかった?
二十年後に!
仁のあの目を、はっきり覚えている。
そう言いながら、仁さんの方こそ俺を忘れたんじゃないの? すてきな奥さん、可愛い子供たちに囲まれて。
三月末のあの夜。
今年も会えないだろう、と由宇は思っていた。
二十年後に会おう。
仁はそう言ったが、公園で会った夜から二十年後とは、昨年の今日だ。日付が変わるまで粘ったが、仁は現れなかった。
いよいよ、トモちゃんの所に行くか。
だが、ふと別の思いが浮かんだ。
二十年後とは、もしかして来年ではないのか。
子供が大人に、つまり二十歳になったら、という意味だと。
別れた七月にお腹の子は三か月だった、誕生はおそらく次の年の二月ごろ。今年はまだ十九歳?
もし仁が、二十年後イコール子供が二十歳、と言いたかったのだとしたら。
由宇は、もう一年だけ、死ぬのを先延ばしにした。
ベンチに、仁らしき姿を認めたとき。
由宇は、目がおかしくなったのだと思った。視線に気づいてこちらを見た男性は、間違いなく仁だった。どこも、何も変わっていない愛しい男。
見苦しい中年に成り下がっていたら、気づかぬふりで逃げよう。そんな風に思っていたのに。
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